ハンドルが一つか二つか、それが問題だ。~エルメスの哲学~
カランコロン、とドアベルが鳴った。しかし、来客ではない。午後の西日が差し込む静かな店内で、アルバイトの桃香が溜息まじりに雑誌のページをめくった音だった。
「はぁ〜……素敵すぎる……」
桃香の視線の先には、エルメスのバッグ特集が組まれている。
ケリー、バーキン、色とりどりの”女王”たちが、紙の上で輝いていた。
「桃香ちゃん、またそのページ見てるのか。そんなに穴が開くほど見つめても、うちの店の在庫にはなりゃしないぞ」
カウンターの奥で、伝票整理をしていた店長のコオタが呆れたように言った。
彼の店『時の蔵』は、高級時計やジュエリーがメインで、ブランドバッグの持ち込みはそこまで多くない。
「だって店長!見てくださいよ、このケリー20!もう宝石みたい!でも、定価で155万円からなのに、中古だと300万円とか460万円にもなるんですよ!?信じられます!?」
「信じられるさ。それが今の相場だからな。うちはそれを査定して買い取るだけだ」
コオタは興味なさそうに肩をすくめる。
彼のそういうドライなところが、桃香には少しだけ不満だった。
「バーキンだって、25なら定価188万円くらいなのに、中古で350万円近くになることもあるんです!今のトレンドは、とにかく30以下の小さいサイズなんですよね!」
「ああ。ケリーなら25と28、バーキンなら25と30。このあたりは異常な高騰っぷりだ。逆にケリーの32とか、バーキンの35みたいにサイズが大きくなると、状態次第じゃ定価より安くなることもある。面白いもんだよな、需要と供給ってのは」
まるで教科書を読むように淡々と語るコオタに、桃香が「も〜、店長はロマンがないんですから!」と頬を膨らませた、その時だった。
カランコロン。
今度こそ、本物の来客だった。柔和な笑みを浮かべた紳士、常連の田崎さんだ。
「おや、こんにちは。何やら楽しそうな話をしていますね」
「田崎さん!こんにちは!今、エルメスの話をしてたんです!」
桃香がぱっと顔を輝かせる。この紳士は、なぜかブランド品に滅法詳しいのだ。
「ほう、エルメス。永遠の憧れですな。特にバーキンとケリーは奥が深い」
田崎さんはそう言うと、桃香が見ていた雑誌を覗き込んだ。
「なるほど。最近のトレンドは小さなサイズですか。確かに、中古市場ではケリーの20や25が、バーキンなら25や30が群を抜いて高値で取引されていますね。トゴやエプソンといった人気の素材なら尚更です」
まるで見てきたかのように語る田崎さんに、コオタも少し身を乗り出す。
「桃香ちゃんがさっき騒いでいた通りですよ。まったく、投機対象みたいになってて、俺はどうも好きになれませんね」
コオタのぼやきに、田崎さんはくすりと笑った。
「まあまあ、店長さん。ですが、その”違い”に熱狂する人がいるのも事実。例えばバーキンと一口に言っても、基本の他にいくつか種類があるのはご存知ですかな?」
「え、そうなんですか!?」と桃香が食いつく。
「ええ。まず、基本のバーキンは『内縫い』ですが、縫い目が外側にある『バーキン セリエ』というモデルがあります。外縫いなのでカッチリとした印象で、フォーマル感が増しますな。型崩れしにくいのも特徴です」
「へぇ〜!内縫いと外縫い…」
「それから、持ち手の一部などにクロコダイルやリザードといったエキゾチックレザーを使った『バーキン タッチ』。そして、横長のフォルムが特徴的な『ショルダーバーキン』。よく似たバッグにオータクロアがありますが、あれはバーキンの原型であって、バーキンの種類ではないんですよ」
流れるような解説に、桃香は目をキラキラさせて頷いている。
「じゃあ、ケリーはどうなんですか?」
「ケリーも面白いですよ。大きく分けると3種類。皆さんがよく知る通常のケリーは、カジュアルにもフォーマルにも使える万能選手です」
田崎さんは指を一本立てた。
「しかし、ハンドルがない『ケリーダンス』というモデルがあります。これは付属のストラップを付け替えることで、ボディバッグやバックパック、ショルダーバッグなど、何通りにも使えるんです。主にカジュアルな使い方がメインになりますな」
「一つでそんなに!?すごい!」
「そしてもう一つが『ポシェットケリー』。こちらは横長のクラッチバッグで、ハンドルはありますが、手で抱えるように持つのが基本スタイル。パーティなど、フォーマルな場面で活躍するバッグです」
そこまで聞いて、桃香はうっとりと天を仰いだ。
「奥が深すぎる……。カジュアルからフォーマルまで、縫い方や使い方で全然違うんですね……。エルメス、恐るべし……」
その横で、コオタがふう、と息をついた。
「まあ、うちは買取専門店だ。内縫いだろうが外縫いだろうが、ダンスしようがポシェットだろうが、持ち込まれた品を正しく見極めて、適正な価格を提示する。ただそれだけだ」
店長らしい言葉で締めくくるコオタ。
だが、その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを、桃香は見逃さなかった。
「あれ〜?店長、高額品は好きじゃないんじゃなかったでしたっけ?なんだかんだ言って、すっごく詳しいじゃないですか!」
「う、うるさい!仕事だから当然だ!」
真っ赤になってそっぽを向く店長と、楽しそうに笑う田崎さん。
買取専門店『時の蔵』の午後は、女王たちのささやきに耳を傾けながら、ゆっくりと更けていくのだった。




