桃香のディオール入門〜ライン名と商品名がわかりづらい〜
査定を待つ品々が雑然と置かれた棚の片隅で、アルバートの桃香はパソコンの画面と睨めっこをしていた。
「うーん、これも違う…あれも違う…。あっ、これは似てるけど…!」
バックヤードで在庫整理をしていたはずの彼女が発する、独り言とも唸り声ともつかない声。
その手元では、マウスのホイールが目まぐるしく回転している。
彼女が見ていたのは、フランスの高級ブランド、ディオールのバッグが万華鏡のように並んだウェブページだ。
「店長ー! ちょっと、ちょっとだけ、これを見てください!」
ついに探求心が我慢の限界を超えたのか、桃香がキラキラと、いや、もはやギラギラと潤んだ瞳でコオタを振り返った。
「ん、なんだ。またブランドの研究か。熱心なのは感心するが、バックヤードの段ボールは片付いたのか?」
帳簿の数字と格闘していた店長のコオタは、眉間のシワを少しだけ深くして顔を上げる。
高額品は好きではない。
だが、仕事は仕事。
知識なくして、この商売は成り立たない。
しかし、それにしても桃香のブランドへの情熱は、時としてコオタの精神的キャパシティを軽くオーバーフローさせてくるのだ。
「それがですね! ディオールって、すっごく似てる柄が多いじゃないですか! ライン名と商品名も複雑で…。お客様に『このトロッターのバッグ、お願い』って言われた時、実はオブリークだったらどうしようとか、ちゃんと答えられないとプロとして恥ずかしいなって…」
桃香が指差す画面には、びっしりと「Dior」のロゴが並んだ、瓜二つのバッグが二つ、並んで表示されていた。
「ああ、トロッターとオブリークか。一番ややこしいやつだな。見た目が似てるからって、同じ値段で買い取れると思うなよ、と何度言いたくなったことか…」
「えっ、やっぱり見ただけでわかるんですか!? さすが店長!」
コオタがげんなりした顔で答えると、カラン、と年季の入ったドアベルが涼やかな音を立てた。
「こんにちは、皆さん」
柔らかなバリトンの声の主は、店の常連客である田崎さんだった。
上質なツイードのジャケットを羽織った彼は、ふらりとカウンターに近づくと、二人の会話が聞こえたのか、にこりと口元を綻ばせた。
「おや、ディオールの勉強ですか。素晴らしい探求心ですね」
「田崎さん! ちょうどいいところに! 先生、どうかこの迷える子羊に、お導きを!」
待ってましたとばかりに桃香が拝むように手を合わせる。
田崎さんはその大げさな仕草に苦笑しつつ、柔和な表情を崩さないまま、ゆっくりと画面を覗き込んだ。
「ふむ。これは良い教材ですね。まず、左がトロッターライン。Diorのロゴが平面的なプリントのように、整然と並んでいるのが特徴です。どちらかというとのっぺりした、クラシックな印象を受けますね」
「はいはい! まさにヴィンテージって感じの!」
「その通り。そして右がオブリーグライン。これは、一度は姿を消したトロッターを、2017年から2018年頃に現アーティスティック・ディレクターのマリア・グラツィア・キウリが、現代の技術と感性で再解釈して見事に復活させたものなんです」
田崎さんはすっと人差し指を立て、言葉を続ける。
「オブリークはね、よく見てください。プリントではなく、刺繍によって柄が描かれているでしょう? そのため、独特の凹凸と光沢があって、非常に立体的なんです。なんでも、9700本もの糸を寸分の狂いもなく織り上げる、恐ろしく緻密な技術で作られているとか。ですから、製造年と、この刺繍の立体感で見分けるのが最も確実でしょうね」
「9700本…! なるほど、だからこんなに高級感があるんだ! 職人技の結晶なんですね…!」桃香はうっとりと画面を撫でた。
コオタは
「うちは美術館じゃないんだがな…」
と小さくぼやきつつも、その耳はしっかりと田崎さんの解説に傾いている。
市場価値に直結する情報は聞き逃せない。
「じゃあ、この格子状のステッチが入ったバッグはなんですか? 『レディディオール』っていう商品名は、ダイアナ元妃が愛用したからついたんですよね?」
「その通り、素晴らしい。それこそがカナージュラインです」
と田崎さんは頷く。
「かのクリスチャン・ディオールが、顧客を招いたファッションショーで使っていたナポレオン三世様式の椅子の籐の編み込み模様。そこから着想を得たと言われています。エレガントで、時代を超えて愛される理由がわかるでしょう?」
「椅子の模様から…! 日常にある美しさを見出すなんて、おしゃれすぎます…!」
桃香の興奮は留まる所を知らない。
「ブックトートによくある、この絵みたいなデザインも気になります! こっちはお城と動物で、こっちはパリの街並みですよね?」
「ええ。それぞれトワル ドゥ ジュイラインとプラン ドゥ パリライン」
田崎さんは舌を噛むことなく、話はじめた。
「トワル ドゥ ジュイは18世紀フランスの伝統的な布地に描かれた、単色刷りの絵画調デザインをモチーフにしています。プラン ドゥ パリは、その名の通りメゾンの原点であるパリの地図を繊細なタッチで描いたもの。どちらもブックトートのアイコン的デザインですね。持つだけで物語の世界に旅立てそうです」
「物語の旅…素敵! でも、こんな素敵な絵のバッグ、使うのがもったいなくなっちゃいますね」
「ふふ、ですがデザイナーは、女性がそれを持ち、街を歩くことで、そのデザインは完成する、と考えているのかもしれませんよ」
田崎さんの粋な言葉に、桃香は深く頷いた。
「なるほど…! デザインの背景を知ると、査定するときの見方も、お客様への説明の仕方も全然変わってきそうです!」
「まあ、背景の物語を熱弁したところで、買取額がポンと上がるわけじゃないがな。結局は状態と付属品の有無だ」
コオタが現実的な釘を刺すが、桃香の質問ラッシュはもう誰にも止められない。
「じゃあ、このトロッター柄に赤と黄色と緑の線が入ってるのは?」
「ああ、それはラスタライン。レゲエミュージックを愛した当時のデザイナー、ジョン・ガリアーノらしい、遊び心に満ちたデザインです」
「こっちのメタルプレートに『Dior』ってくり抜いてあるのは?」
「ストリートシックライン。少し武骨でカジュアルな印象が特徴です」
「このバッグの留め具、『D』の形になってます!」
「それはディオラマライン。カナージュをよりグラフィカルに、モダンに表現しているのも特徴ですよ」
「じゃあ、この細いバーみたいな金具は…?」
「ニューロックライン。左右の丸い突起を操作して開閉する、少しマニッシュなデザインです」
「このトロッター柄にリボンがついてて、ビニールコーティングされてるのは?」
「ロマンティックラインですね。名前の通り、ガーリーで甘いデザインです」
「パテント素材にロゴが型押しされてるのは…?」
「アルティメットラインです」
「このプレートと、ぶら下がってるアルファベットの金具は…!」
「それはラブリーライン。レディディオールのチャームとはまた違う、独特の愛らしさを持つ金具ですね」
淀みなく、泉のように湧き出る田崎さんの知識の奔流に、桃香はもはやメモを取るのに必死だ。
コオタは呆れ果てたように腕を組んでいたが、その口元には、いつしかかすかな笑みが浮かんでいた。
「…田崎さん、あんた一体何者なんだ…。同業者でも、そこまでスラスラとは出てこないぞ…」
コオタの心の声が、思わず口から漏れた。
田崎さんは質問には答えず、
「さあ、ただの通りすがりですよ」
と悪戯っぽく笑って、いつものようにカウンターの隅で茶をすすり始めた。
「よし! 今日の講義、全部メモしました! これでディオールの査定は完璧です、店長!」
「ほどほどにな…。まあ、その熱心さだけは評価してやらんこともない」




