店長、そのシャネルのステッチの違い、わかります?
カランコロン、と寂れたドアベルが、午後の気だるい空気を揺らした。
「いらっしゃいませー」
買取専門店のカウンター奥。
万年五月病を患っているかのような店長のコオタが、古雑誌から億劫そうに顔を上げる。
その視線の先では、アルバイトの桃香が、まるで光に吸い寄せられる虫のように、査定待ちのトレイに置かれた一つのアクセサリーに夢中になっていた。
「店長、見てください!このイヤリング、アンティークっぽくてすごく可愛い!パールがついてますけど、シャネルのパールは基本的にフェイクなんですよね。でもそこがいいんです!本物の宝石に頼らない、デザインで勝負するぞっていう気概が…あ、でもロゴマークはついてないですね。これって本物なのかな…」
「もちろん俺が買い取ったんだから本物だよ。でも客が欲しがるのは、誰が見ても一目でシャネルだとわかる、これ見よがしなココマークがついたやつだ。そんな玄人ぶったうんちくを垂れても、査定額は上がらんよ」
コオタが冷たく言い放った、まさにその時。
店の入り口に佇んでいた影が、穏やかな声で会話に割って入った。
「おや、桃香ちゃん、いいところに目をつけたね。もちろんロゴがないタイプも存在する。シャネルのイヤリングは、刻印の変遷だけでも本が一冊書けるほど奥が深いんだよ」
声の主は、この店の常連客、田崎さんだった。
歳は50代だろうか。
いつも柔和な笑みを浮かべているが、その瞳の奥には底知れない知識が渦巻いている。
特にブランドに関する詳しさは、同業者も舌を巻くレベルの謎の男だ。
「田崎さん!こんにちは!そうなんですね!やっぱり奥が深い…。バッグもそうで、ラインが多すぎて頭がパンクしそうです。マトラッセは基本として、それに大きなココマークのプリントがあればカンボンラインになって、キルティングにロゴ刺繍が入ると復刻トートになるし…」
桃香が、昨日必死に暗記した知識を呪文のように唱えると、田崎さんは
「うん、うん」と父親のような眼差しで頷いた。
「ほうほう、大分頭に入ってきたじゃないか。じゃあ、桃香ちゃん、あそこに置いてあるダウンジャケットみたいにモコモコしたバッグは何というラインかな?」
田崎さんがカウンターに無造作に置かれた、ふかふかした手触りのバッグを指さす。
「えーっと、ココ…ココ…」
「コココクーンだ。繭って意味だな。覚えとけ」
桃香の言葉を奪うように、コオタがぶっきらぼうに訂正した。
その横顔は、興味などないとでも言いたげだ。
「おや、店長も詳しいじゃないか。まるでシャネルがダウンジャケットを作ったら、という遊び心から生まれたようなデザインだね。じゃあ、トラベルラインとニュートラベルラインの違いは?」
田崎さんが、試すようにコオタに視線を送る。
「……ナイロン地に斜めの線が入ってるのが旧型、四角い模様の市松柄が新しい方だろ。そんなもん見りゃわかる」
「さすがだね。では、いよいよ本丸だ。初心者が必ずつまずく、一番ややこしいステッチの話をしようか。ワイルドステッチ、ウルトラステッチ、ビコローレ、コスモス、パリビアリッツ。さあ、この違いは?」
挑発的な田崎さんの言葉に、コオタはついに黙り込み、プイッとあらぬ方向を向いてしまった。まるでクイズに答えられない子供のように。
「わ、わからないです…。名前だけ聞くと、なんだかプロレスの技みたいですね…」
桃香が助けを求めると、田崎さんは待ってましたとばかりに、教鞭をとる教授のように語り始めた。
「いいかい?まず、ワイルドステッチはその名の通り、太い糸でざっくりと縫われているのが特徴だ。それに対してウルトラステッチは、さらにその上をいく極太の縫い目。そしてビコローレは、イタリア語で『2色』という意味もあるけど、ここでは二重のステッチを指す」
「へぇー!なるほどー!」
桃香は必死にペンを走らせる。
「フン、ただの縫い方だろ。太いか、もっと太いか、二本線かの違いじゃないか。いちいち大げさな名前をつけやがって」
コオタの悪態にも、田崎さんは動じない。
「ここからが面白いんだよ、店長。コスモスラインは、このビコローレにそっくりなんだが、よく見るとステッチじゃなくて『片押し』、つまり型押しで模様が作られている。そしてパリビアリッツは、そもそもステッチのライン名じゃない。南フランスのリゾート地の名前で、ワイルドステッチに近い太糸を使った、キャンバス地が特徴のシリーズ名なんだ。TPOに合わせて、少しカジュアルダウンさせているのがミソなのさ」
「すごい…すごいです、田崎さん!もはやシャネル学の博士ですね!」
「ははは、ただの物好きだよ。でも、その違いが価値を生むんだ。例えば、板チョコみたいな四角いキルティングのチョコバーも特徴的だけど、そこにカメリアの花のモチーフがついた瞬間に、主役はカメリアになる。星やクローバーが散りばめられればアイコンライン、バッグ全体が氷みたいに銀色ならアイスキューブ。全部、違う名前で呼ばれ、違う価値で取引される」
「くだらん。客を混乱させて、高く売るための口実だ」
コオタの言葉に、田崎さんはさらに楽しそうに続ける。
「それこそがブランド戦略さ。開口部の金具一つで名前が変わるんだからね。『2.55』は創業者であるココ・シャネル自身がデザインしたオリジナルの証、『マドモアゼルロック』という四角い金具。今よく見るココマークの金具は『ターンロック』と言って、これだけでデザインの時代がわかる。持ち手がチェーンなだけで『ラグジュアリーライン』、ラバー素材のロゴなら『スポーツライン』。果てはバッグに掛け算がプリントされた『レッツレモンストレート』なんていう珍品まである」
「掛け算!?」
桃香が素っ頓狂な声を上げた。
「バッグに数式が書いてあるんですか!?」
「九九でも書いてあるのか。足し算もできん連中が持つバッグだろうに」
コオタが心底呆れたように吐き捨てた。
一通り語り尽くして満足したのか、田崎さんは
「じゃあ、また近いうちに来るよ」
と、知識の嵐を巻き起こしたまま軽やかに去っていった。
静寂が戻った店内で、桃香がメモ帳を閉じながら、いたずらっぽく笑う。
「店長、今の話、ぜーんぶ聞いてましたよね?なんなら私より詳しかったりして」
「……仕事だ。贋物を見抜くには、本物を知る必要がある。それだけだ」
コオタはそう言い捨てると、再び手元の古雑誌に視線を落とした。
だが、そのページに書かれている活字は、全く頭に入ってこない。
くだらない、馬鹿げていると思いながらも、その緻密に設計された世界観と歴史に、ほんの少しだけ、ほんの爪の先ほどだけ、感心してしまった自分自身に腹を立てながら。
ブランド嫌いの店長にとって、シャネルという沼は、思ったよりもずっと深く、厄介な魅力に満ちているのかもしれなかった。




