第9話 ベアトリス、静かに剣を構えた。
白亜の塔――その地下三階。
灯りの届かぬ薄暗がりの中、ベアトリス=ローデリアは静かに剣を構えていた。
目の前には、鈍重な音を立てながら迫る灰色の巨体――試作型オートゴーレム。
動きはぎこちなく、関節が軋むたびに甲高い金属音が鳴る。それでも、ベアトリスの眼差しは揺るがなかった。
「三体目……ここで決める」
万年筆型の剣を逆手に構える。黒のインクが剣先から一滴、重力に引かれて垂れ落ち、空気に触れてふわりと揺れた。
魔力の波動が静かに広がる――まるで次の一撃を予告するかのように。
瞬間、ゴーレムの拳が唸りを上げて振り下ろされた。
ベアトリスはひと跳ね、回避と同時に刃を走らせる。狙いは腹部のジョイント、わずかに露出した弱点だ。
――キィンッ!
命中と同時に、黒い閃光が炸裂した。
剣先から放たれた魔力が、敵の内部へと突き刺さる。オートゴーレムの動きが一瞬で止まり、赤い魔力の火花を散らして崩れ落ちた。
「……会心」
囁くように呟きながら、ベアトリスは息を整えた。
万年筆の剣特有の演出――黒の魔力が敵のコアへと侵入し、直接的に破壊する。それは“会心の一撃”が発動した証。
三体目にしてようやく仕留めた。その手応えは、指先に残る震えよりもはるかに強く、心に焼き付いていた。
崩れ落ちたゴーレムの胸部が、うっすらと輝いていた。
ドロップアイテムだ。
「……出た!」
銀の細鎖に、淡く光る青緑の宝石。ベアトリスはそれを拾い上げ、目を見開いた。
『幸運のブレスレット』――会心の一撃の発生率を二倍にする、ゲーム内でも入手困難とされた伝説級アクセサリー。
(やっぱり……この世界は、本当に、あのゲームと同じなんだ)
震える指でブレスレットを左手首に巻く。
瞬間、魔力が共鳴し、剣がかすかに反応した。まるで「これが正解だ」と告げるように。
万年筆の剣と、幸運のブレスレット。
かつて“ネタ装備”と嘲笑されていたそれらが、いまや彼女の切り札だった。
(これで、次の階層も……いや、その先だって戦える)
そう確信しながらも、ふと脳裏をよぎった疑問に、心が揺れた。
(でも……私は、何のために戦ってるの? 何を、目指してるの?)
答えは、まだない。
けれど、立ち止まるつもりもなかった。
「……今日は、ここまでにしておこう」
静まり返る地下迷宮の中、ベアトリスは剣を収め、ゆっくりと踵を返した。
背後で崩れたゴーレムの残骸が、カラリと乾いた音を響かせる。
帰り道は慎重に。それでも心は軽かった。
戦闘を避けつつ階段を登るたび、胸の奥が高鳴っていた。
(これからだ。私はもう、ただの伯爵令嬢じゃない)
寮に戻ったとき、すでに宵は過ぎていた。
カーテンの隙間から覗く夜空には、細い月がひっそりと浮かんでいる。
剣と装備を整え、シャワーで汗を流す。
制服に着替え、ブレスレットを宝石箱へと納めたその手は、どこか誇らしげだった。
ベッドの上に身を投げる。目を閉じれば、次の作戦が自然と浮かぶ。
学院生活は、始まったばかり。けれど彼女はすでに、この世界の“ルール”を理解し始めていた。
そして、ベアトリスは確信していた――
この世界でも、自分は必ず頂点に立つ。
その夜、風が静かに学院の塔を撫でていた。
◆ ◆ ◆
翌日、学院の学食。昼時のざわめきの中、ベアトリスは一人でトレイを手に席へと向かっていた。その姿を見た周囲の女生徒たちが、ひそひそと声を交わす。
「ねえ、昨日のお祭りの日、ベアトリス様、一人で街を歩いていたんですって」
「シャルル様と婚約してるのに? やっぱり王女殿下との噂、本当だったのね」
「うん、王女殿下のお世話で忙しいからって、エスコートも断ったんでしょ? 婚約者を差し置いて王女殿下の方が大事なんて、かわいそうに……」
聞こえるように放たれる嫌味な声。ベアトリスは静かに息を吸って、何も言わずに席に着いた。だが、内心では怒りが渦巻いていた。
(事情も知らない令嬢たちが、好き勝手言って……)
不機嫌そうにランチを早々に平らげると、彼女はすぐに席を立ち、食器を返却して食堂を後にした。
向かう先は、学院の魔術演習棟。その奥にある研究室には、魔術講師エレンスト先生がいる。目的は、次のダンジョン攻略に不可欠な「ボーナス部屋の鍵」だった。
このアイテムは通常の方法では入手できず、ゲーム内でも特定の条件を満たす必要があった。その条件とは――
(エレンスト先生に、〈忘れられた記憶の結晶〉を渡すこと)
ベアトリスは、その入手法も記憶していた。学院の中庭にある古びた噴水の裏、夜中の0時から0時15分の間にだけ出現する光の蝶を追っていくと、その蝶が結晶へと姿を変える。
そのためには、夜中まで起きていなければならない。規則を破る行為だが、今のベアトリスにとっては些細な問題だった。
(それさえ手に入れば、ボーナス部屋に挑める。そして、あのスキル書が……)
再び気合いを入れ直し、ベアトリスは歩を進めた。学園の中での孤独を抱えながらも、彼女の瞳は決して揺るがない光を宿していた。
目指すは、自らの力で切り開く未来。その先にある勝利と、失われた尊厳の奪還のために――。