第10話 ベアトリス、アップルパイを焼く
『紅く実る、約束の果樹園』
―学院食堂のアップルパイ―
月曜日の放課後、学院の食堂にはいつもと違う香りが漂っていた。
――甘く、少し香ばしい、焼きたてのリンゴとバターの匂い。
「おーい、こっちのバター、足りるかー?」
ランスロットがエプロン姿で声を張りながら、大皿にのせた林檎のスライスを手に、調理台の奥へ向かう。
「ちょっと待って、それまだ砂糖絡めてないわよ」
ベアトリスが木べらを片手に指摘する。彼女もまた、金の髪をリボンでひとつにまとめ、真剣な表情でボウルの中身を混ぜていた。
「これがあの“王都の金の薔薇”の本気……」
ルークは思わずつぶやく。
「なに?」
「いや……なんでもない」
ベアトリスが振り向いたその一瞬で、ルークは目をそらし、リンゴの皮むきに集中するふりをした。
キャンベラはその様子を横目に見ながら、手元でパイ生地を均等に伸ばしている。
「なんか、文化祭みたいだね。こういうの」
「ほんと。材料持ち寄って、みんなで台所を借りてって。ちょっとしたイベントね」
ベアトリスはくすりと笑って、木べらを置いた。
「でも、せっかく果樹園で収穫したんだもの。ちゃんと“かたち”にしたくて。季節の記憶って、味に残るから」
「詩人かよ」
ルークがぼそりと呟く。
「……聞こえてるわよ」
「すみません」
そうしてしばらく、四人の作業は続いた。
リンゴは皮を剥かれ、薄くスライスされ、砂糖とレモン汁、そしてシナモンで軽く炒められていく。バターの香りが弾け、香ばしい匂いが食堂中に広がっていく。
「ルーク、シナモン多すぎない?」
「え、これくらいじゃないのか?」
「味見してないでしょ。やり直し」
「はい……」
「ランスロット、焦げないように見てて!」
「了解、女王陛下!」
「誰がよ!」
キャンベラは笑いながら、型に生地を丁寧に敷き込んでいく。
――こうして並ぶと、本当に不思議だ。
気高くて孤高で、誰もが見上げる存在だったベアトリスが、今ではこんなふうに誰かと笑い合っている。
「……前は、こんなの、想像もできなかったな」
キャンベラはふと、手を止めて呟いた。
「え?」
「ううん、こっちの話。さ、焼きに入ろうか。タイマー、お願い」
ベアトリスが頷き、ルークが魔法で調整した火炉にパイ皿を滑り込ませる。
「これで30分。あとは、うまく焼けるよう祈るだけ」
「祈る相手は?」
「リンゴの神様?」
「シナモンの精霊?」
「もう、あんたたち……」
呆れたように笑いながら、ベアトリスはスツールに腰を下ろした。
食堂の窓の外では、夕陽が学院の尖塔を金色に染めていた。秋は深まり、日暮れは早い。窓辺には果樹園で摘んできた赤い実が、籠の中で静かに光っている。
「焼き上がったら、誰に食べてもらう?」
ふいに、キャンベラが問う。
「え?」
「たとえば……大切な人が一人だけいたら。その人に食べてもらうって思って作ったら、もっと美味しくなると思うよ」
「……そういうの、苦手」
ルークが先に答える。顔を背けて。
「ふうん、そういうとこが不器用って言われるんだよ?」
「別に言われてない」
「言われたいの?」
「いや、別に……」
会話がかみ合っているようで、かみ合っていない。
けれど、そのやりとりが、今の四人には心地よかった。
「私は、みんなに食べてほしいな」
ベアトリスがふと、真っ直ぐに言った。
「この学院で出会った人、果樹園で笑った人。みんなが、季節の味をひとつ、覚えていてくれたらって思うの」
「それって……」
「うん。ひとつの記憶って、いつか誰かを救うから」
ルークは、ぱちりと瞬きをした。
彼女が微笑むたび、胸の奥がじんわりと熱くなる。
それは憧れの熱か、恋の火か――本人にも、まだよくわからなかった。
「焼けたみたい」
キャンベラが、ふわりと香る匂いに気づき、立ち上がった。
ルークが魔法で炉の扉を開き、金色のパイを取り出す。
パリッと焼けた表面。とろける果実。湯気の奥に、秋の記憶が詰まっていた。
「……いただきます」
四人で囲む、ひとつのテーブル。
ナイフで切り分けられたアップルパイの断面から、甘酸っぱい香りが立ちのぼる。
「ん、これ、うまっ!」
ランスロットが思わず声を上げる。
「これ、ベアの味だ」
「え、どういう意味?」
「なんとなく、上品で、あったかくて、ちょっと手間がかかってて」
「手間って言わないで」
みんなが笑った。
キャンベラも一口食べて、ふわりと目を細めた。
「ねえ、また来年も……果樹園、行こうか」
その言葉に、誰もが頷いた。
ルークは、そっとベアトリスの隣を見た。
彼女は、少し赤く染まった頬で、秋の果実を味わっていた。
――たったひとくちで、季節が胸に刻まれる。
そんな魔法のような、放課後の一皿だった。




