第6話 ベアトリス 3年前のお話、目覚めの刻
ベアトリス=ローデリア、目覚めの刻
王都の中央にそびえる白亜の塔。その頂には、王都学院と呼ばれる学舎が存在する。貴族の子女たちの中でも、選ばれし者のみが入学を許される名門中の名門だ。
ベアトリス=ローデリアがその門をくぐったのは、十二の春。彼女はローデリア伯爵家の令嬢として、生まれながらにして気品と才知に恵まれ、将来を嘱望される存在だった。
本来ならば、彼女の三歳年上の婚約者――シャルル=フォンティーヌが、入学式の日には彼女をエスコートしてくれるはずだった。高貴な銀髪と涼やかな蒼眼、そして騎士道精神を体現したような立ち居振る舞い。彼の隣に立てば、誰もが彼女を羨む……はずだった。
だが――
「申し訳ない。生徒会の用件で、王女殿下のお世話があるのだ。エスコートは難しい」
その一言が、ベアトリスの胸を冷たく貫いた。
……は?
何を言っているの、この人は。
心の中で凍りついたような沈黙が広がる。
普段のベアトリスなら、「それならば仕方ありませんわ」と微笑みながら引き下がっただろう。けれども、その日は違った。
なぜなら、その瞬間――
(あれ……これ、ゲームじゃない?)
唐突に、彼女の中に“前世の記憶”が流れ込んできたのだ。自分は病院であのまま死んだのか!18歳の春、ほぼ生涯の半分以上を病院で過ごした人生。わたしは死んだのだ。
病気との戦いで、唯一の楽しみがゲームだった。わたしの人生は何だったのだろうか? そして、このゲームのシナリオ通りに行けば、わたしはまた・・・若くして死ぬのか!
繰り返し見た画面、攻略チャート、選択肢。推しキャラたちのイベントCG。忘れるはずもない。これは、前世で自分が遊び尽くした乙女ゲーム《ルミナリア・レヴェリエ》そのものではないか!
そしてそのゲームでベアトリスは、悪役令嬢だった。
シャルル=フォンティーヌは、ヒロインが攻略できるルートの一人。王女殿下はライバルポジションにありながら、隠しルートでシャルルと恋に落ちることも可能だった。
(そんな馬鹿な……でも、説明がつく。あの生徒会って、まさに王女殿下と攻略対象たちの集まりじゃない!)
シャルルが王女の世話をするという展開――それは、ゲーム内でベアトリスを陥れるイベントの一つだった。ベアトリスを死においやったイベント!
「ふざけないで……! 乙女ゲームの悪役? 私が?」
その瞬間、心の奥底から熱が湧き上がった。怒りだった!また死んでたまるもんですか!
――いいえ、そんな運命は、断じて受け入れない。
入学式が終わるや否や、ベアトリスは荷物を寮の自室に放り込み、日記帳を開いて記憶の断片を書き出した。ゲームの攻略ルート、イベントフラグ、ステータス画面。彼女の記憶は冴え渡っていた。
この世界はゲームである。そして私は、その中で悲惨な結末を迎える“悪役令嬢”。
同時に考えた。今は健康な体があるのだ。そして、生きているのだ。ならば――答えは簡単だ。運命を書き換えればいいだけのこと!
まず手をつけたのは、ダンジョンの探索だった。ベアトリスは急いでダンジョンに向かった。
王都学院の地下に広がる〈白亜の塔のダンジョン〉。これはゲームでも重要な攻略スポットであり、地下3階まではレベル5以上の生徒なら自由に挑めた。
(幸い、私のレベルは5。辺境伯爵領の森で魔獣狩りをしてきた成果ね)
貴族令嬢としては破格の戦闘経験を持つ彼女は、ブレードワンドを腰に装備し、ダンジョンの入口へと向かった。
地下1階。広がる石造りの通路に、スライムやラット型の魔獣たちが蠢いている。
「炎の精霊よ、応えなさい――《ファイア・スパーク》!」
小さな火球がスライムを焼き払う。彼女の詠唱は滑らかで、魔力制御も精緻だった。
(なるほど、スキル習得も前世と同じね。ここまで一致してるなら、あのボスもいるはず……)
地下3階、〈魔炎のゴブリンロード〉。序盤の関門にして、最初のレア装備が手に入る強敵。前世では何度もゲームオーバーになったが、彼女には先の知識がある。
それは絶対的な優位性――運命を覆す力。
試すのは、これからだ。
◆
その日の夜、寮の部屋。ベアトリスは椅子に腰掛けながら、窓の外を見つめていた。
王都の灯りが夜空に浮かぶように煌めく。ここは夢のような世界だ。だが、夢は夢のままでは終わらない。わたしはまだ生きている。生き返ったのだ!
――これは戦いだ。生死を掛け戦いである。
王女殿下に婚約者を取られるなんて、そんなバカげた未来はどうでも良い。わたしは生きるのだ!あの苦しい病院生活を思い出せば、ここは天国のようなものだ。歩くことができる。走ることだってできるのだから。そして、せっかく生まれ変わったのだ!やれることをやるべきだ!
「私が……主人公になってみせるわ」
彼女の言葉は、静かでありながら強く、燃えるような情熱を宿していた。
攻略対象の心を奪うのも、イベントを主導するのも、どんな結末を選ぶのも――
全て、彼女の意志次第だ。わたしのやりたい未来を手に入れる。
(しかし、注意することもある。そうあの子――このゲームの“ヒロイン”が転生者じゃないとも限らない。なら……わたしの邪魔をするのならば、全力で潰すまでよ)
そう。ベアトリスはただの“悪役”じゃない。
彼女はすでに、運命の支配者へと変貌しつつあった。
次なる目標は、〈魔炎のゴブリンロード〉を討伐し、入手できる《紅蓮の指輪》を装備すること。これはゲームでも、隠しスキル〈魔力圧縮〉を解放するキーアイテムだった。
そして、それが開放されれば、王女殿下やシャルルといった“初期優位キャラ”たちと対等に戦える土台が整う。
「やってやろうじゃない。私にだってプライドはあるのよ、シャルル」
そう言って、ベアトリスはくすりと微笑んだ。
この世界がゲームなら、ルールは覚えている。イベントも覚えている。
だが、ただ一つだけ――
攻略ルートの先に、彼女自身の未来はなかった。
ならば、創ればいい。新たなルートを、自らの手で。
(エンディングが悲劇だなんて、冗談じゃない)
この世界は、もう“前世の記憶を持つベアトリス”によって塗り替えられていく。
静かな闘志が、白亜の塔の夜に燃えていた――。