第28話 シャルル、ベアトリスへの未練
春の陽は過ぎ去って
風が、過ぎていった。
シャルル=フォンティーヌは庭園に立ち尽くしたまま、春の光が遠ざかっていくのを感じていた。目の前にいた少女――ベアトリス=ローデリアは、すでに魔術書を手に立ち去っていた。その背中を引き止めることは、もう叶わなかった。
足元の芝の上に影が落ちる。振り向くと、ルクレツィア王女がそこに立っていた。表情は複雑だった。怒りでも、哀しみでもない。ただ、少し寂しげな顔。
「……全部、本当だったのね」
問いではなかった。シャルルは、ただ静かに頷くしかなかった。
「すまない、ルクレツィア様。隠していたつもりは……ありません。ただ、向き合うことが、怖かった」
王女はふっと息をついた。
「怖かった、ね。わかるわ。でも……彼女は、あれほど強い決意を持って、あなたに別れを告げた。あなたが何を言っても、もう戻らないでしょうね」
その言葉に、胸が締め付けられるようだった。だが、それこそが真実だった。
***
シャルルはその夜、学院寮の自室で一人、机に向かっていた。開かれた引き出しの中に、一通の手紙がある。
封は未開封のまま。ローデリアの家紋が刻まれたそれは、確かに一月前に届いていた。だが、彼はそれを「また同じような定例報告だろう」と、読まずに脇へ置いた。
怠慢だった。そして、無関心だった。
シャルルは震える指で封を切る。
筆跡は、ベアトリスのものではなかった。代筆された文書。だが、そこに綴られた言葉は冷然と、しかし丁寧に、こう記されていた。
「本書をもって、フォンティーヌ家との婚約を破棄いたします。以後、両家の関係は旧来の社交的礼儀の範囲に留め、個人的な交際は控えさせていただきたく存じます。」
シャルルは目を閉じた。
「……私は、彼女を……置き去りにしたんだ」
あの笑顔。あの言葉。ずっと思い出していなかったわけじゃない。ただ、王女の傍にいる時間が増えるにつれて、自分の感情に蓋をすることが習慣になっていた。
王女は彼を信頼していた。心を開き、時に他の誰にも見せない顔を彼にだけ見せてくれた。シャルルはその絆を、何よりも大切に思っていた。
だが、それが――彼女を、裏切ることだったと、今になってようやく分かる。
***
数日後、王女ルクレツィアの命により、学院の春の舞踏会の準備が進められていた。
シャルルはその中心となって動いていたが、心のどこかで、もう一度だけベアトリスに会いたいと願っていた。しかし、魔法コースの彼女は多忙で、姿を見ることはなかった。
「……未練がましいな」
誰にともなく呟いた。
今さら何を言ったところで、彼女の心はもう遠い。けれど――言葉にしなければ、前に進めない。そう思った彼は、一枚の便箋を取り出した。そして、静かに綴り始める。
ベアトリスへ
手紙を書くのは、ずいぶんと久しぶりですね。
本当は、こんな形でしか気持ちを伝えられない自分を、情けなく思います。
あの日、君の言葉を聞いて、私はようやく自分の愚かさに気づきました。
君が手紙を待っていたことも、入学してから会いに来なかったことが、どれだけ君を傷つけたかも。
君の選んだ魔法の道を、私は誇りに思います。
そして、誰かの代わりではなく、自分の人生を歩むという君の言葉に、強さと美しさを感じました。
謝って済むことではないと分かっています。
だから、この手紙は返事を求めるものではありません。
ただ、君がこの先の道を、自由に、幸福に歩めるよう、心から祈っています。
シャルル=フォンティーヌ
封をし、学院の文書預かりに預ける。届けられるかは分からない。読まれるかも分からない。だが、それでも、書かずにはいられなかった。
***
舞踏会の夜。
ルクレツィア王女は淡い水色のドレスに身を包み、会場の中央で微笑んでいた。その傍らに、シャルルが立っていた。礼装に身を包んだ彼は、今までよりも少しだけ大人びた表情をしていた。
「……顔つきが変わったわね、シャルル」
「そうでしょうか」
「ええ。少しだけ、哀しい顔になったけれど……その分、強くなった気がするわ」
王女の言葉に、シャルルは微笑んだ。
「私は……殿下のお傍にいて、国の未来を支える一助になりたいと思っています。過去のことは、もう戻せません。けれど――」
「けれど?」
「けれど、これからのことは、選べますから」
王女はそっと手を差し出した。
シャルルはそれを、丁寧に取った。舞踏の曲が流れる中、二人はゆっくりと踊り始めた。
春の終わりの空の下で、新たな季節が、静かに幕を開けようとしていた。




