第23話 名も知れぬ貴族令嬢、ベアトリスを心配する。
昼下がりの学食にて――あの方の笑顔
春の陽が差し込む、昼下がりの学食。木漏れ日のように柔らかい光が、ステンドグラスを通して床やテーブルに淡い彩りを落としていた。
私は、窓際の席で一人食事をしているベアトリス・ローデリア様を、遠目からそっと眺めていた。
――あの方は、まるでこの世界に溶け込まぬ異国の花のようだった。
白磁の皿の上で、丁寧に切り分けられたサンドイッチを口に運ぶ所作。背筋をぴんと伸ばした優雅な姿勢。金糸のようなブロンドの髪が、春風に揺れて煌めく。
そして、ふと漏れた小さなひと言。
「……うん、美味しい」
その声音はまるで、心の底から湧き上がる幸福を確かめるようなものだった。
――ローデリア様は、幸せなのだろうか?
私の問いは、答えのないまま宙に消えた。
*
ベアトリス・ローデリア。その名は、入学前から有名だった。名門ローデリア辺境伯家の令嬢。侯爵令息シャルル様の婚約者。才色兼備、品行方正――まさに“完璧”を絵に描いたような人物。
けれど、入学式でその姿を一目見てから、私の中で彼女の印象は少しずつ変わっていった。
完璧すぎる令嬢は、どこか孤独そうだった。
クラスメイトに囲まれていても、誰かと笑い合っている姿は見ない。廊下ですれ違えば、柔らかく微笑みはするが、その眼差しはいつも遠くを見ているようだった。
だから私は、密かに気になっていた。
彼女はどうして、あんなにも“完璧”なのに、寂しそうなのだろうと。
*
あの日、私たちは軽い気持ちで声をかけた。というより、リュシエンヌ様が切り出した話に、私たちは流されるように同席しただけだった。
「シャルル様と王女殿下が最近、親しくされていて……」
そう言いかけたリュシエンヌ様の声は、どこか震えていた。周囲にいた私たちも、内心ではその話題が“地雷”であることを分かっていた。
けれど、誰も止めなかった。興味だった。好奇心だった。もしかしたら、少しだけ、あの完璧な令嬢にヒビが入る瞬間を見てみたかったのかもしれない。
ベアトリス様は、静かにフォークを置き、こちらを見た。
「……なんの御用かしら?」
その声には怒りも焦りもなかった。ただ、冷静で、透き通っていて――それがかえって、胸に突き刺さった。
「……私は、身を引くつもりはないわ」
そう言った時のベアトリス様の表情は、ただの“婚約者”のものではなかった。
それは、自分自身をよく知り、自らの立ち位置をはっきりと理解している者の覚悟だった。
「……そもそも、始まってすらいないじゃない」
彼女の言葉に、私たちは皆、絶句した。
入学してから一度も会っていない。話しかけられたことすらない――そんな事実、私たちは知らなかった。ただ、“婚約者”という肩書きだけを見て、勝手に物語を作っていた。
けれど、それを聞いた瞬間、私は胸の奥がずきりと痛んだ。
「それって、寂しくありませんか……?」
誰がそう尋ねたのか、今となっては思い出せない。でも、問いかけたのは確かに“私たち全員”だった。
ベアトリス様は微笑んだ。
「いいえ。私は今、十分に幸せよ」
春の日差しのように、あたたかく優しい笑みだった。どこか母性的で、穏やかで、そして――どこか、もうすべてを受け入れている人のような笑み。
私の中で、何かが崩れ落ちた。
*
ベアトリス様は変わった、そう思う。
もしかしたら、元からこうだったのかもしれない。私たちが見ようとしなかっただけで。
高慢で、他人を見下していると思っていた。けれど、それは誤解だった。彼女はただ“触れられなかった”だけなのだ。
誰よりも弱さを知っていて、誰よりも強くあろうとしていた。
「今度の休みに、一緒にお茶でもいかがですか?」
誰かがそう言ったとき、ベアトリス様は少しだけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと笑った。
その笑みは、まるで氷が解けていくようだった。
私たちは知ってしまった。
あの完璧な“令嬢”は、ただひとりの“人間”であることを。
*
あの日の午後、私はひとり、日記帳にこう書いた。
「ベアトリス様は、きっと変われる人だ。
そして、私たちも――あの方を知ろうとすることができる」
学食のランチは、いつもより温かかった。スープの味が、どこか胸に染みたのは、きっと私だけではなかったと思う。




