第21話 リュシアン、親友の娘ベアトリスとの冒険を語る!
紫の契約 ―リュシアンの視点から見たベアトリス―
静かな朝だった。
ギルドの酒場は、まだ本格的に人が集まり始める前の静寂に包まれている。私はいつもの席で赤ワインを転がしながら、ゆるやかに時間を殺していた。
そして、そのとき――ふわりと、ひとつの気配が扉をくぐった。
若い娘。だが、ただの甘ったれたお嬢様じゃない。
革の鞄を背負って、どこか焦げた紙の匂いを漂わせる魔術師の気配。眼差しに、妙な芯があった。
「おやおや、可愛らしいお嬢さんだこと。もしかして依頼かい?」
言葉は軽く投げた。だが、こちらの反応をうかがうようなその瞳に、私は何か――既視感のようなものを感じていた。
名を名乗られたとき、その既視感は確信に変わった。
ベアトリス・ローデリア。アーベルトの娘。
なるほど、そう来たかと、胸の奥が僅かに疼いた。
あいつの娘が、こんな年頃になるとは。
それだけの時間が過ぎたのだ。
──アーベルト・ローデリア。
誇り高くて、愚直で、面倒くさいほど真っ直ぐな奴。
私が、かつて本気で命を賭けた戦場に立った、数少ない“背中を預けられる男”だった。
ベアトリスは彼に似ていた。
言葉の端々に、幼い頃に刷り込まれた「正しさ」が染み付いている。
けれど同時に、それをただ振りかざすのではなく、他人に強要しないところがいい。
――救いたい人がいる、と。
そのために力を借りたい、と。
最初は笑い飛ばしたさ。
露店で手に入れた“願いが叶うペンダント”だなんて、冗談にしても古臭い。
それにそれ、私が昔売りつけた代物じゃないか。まさか持ち主がこうして現れるなんて思いもしなかった。
でも、彼女は本気だった。
ペンダントの意味じゃない。
“願いを託す”という、その覚悟のほうに。
だから付き合ってやることにした。
依頼として、ではない。これは――私にとって、過去に向き合う旅でもある。アーベルトと、その娘に向き合うための。
準備の三日間、彼女の手際は悪くなかった。
知識もある。行動も早い。だが、脆さも見え隠れしていた。
瘴気の対策に護符を探し、魔物の対処にアイテムを揃えるその姿勢は立派だったけれど、どこか空回りしているところもあった。
まるで、「自分が動き続けていないと、何かが崩れてしまいそう」とでも言いたげな――そんな不安定さを、私は感じ取っていた。
夜営の準備を教えながら、私は何度か彼女を試した。
撤退ルートの確認、装備のチェック、感知魔物に備えた“沈黙の外套”の使い方。
一度教えれば、彼女はきっちり覚える。それは評価に値するけれど――
本当に大切なのは、“何が起きても、心が折れないこと”。
グラズヘイムはただの迷宮ではない。
あそこは“記憶を喰らう森”。
生半可な覚悟で踏み込めば、森に囚われ、戻って来れなくなる。
私はそれを知っていた。
仲間を失ったことがあるから。
でも、彼女は違う。
まだ何も知らない顔で、それでも目を逸らさず、こう言った。
「目が死んでたら、きっと誰も救えないもの」
そのとき、ほんの少しだけ、あの頃のアーベルトの横顔が、彼女の瞳に重なって見えた。
グラズヘイムの入口に立ったとき。
彼女は迷わなかった。
森の中から聞こえてくる呻き声や、死者の残した瘴気の匂いに一瞬たじろぎながらも、ベアトリスはまっすぐ前を見据えていた。
私はその背を見ていた。
あのときの私とは違う。
あの娘は、震えながらも歩を進める“勇気”を持っている。
ああ、アーベルト。
あんた、いい娘を育てたんだな。
私はこの旅で、たぶん何度も命を張るだろう。
だけど、悪くないと思ってる。
この娘の願いのためなら――“紫の契約”も、そう悪くない。
かつて、血と命と、裏切りと約束とで散っていったあの戦場に、もう一度立つ価値があると思えるのだから。
そして願わくば、この娘が最後まで“目を失わずに”いられるように。
私の剣が、そのためにあるのだと、今は信じてみてもいいと思えるのだ。
ベアトリス・ローデリア。
――お前、思った以上に面白いわ。
次はどんな顔を見せてくれる?
死者の森の奥で、お前が選ぶ答えを、私は見届けよう。
それが、かつての戦友への礼であり、私自身の“贖い”でもあるのだから。




