第20話 エレンスト先生、ベアトリスの深淵を見た!
忘却の縁に咲いた灯
ベアトリスという少女を、最初に意識したのはいつだっただろうか――。
エレンスト・グレイムは、学院でも有名な変わり者である。魔導薬学の第一人者として教鞭を執りつつも、常に孤高の存在として見られていた。生徒からの信頼は厚いが、必要以上に近づこうとする者は少ない。それは、彼の過去があまりにも重すぎるという噂が、どこかしらから広まっていたからかもしれない。
だが、そんな彼の心の中に、ある日、静かに入り込んできた存在がいた。
ベアトリス・ローデンベルク。
その名を聞いたとき、正直なところ、特に印象に残った記憶はない。成績は優秀、態度は礼儀正しく、控えめでいて観察力に富む――教員からすれば「手がかからない理想の生徒」の一人だった。
だが、ある時を境に、彼女は変わった。
講義が終わっても研究室に残り、質問を重ねるようになった。しかもその質問の内容は、どれもが“教科書の答え”をなぞるだけではなく、どこか本質に踏み込む鋭さを孕んでいた。
ときに、彼女は禁術の研究に関する資料まで持ち出してきた。
「これは……古い文献で見つけた術式ですが、記憶の連結に関する応用理論として……」
その瞬間、エレンストの胸の奥がざらりとした嫌な感触で満たされた。
“記憶の連結術式”――
それは、誰よりも自分が恐れていた言葉だ。
それを、何食わぬ顔で持ち出してくる少女。その瞳には、怖れもなければ躊躇いもない。いや、あったのかもしれない。けれど、それ以上に彼女の目には、知りたいという純粋な“探究の火”が宿っていた。
エレンストはその火が、かつての自分を思い起こさせた。
――危うい。だが、惹かれてしまう。
彼女は何を知っているのか。いや、どこまで踏み込もうとしているのか。
問いかけたい衝動を押さえ込みながらも、彼は自分でも気づかぬうちに、ベアトリスに目を向ける時間が増えていた。
その日、夜明け前。研究室の扉が静かに開き、彼女は結晶を差し出した。
〈忘れられた記憶の結晶〉。
その名を聞いた瞬間、背筋が凍った。
思い出してはならぬもの。封じたはずの罪。あの夜、暴走した魔法陣と、消えていった仲間たちの悲鳴。
彼女は、見つけてしまったのだ。この世界のほころびを。自分が隠し続けてきた記憶の扉を。
エレンストは恐れた。だが、結晶に触れた時――彼は再びあの記憶の奔流の中に飲まれていく。
そして見た。
若かりし自分が、仲間とともに術式の発動を喜び、その後に地獄が訪れた瞬間を。
記憶を取り戻したとき、彼の中に残ったのは、後悔でも懺悔でもなかった。
ただ――彼女への感謝だった。
彼女がいなければ、この罪は永遠に忘却の彼方へ消え去っていた。
だが、同時に思う。この少女は、危険だ。あまりに核心に近づきすぎている。
それでも、ベアトリスは言った。
「私は――先生と一緒に調べます。あの魔法陣のこと。封印の真相。そして……記憶の先にある、真実を」
あの瞳は、まるで自分がかつて抱いていた“希望”そのものだった。
――かつての私は、こんな眼をしていたのだろうか。
変わらぬ研究室の空気の中で、エレンストは少しだけ背筋を伸ばす。
彼女は、ただの生徒ではない。
結晶を通して、記憶の連鎖に踏み込んだ存在。そして、禁じられた領域に踏み込む覚悟を決めた“同志”だ。
それを、たったひとりで選び取った少女。
あの黒猫に導かれ、夢の中で何かに目覚めた彼女が、これから見る世界は――どれほど過酷なものになるのだろう。
(私はもう、彼女に何も教えられないのかもしれない……)
だが、それでも。彼は教師であろうとした。
記憶の結晶は、封じの箱にしまわれた。しかし、真実は、もう眠っていない。
少女の目に宿る光が、それを物語っていた。
――おそらく、未来を変えるのはこの生徒だろう。
過去に囚われた自分には、成し得なかったことを。
エレンストは、もう一度だけあの結晶に視線を送った。
それは、忘れられた罪の象徴ではない。目覚めを告げる灯だ。
そしてその灯を手にする少女の名を、彼は誇りをもって口にすることができる。
「ベアトリス・レインヴァルト……君は、私の教え子であると同時に、運命の扉を開いた者だ」
夜明けの鐘が鳴る。新たな一日が、始まる。
教師と生徒の“もう一つの授業”――それは、世界の記憶を辿る旅の始まりだった。




