第15話 ベアトリス、キャンベラ=フェルノと交渉する!
紫の契約 ―交渉の扉―
午後の王都は、春の陽光に包まれていた。柔らかな日差しが学生寮の屋根を照らし、どこか牧歌的な静けさが漂っている。
ベアトリスはその門前に立っていた。王都西区、魔導学院附属の学生寮。中でも、キャンベラ=フェルノ――特待生でありながら周囲に馴染まず、独特の孤高を保つ女生徒――が暮らしているという部屋へ。
(間違いない……この時間なら、寮に戻っているはず)
ゲームで得た知識に、噂話を重ねて導き出した確信。それが、彼女をこの場に導いた。
階段を上がり、寮の奥まった一室の前で足を止める。控えめに扉をノックすると、間もなく声が返った。
「誰?」
「ベアトリスです。お話があります、キャンベラ=フェルノさん」
「……知らない名前ね。用件は?」
「あなたの妹さんのことです」
――静寂。だが、次の瞬間、錠の外れる音が響いた。
扉が半ばまで開き、銀糸のような髪を揺らす少女が現れる。瞳は警戒心に満ちていたが、どこかその奥に影が宿っているのを、ベアトリスは感じ取った。
「……どうしてそのことを?」
「偶然、噂で耳にしました。あなたの妹さん、ティナさんが病を患っていると」
「……それがどうしたの?」
ベアトリスは少しだけ深呼吸して、鞄から小さな銀の瓶を取り出した。
「“魂喰み”――この病を癒せる唯一の霊草〈星露のエリクシル〉です。わたしはそれを手に入れました。あなたの妹さんを救うために」
キャンベラの目が細められる。
「信じろと? 初対面のあなたが、そんな薬を持ってるなんて」
「もちろん、信じられないでしょう。でも、わたしの目的は一つだけ。あなたの“ペンダント”がほしいの。あの、命を引き換えに守る古代魔道の護符――〈身代わりのペンダント〉を」
「……!」
一瞬、空気が緊張する。キャンベラの指先が無意識に胸元へと向かう。その下には、確かにペンダントが隠されているはずだ。
「それは、ティナを守るための最後の手段よ。渡すなんて、ありえない」
「だから、こう提案するの。まずは、この薬を妹さんに飲ませて。もし効果があって、病が癒えたとわかったら――その時にペンダントを譲ってほしい」
ベアトリスの声は穏やかだった。だが、その瞳には真剣な決意が宿っている。
「あなたが信じられないのは当然。でも、ティナさんの病は進行している。迷っている時間は、残されていないはず」
キャンベラは無言のまま、視線を落とす。しばらくの沈黙の後、絞り出すように言った。
「……分かった。試すだけ、ね。でも、もし妹に何かあれば、あなたを許さない」
「その覚悟でここに来ました」
それ以上、言葉はいらなかった。
ティナの暮らす家は、王都の東区にある古びた一軒家だった。ベアトリスとキャンベラが寮を出て、並んで歩く姿は、通りを行く人々からすれば姉妹にも見えたかもしれない。
「……あなた、どうしてそこまで?」
沈黙を破ったのは、キャンベラの方だった。
「一度も会ったことのない私たちに、命がけで薬草を取りに行くなんて、普通じゃないわ」
ベアトリスは少し迷ったように、そして微笑みながら答える。
「病気で苦しむ辛さは知っている――だから、助けたいの」
「意味が分からない」
「わたしも、分からないわ。でも……あなたのそのペンダントは、わたしには必要なの」
「そうなの……でもまだ渡せないわ」
「病気も治って、ペンダントも有効に活用される、みんなが幸せになれる。だから――危ないけど死の森に行った。それに病気で苦しむ人がいるのを知って放っておけなかった」
「……あなた、本当に、変な子ね」
ティナは静かに眠っていた。部屋には薬草の香りが満ち、病人特有の弱々しい息づかいが響く。
ベアトリスは瓶を取り出し、慎重に液体をスプーンに移す。
「ほんの少しでいいの。霊草は強いから」
キャンベラがその手を支えながら、ティナの唇に薬を注ぐ。
「……お願い、効いて……」
その願いが、届くかどうか。答えは、朝を待たねばならなかった。
夜が明けるころ、ベアトリスはソファに座ったままうとうとしていた。すると、キャンベラの声が震えながら耳に届く。
「……熱が、下がってる……! 嘘……手を……動かしてる……!」
目を開けると、キャンベラがベッドの脇で泣いていた。ティナは、ゆっくりと瞼を開けていた。
「……ねえ、姉さま……おはよう……」
その声に、ベアトリスも思わず涙ぐむ。自分はほとんど戦えない。ただ薬を手にしただけ。でも、それが誰かの希望になった。
キャンベラは立ち上がり、ベアトリスの元へ来ると、無言で胸元からペンダントを取り出して差し出した。
「……約束は、守る」
「ありがとう、キャンベラさん」
ふたりの手が、確かに交わった。
そしてそれは、新たな物語の始まりでもあった。