第11話 ベアトリス、エレンスト先生に会いに行く。
忘れられた記憶の結晶
夜の学院は、まるで別世界のように静かだった。
古びた温室を出たベアトリスは、気配を殺すように歩みを進める。寮の門限はとっくに過ぎていた。見回りの教師に見つかれば、停学もあり得る。それでも――
(この結晶さえ、無事に届けられれば……それでいい)
手のひらに感じる、ほんのりとした結晶のぬくもり。それはまるで鼓動のように微かに脈打っていた。
回廊の陰を抜け、図書館の裏手から寮の裏口へ。靴音を極限まで抑え、軋む扉をそっと開ける。誰にも見つからずに自室へ戻ったのは、運が良かっただけか、それとも――結晶が彼女を守っていたのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。朝の鐘が三度、学院の空に鳴り響いたころ。
「ベアトリス君……これは……」
エレンストは、目を見開いたまま言葉を失っていた。白衣の下に身を包み、実験器具が並ぶ研究室の片隅で、彼女は静かに結晶を差し出していた。
「〈忘れられた記憶の結晶〉です。先生、あなたが自ら封じた記憶――取り戻すための鍵だと、私は思います」
その名を口にした瞬間、エレンストの表情が硬くなる。まるで、過去の亡霊が目前に現れたような顔だった。
「……なぜ、それを……?」
「先生の記憶の空白。魔導薬学の禁術の研究。そして……あの夜の事故。私は全部、偶然とは思えなかった」
エレンストは目を伏せる。そして、ぽつりと呟いた。
「私は……恐れていたのだよ。あの記憶を取り戻すことを」
手を伸ばし、そっと結晶に触れる。瞬間、淡い光が研究室に広がった。ベアトリスは後ろに一歩下がり、その様子を見守る。
結晶の中に、景色が浮かび上がる。まるで水面に映る幻影のように――それは、かつての学院地下、封印された実験室の光景だった。
「これが……先生の、記憶……?」
数人の研究者が集まり、巨大な魔法陣の前に立つ。その中心に立つのは――若かりし頃のエレンスト。彼の眼差しは、熱に浮かされるように鋭かった。
『“記憶の連結術式”は成功する。これで過去を遡り、あの災厄の核心に迫れる……!』
その言葉と共に、術式が発動する。しかし――異変が起きた。魔法陣が暴走し、周囲の研究者が次々と意識を失っていく。
『やめろ……止まれッ! ――誰か、この術式を止めてくれ……!』
最後の瞬間、エレンストが見たのは、己の記憶が剥がれ落ちていく光景だった。そして、記憶は途絶える。
結晶の光がふっと消える。エレンストは膝をつき、荒く息を吐いていた。手は震え、額から汗がにじんでいる。
「……あれが、私の……本当の罪」
ベアトリスは、黙って彼を見つめていた。言葉など、簡単にかけられるものではなかった。ただ、その横に寄り添う。
「先生のせいじゃありません。封印されたあの魔法陣、暴走を引き起こした原因……そこにまだ“誰か”の意志があった」
エレンストは顔を上げ、ベアトリスを見つめた。驚いたように、目を見開いた。
「……君は、何を見たんだ?」
「私も結晶に触れた時、一瞬だけ、感じたんです。何か……暗い意志。人のものじゃない、強く冷たい、存在を」
それは、言葉では説明できない。ただ、魂が震えるような感覚。学院の奥底に、未だ眠る“何か”があった。
エレンストは、深く息を吐き、微かに笑った。
「……君は、とんでもない生徒だ。だが、ありがとう。私の記憶を取り戻してくれたのは、君だ」
彼はゆっくりと立ち上がる。そして、結晶を丁寧に封のある箱に納める。
「記憶は取り戻せた。だが、この真実を誰にも話すわけにはいかない。まだ、危険すぎる」
「はい。でも、私は――先生と一緒に調べます。あの魔法陣のこと。封印の真相。そして……記憶の先にある、真実を」
ベアトリスの目に、迷いはなかった。こうして、少女と教師の“もう一つの授業”が、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
その夜、ベアトリスの夢の中に、再びあの黒猫の姿が現れた。
赤い瞳は、まっすぐに彼女を見つめ、まるで言葉のように、心に直接響いてくる。
――目覚めよ。眠れる記憶の先に、真なる扉がある。
ベアトリスは、目を開けた。夜明け前の空はまだ暗く、それでも、胸の内には確かな光が灯っていた。