3・1 『雑用係』初出勤
王宮に来ることがこれほど待ち遠しかったのなんて、いつぶりかしら?
少しでも気を抜くと、昂っている気持ちのままに、走り出してしまいそう。
でも、ダメよ。
公爵令嬢は、王宮の廊下は静々と歩くものだもの。落ち着いて、淑やかに振る舞わないとね。
ああ、でも!
嬉しすぎるわ!
私は今日から、シルヴァン筆頭魔術師様の雑用係。
――というのは、表向き。
私の心の中では、『シルヴァン筆頭魔術師様を愛でる係』なのよ!
最推しを破滅から救いつつ、麗しきお姿を堪能するの。
考えただけで、よだれが垂れてしまうわ。
じゅるり。
「ねえ、聞いた? ベルジュ公爵令嬢が『慈愛の天使』様の雑用係になったんですって」
どこから聞こえてきた声に、幸せな気分に水をさされた。声は明らかに非難の色を含んでいる。
「聞いたわ。信じられないわね。いったいどんな卑怯な手を使ったのかしら」
「お気の毒なシルヴァン魔術師様!」
「オラス殿下に疎まれているからって、あんな素晴らしいお方に寄生しようとするなんて。悪鬼の所業ね!」
声の主たちの姿は見えないけれど、時間や場所を考えると、話しているのは侍女たちに違いない。
王宮内で大声で王太子の婚約者の悪口を言うなんて、どういうマナー教育を受けているのかしら。
だけど残念なことに、こういうことは初めてではないのよね。オラスが様々な理由をつけて、私のエスコートをしないようになったころから、陰口をたたく人がかなり増えた。
なぜならオラスは世間的には、人気の高い王太子だから。
彼は外見も中身も完璧。金髪碧眼の爽やか系美形で、身のこなしは優雅、人格者で弁舌は立ち、勉学も魔法も優秀。欠点なんてひとつもない(虚像だけどね)。
そんな素晴らしい王太子が疎むのだから、原因はすべてロクサーヌ・ベルジュにあるのだと皆考える。
私が反論しても、誰も信じてくれない。事情を知っているオラスの側近たちは全員、主の味方で、口をつぐんでいる。
だから一般的な彼の評価は、
『類まれな立派な王太子』
『神の寵愛を一身に受けた尊き王子』
『彼が次期国王なら、我が国は安泰』であり、そして
『自分本位のワガママ婚約者を持つ、気の毒な人』なのよ。
本当に、腹立たしい!
実際のオラスは私に仕事を押し付け、手柄は総取りの卑怯な男よ。
……以前の私は、よくこの状況をガマンできていたわ。いつかは全てが良くなると、信じていたせいなのよね。でも、今ならわかるわ。信じることで、現実から目をそらしていたのよ。
幸い小説の内容をすべて思い出したおかげで、目が覚めたわ。もう、オラスなんて信じない。
婚約破棄、大歓迎よ。
ぜひ私を、つまらない足枷から解放してくださいな。
そしてそのあかつきには、シルヴァン様を手に入れるのよ!
世界中のひとが『シルヴァン様がお可哀想!』と言ったって、諦めないのだから。
侍女たちの悪口なんて、負け犬の遠吠えよ。
以前は陰口のひとつひとつに傷ついていたけれど、もう気にしないわ。
そんなことのために割く時間も気持ちもないもの。
◇◇
目の前の重厚な扉には、『筆頭魔術師』のプレートがかかっている。この素敵な部屋が、今日から私の職場。
中にはすでにシルヴァン様がいるはず。施錠の関係で、必ず彼より後に出勤するように言われているので、ちゃんとそのとおりにやって来た。
ああ。緊張する。
これからは毎日、密室でシルヴァン様とふたりきり。彼にみとれて、仕事をミスしないように気を引き締めないといけないわね。
大きく深呼吸をする。それからノックをして、扉を大きく開けた。
「おはようございます!」
「うるさい」
間髪入れずに、正面の執務机にすわるシルヴァン様が私をにらんだ。
なんて素敵なお顔!
あまりに好みすぎて、キュン死しそうだわ。
胸を押さえて心を落ち着ける。するとシルヴァン様は、ますます嫌そうな顔をした。
「騒々しいのは大嫌いだ。静かにしなければ、口が開かなくなる魔法をかけるからな」
「シルヴァン様に魔法をかけていただけるなんて素晴らしいご褒美ですけど、気をつけますわね」
それから扉のすぐ脇に置かれた机を見た。曲線が美しく植物のレリーフが優美なそれは、昨日まではなかったもの。なんと、私専用の机なのよね。
まさかこんなに素敵なものを選んでもらえるなんて、思ってもいなかったわ。
「素敵な机をご用意してくださり、ありがとうございます」
「仕方ないからな。それに、選んだのは俺じゃない」と、シルヴァン様は嫌そうに答える。
わかっているわ。彼がどんな気持ちを抱いていようと、王太子の婚約者であり公爵令嬢でもある私に、おかしな家具は用意できないもの。きっと事務官が探してきた机よね。
「だとしても、嬉しいですわ。たとえ形だけでも、認めていただけたみたいで」
そっと机にふれる。
『雑用係』の仕事は、お給金も出る。シルヴァン様がそのように手配してくれた。
オラスに押し付けられた彼の分の仕事は、すべて無給だった。王妃教育の一環だからという理由で。
だから今回もそのつもりだった。というより、お給金のことなんて、これっぽちも頭になかったのよね。
でもシルヴァン様は、私の考えのほうに驚いていたわ。ラスボスのくせに、そういうところは誠実みたい。意外な一面ね。小説には書いてなかったもの。
彼のことをますます好きになったし、『雑用係』としての仕事もがんばりたいわ。
「ではシルヴァン様」振り返って、仏頂面の上司に微笑みかける。「最初のお仕事をくださいな」