10・これから起きる出来事
「じゃ。またな」
軽く挨拶をしてアロイスが執務室を出ていくと、シルヴァン様は途端に表情を変えた。『慈愛の天使』から、ラスボスへ。
閉じられた扉に目を向けながら、
「あいつは俺の留守中に、なにしに来たんだ」と、呟く。
そう。シルヴァン様は先ほど、ここへ戻ったばかり。まだ着席もしていない。国王陛下に急に呼ばれて、出ていたのよね。
彼のいない間にやって来たアロイスは、いつもならばとんぼ返りをするのに、今日は部屋に入って来た。
「用件はこれだけだったみたいですよ」
私の机の上に置かれた封筒を示す。
二枚の観劇チケット。先日彼の仕事を代わった礼とのことで、シルヴァン様と私のふたりで行くように言ってきた。
「でもあの方って、天然ではないですよね? 仕事外で私たちがふたりで出かけたら、さすがに陰口を叩かれるでしょうに」
だからこれは私がルシールと観に行くことになった。
「もちろん私はシルヴァン様とデートをしたいですけど。そこまでご迷惑はかけられませんももの」
シルヴァン様が目を細める。
「俺を貶めるのが目的か」
「友人のふりをして、ひどいですわね」
私は立ち上がると、
「気分転換にお茶をいれますね」と言って、キャビネットに向かった。
背後でシルヴァン様が乱暴に椅子にすわる音がした。だいぶ苛立っているみたい。
「貶められるのは、私ですよね。シルヴァン様は誰からも尊敬されていますもの」
魔法で沸かした湯をカップとポットに注ぎ、温める。
「だとしても、口実にはなる」
不機嫌な声。
「なんのですか?」
「国王にお前を辞めさせろと言われた」
茶葉をすくおうとしていた手を止め、振り返る。
「そろそろかと思っていましたけど。私にではなく、シルヴァン様へ言ったのですか。シルヴァン様のほうが、承諾する可能性が高いとふんだのかしら」
私はもちろん拒むし、お兄様に味方についてもらうもの。
「オラスが困っているそうだ」と、吐き捨てるかのようにシルヴァン様が言う。
「みたいですわね。最近は彼の側近にまで、仕事を手伝ってくれと泣きつかれていますの。驚いてしまいますわ」
私がオラスの仕事を肩代わりしていたころ。彼らはそれらを、王太子自らが行っていると陛下にも世間にも偽りの証言をしていた。
だから彼らが過労死したって、助けるつもりはないわ。
キャビネットに向き直り、茶葉を空にしたポットにいれる。
「それにしてもオラスも国王も、あれほどお前に執着しているのに、本当に婚約破棄となるのか?」
「ええ。そういえば詳しいお話をしていませんでしたわね。少しお待ちくださいな」
シルヴァン様は陛下と会ったあとは、辛そうか、苛立っているか、怒り心頭に達しているかなのよね。ものすごくストレスみたい。
それでも彼が大好きなアップルティーを出せば、ほんの少し表情を和らげてくれる。
私はそのかすかな変化が好き。
『慈愛の天使』でも『ラスボス』でもない、シルヴァン様の芯の部分のように思えるから。
湯気の立つティーカップを、シルヴァン様の机に置く。
彼の寄せられた眉がゆるみ、少しだけ目つきも優しくなる。
シルヴァン様は丁寧な動作でカップの持ち手をつまむと、口元へ運んだ。
さらに彼の顔が和らぐ。
本当にアップルティーの香りが好きなのよね。
彼が最初の一口を楽しむのを待ってから、
「『ピア・パッティのほうが、私より王太子妃に相応しい』という意見が王宮を席巻するからですわ。オラスの気持ちは盛り上がりますし、さすがの陛下も考えを改めますの」と告げる。
シルヴァン様はカップを手にしたまま、そばに立つ私を疑わしげな顔で見上げた。
「あの男爵令嬢が? 才女ではあるようだが、王妃の資質はないとみな考えているはずだ。彼女はどんな手を使う?」
「事件が起こるんです」
魔力暴走というものがある。その名のとおり、魔力がそれを持つ人間の意思に反して、勝手に放たれてしまう現象だ。
コントロールの効かなくなった魔力は、『暴れるドラゴン、のたうち回るヒュドラのごとし』と言われるほど危険らしい。当たった物を破壊し、人に怪我を負わせる。
そして暴走が起こる理由は、魔力の持ち主の精神や肉体が不安定になることだとか。
ただ、滅多にあるものではないのよね。私も一度も見たことがない。
でも、それが起こる。
オラスとピアが庭園を散策しているさなかに。たまたまそばにいた休憩中の近衛兵が、恋人に振られたことをきっかけに魔力を暴走させてしまう。
ふたりは巻き込まれ、オラスがあわや大怪我をするというところをピアが果敢に助けて、事なきを得る。
ピアの勇気と愛の深さに世間は感動し、国王も心を動かされる。
「王太子の危機に馳せ参じなかった私の評判は地に落ち、代わりにピアは崇められるのですわ」
そんなことを言われてもね、とは思うけど。でも構わないわ。婚約破棄されたいから。
「オラスなら近衛程度の魔力暴走ぐらい、止められるだろ?」
シルヴァン様が至極もっともなことを尋ねる。
そうなのよね。ああ見えてオラスは、高位魔術師になれる程度の実力がある。魔力暴走は発生者の魔力量によって規模が代わるから、魔術師でない人間のものならオラスは抑えられるはず。だけど――
「思い出してくださいな。復讐に来た元魔術師が、彼と私の前に出現したときのことを」
にっこり笑ってそう言うと、シルヴァン様は得心した顔になった。
「あいつ、突発事態に対処できないのか」
「ええ、恐らくは」
ヒーローなのにね!
でもそうでないと、ヒロイン・ピアの見せ場がなくなってしまうからかもしれない。
「そういうわけで、私は婚約破棄されるのです。シルヴァン様。この件に関与しては絶対にダメですよ」
待ちに待ったイベントなのだから。
ちょっとだけ不安なのが、ピアがオラスにまったく恋心を抱いていないことなのよね。
私と交流を持ってしまったばかりに、オラスに二面性があることにうっすら気づいてしまったみたい。
ただ仕事のパートナーとしては重宝しているようだから、頑張って助けてくれるとは思うの。
「お前は、いわれない悪評を立てられるのは構わないのか?」
「婚約破棄のためなら、なんだって。オラスと縁を切りたいですもの」
シルヴァン様が目を細めた。
「……私がなにをしようとしているか、知っているのではないのか?」
低く抑えられた声。
それに私は微笑みを返す。
「オラスを嵌めて、国王に処刑させるのですよね? ずっとその機会を狙っている」
シルヴァン様の目が更に細められた。
私が平然と答えたからかしら。ほんの少しくらいは、オラスを気の毒に思う。だけど、ラスボスを止めるつもりはないわ。オラスにされてきたことを思えば、同情心は消え失せるもの。
「でもそれには、婚約破棄も利用しますのよ? だからちゃんと行われたほうがいいでしょう? 私の評判なんかより、シルヴァン様の計画のほうが大切ですわ。それに計画成功まで待つのもイヤですしね」
シルヴァン様はしばらくの間、私を睨み上げていたけれど、やがてフンッと鼻を鳴らして目をそらした。
「覚悟が決まっていて、立派なことだ」
「もちろんですわ」
『だってシルヴァン様が大好きだから』
以前は気軽に言えた言葉がなぜか口にしづらくて、心の中だけで言う。
「で、その事件はいつ起こる」
「秋の園遊会の前日ですの」
「あと一ヵ月か」
「ええ。ようやくここまで来ましたわ!」
シルヴァン様がなにかに気づいたような表情になり、私を見上げた。
「オラスとの婚約が解消されたら、お前が『王妃教育の一環として』俺の雑用係をしている前提が崩れるぞ?」
「そうですわね。そのときはシルヴァン様、『有能なロクサーヌを絶対に手放したくない』と演技をがんばってくださいな」
シルヴァン様がイヤそうに顔をしかめた。
「そんなお顔をなさらないでくださいな。破滅回避のためではありませんか」
私がにっこりとすると、シルヴァン様は深いため息をついた。
「面白くないことばかりだ」
「そうですか」
「ああ、苛々する」
心底うんざりしているようなシルヴァン様。だけどすぐに、ラスボスらしい、悪い笑みを浮かべた。
「そうだな、気晴らしにちょっと破壊してくるか」