(9)迷うジェームズ
あれだけ目がらんらんとしていたのに、シャワーを浴び、いつでも帰ってこられるようにとそのままにしてくれていたナナモの部屋に戻ると、急に疲れが襲ってきた。それでも慣れ親しんだベッドに入ると、叔母が手入れしてくれていたのか、少しふわりとした心地よさと相まって、ナナモはいつしかジェームズとして眠りについていた。
ジェームズもナナモも僕の名前だ。でもロンドンに居る時はジェームズと思おう。むにゃむにゃとまどろみの中ナナモはそうすることに決めた。
ジェームズは夢を見ていた。
トラがいる。動物園だ。そこはジェームズがイギリスではなく日本の大学を受験すると決めた時にルーシーと二人きりで訪れた最後の場所だ。もちろんそこは初めてではない。それにお互い子供ではない。本当ならもっとロマンチックな場所に行けばよかったのに、誰かが、いや動物たちが二人の間を取り持ってくれなければ、過呼吸になって倒れてしまうのではないかと、ジェームズは珍しく自分から誘っておいて、そう思ったのだ。
最寄りの地下鉄の駅からずいぶん歩いた。その道すがら、ルーシーの話をうんうんと聞いた。しかし、ジェームズは緊張していて、ほとんど覚えていない。まるでレッドカーペットのように二人をエスコートしてくれている晩秋の落ち葉が、ジェームズの相槌に呼応して、乾いた音が鳴りやまなかったからかもしれない。
魔法が聞こえるという爬虫類の館、ダンスを舞うというペンギンのビーチ、魅惑に翻弄されるという蝶のパラダイス、子供に帰るというお猿の森、夢にうなされるという昆虫のビル、動き出すぬいぐるみと言われるカワウソとミーヤキットの迷路、二人はそれぞれの場所でこれまでの思い出を皆にも聞いてもらいたくていつしかはしゃぐように話をしていた。
でも、ゾウの吹奏楽より、ライオンの昼寝より、キリンの背伸びより、リカオンの頭脳より、なぜか健康長寿を祈るゾウガメにしっかりと挨拶をした後に、草木が生い茂る終の住処で、気持ちよさそうに一枚岩の上で寝そべっているトラを、二人でしばらく眺めていた。
「ねえ、ジェームズ、初めてここに来たとき、ここにいるトラと僕は同じだってジェームズは言ったのよ、覚えてる?」
皆で動物園に行こうって、もう中学生なのに、ルーシーは静かに独りで壁際に佇んでいるジェームズに声をかけてくれたのだ。
「トラじゃなくて、日本では白いライオンって言われた気がするけど……。あまりあの時のことは覚えていないんだ。でも、きっと、本来トラはオレンジ色なんだけど、日本ではホワイトタイガーで、イギリスではイエロータイガーって思われていたからかもしれないな」
ジェームズは何となく答えた。
「それに孤独だけどどうしようもなかったし、かえってそのことが心地よかったし、折角、新しい土地に来たのに、あの頃の僕は家と学校を往復するだけだったから、まるで動物園にいるトラのようだと思ったのかもしれないな」
ジェームスは、今度はしっかりと言った。
「トラって格好が良いじゃない。だからやっかみが半分あったんじゃないかしら」
ルーシーはそうだったのかもしれないわねと言う代わりに励ましてくれた。
「ありがとう。でも、僕は格好良くはないよ」
ジェームズはハンサムだと日本では思われていた。それはハーフだったからかもしれない。それも中学に入学したての頃で、今のジェームズをハンサムだと同年代の日本の女性が思ってくれるかわからない。大人になるにつれ、ロンドンであれ日本であれ、見た目だけで異性を判断することも少なくなって来る。だから、「そんなことはないわよ。ジェームズは今も格好いいわ」と、ルーシーが容姿も性格もジェームズのことをそう評価してくれたらどんなに嬉しいことかと思った。しかし、今も変わらず美しくて優しいルーシーは、ジェームズが恥ずかしくて目線をはずしてトラをじっと見ているだけなのに、そのことに気が付かずに、寄り添ってはくれてはいるが、一緒になってしばらくトラを静かに眺めてくれた。
「ねえ、ジェームズ、トラには「虎」と「寅」の二つの漢字があるって知っていた?」
ぐったりしていたトラが起き上がり、まるで二人に何かを話しかけようと気を充満させた瞳で見つめてきたタイミングでルーシーが言った。
「うん? 」と、ジェームズはピンと来なかった。だから、ルーシーはバッグからボールペンとノートを取り出して、「虎」と「寅」という漢字を書いてくれた。
ルーシーは下手だから笑わないでねと、謙遜していたが、ルーシーが漢字を書けただけでもすごいと思ったし、どうして書けたんだろうと不思議でしょうがなかった。
「漢字って古代中国で象形文字から始まったんでしょう。だから、トラの本当の漢字は虎なのよ」
漢字は書けるが、文字の成り立ちについてまでジェームズはよく知らなかった。
でも目の前のトラからどのように「虎」という漢字に変わっていったのだろう。スマホで調べたかったが今はそうしないほうが良いように思えた。
「ジェームズはやっぱりトラなのよ。でもね、今のジェームズは「虎」ではなくて「寅」だと思うの」
「「寅」? 」
「そう、「寅」よ。寅の漢字には「虎」の意味ももちろん含まれるんだけど、本来は日時とか時刻とか、方角を意味するの。それにね、トラって日本ではオレンジ色じゃなくて黄色って考えられているでしょう。だから「寅」の字には春がやっと来たっていう明るさもあるの。春はね、あらゆるものが動き始めるから」
「「寅」って、いつのどの方向?」
「だいたい夜中の三時から五時、方角は東北東よ」
ルーシーはスマホを見ずに答えている。日本について教えてって言ってきたルーシーに今は反対に教えられている。
ルーシーは時計を指さしていた。「そうか、ロンドンとは時差がある」と、ナナモは頷いた。
「でもね、動き始めると良いことばっかりじゃなくて災いももたらしてくるから、魔よけが必要なの。黄色は魔よけの意味もあるのよ。それに、トラは獰猛だけど、勇敢に立ち向かっていくわ。どんなつらいことにもね。だから邪気を追い払う獣神としてあがめられているのよ」
恥ずかしさはいつしか消えていて、ルーシーの話しに引き込まれるようにジェームズはルーシーの瞳と向かっていた。
「ロンドンでは黄色のトラだけど、東京では白色のトラだから、僕は日本では勇敢になれないのかもしれないな」
ルーシーは孤独だったジェームズを励まし続けてくれていたのに、ジェームズはどうしてルーシーに、素直に、「そうだね。頑張るよ」と、言えないんだと、自分自身を責めるしかなかった。
「トラだって思っているのは、色とか見た目とかじゃないし、単独行動が好きだからでも、ましてや動物園に居るからだっていう意味じゃないわよ。今のジェームズが変わったからよ。それはどこにいても変わらないはずだわ」
自分ではずいぶん性格の嫌な部分が治ったと思っていても、ルーシーの前ではつい甘えてしまう。しかし、そんなジェームズのひねくれた想いと恥ずかしさに、ルーシーは相変わらず背を向けることはなかった。
「僕はルーシーと一緒に日本の大学に行きたかったよ」と、ジェームズはきっと声帯を揺らす寸前の所まで、呼気を押し出していたと思う。でも、本当は、「一緒に日本へ行ってほしい」と、変換されることを望んでいたのかもしれない。しかし、それはかなわないことだ。だったら……と、その続きを言いたくてジェームズは視線を外してもう一度トラを見つめ直していた。
「白は八百万の神様に導かれるためには大切な色よね?」
その声はルーシーの言霊なのかトラの遠吠えなのかわからない。ジェームズはまるで誰かの何かに引き寄せられるように浮遊するとルーシーから離れて、別の場所に瞬間移動していた。その場所は東京の様であったが、まるでロンドンに居るような思いがする。なぜなら赤レンガ造りの大きな建物の前に立っていたからだ。
「ジェームズ、起きなさい。電話よ」
ジェームズは異世界から呼び戻されたわけではない。ジェームズ自身から帰還しただけだ。だから、もう少しという願いに後ろ髪を引かれる思いであったが、べったりと目ヤニで重くなった瞳を、自分の意志でこじ開けた。
「帰ってきているんだったらどうして教えてくれなかったの?」
電話口の向こうから懐かしい声が聞こえてくる。きっとその声色から怒っているのだろう。けれども全く耳障りではない。却ってまたベッドに戻ろうかと思わせるくらいの心地よさがある。
「ごめん、ルーシー」
今朝、たまたま叔母に聞きたいことがあったのでルーシーは電話をしたそうだ。その時に叔母がジェームズのことを伝えたらしい。
「今、私、オックスフォードにいるの」
ジェームズは叔母から聞いて知っていると言った。そしてお母さんの具合は? と、聞いた。
「ありがとう。母は元気よ」
「でも、どうして、オックスフォードにいるの?」
「サマーキャンプのような形式で日本文化についての集中講座があるの。ジェームズの叔母さんから以前、聞いていたのよ。今年は母も賛成してくれたから」
「勉強熱心だね」
「ジェームズも日本の大学に進学するためにわざわざ東京まで夏期講習を受けに行ったんじゃなかったっけ」
受話器を通してニコリとしているルーシーが垣間見えるようだ。
「僕はそれだけで行ったんじゃないんだ」
ジェームズの口から自然と言葉が漏れていた。でも、どうしてそんな言葉が出たんだろう。いや、確かに他の用事があったはずだが、何故思いだせないんだろと、しばしの沈黙が、しばらくルーシーの問いかけを遮断させた。だから、何?っていうルーシーからの問いかけに、いや、いいんだ、なんでもないんだと、言うだけで精一杯だった。
「ねえ、ジェームズ、何かロンドンで予定でもあるの?」
「いいや、まだ、誰にも僕がロンドンに帰ってきているって言ってないから」
ジェームズは正直に答えた。
「そう、だったら、明日、オックスフォードに来ない? とっても面白い講義があるの」
「なに?」
「来てのお楽しみよ」
「でも、僕は部外者だから、それに……」
ジェームズは、それに、恋人と一緒なら邪魔だろうと言いたかったが、ぐっとこらえた。
「私が居るからジェームズも受講できると思うわ」
ルーシーはジェームズの気持ちなど露ほども感ぜずと、ロンドンからだとバスが一番安いから、ビクトリア駅から出てるけど、二時間くらいかかるから遅れないでねと、オックスフォードでの待ち合わせ場所を早口で言うと電話を切った。
ジェームズはけだるさがまだ残っていたが、ルーシーと話したことで、眼が冴えたのか、もう一度ベッドに戻ろうとは思わなかった。叔父はもはや仕事に出かけていて、叔母に、今日は私も出かけないといけないの、と言われたので、ゆっくりしていていいのよと言ってくれたが、久しぶりに食べる叔母のご飯とお味噌汁と玉子焼きという純和風の朝食をゆっくりと味わうこともなく、早々とかきこむと、ちょっとぶらぶらしてみるよと、叔母と一緒に家を出た。
透明な空に少しだけ青色の絵の具をしみこませたような晴天の下、東京と違って重力がずいぶん軽く思えるロンドンの街中をゆっくり確かめながら、ジェームズは思い出の一杯詰まっているテムズ川をはさんでバッキンガム宮殿とほぼ同距離に位置するサマーアイズスクールへ行った。夏休みだったのでもちろん生徒はいない。ただ、道路に面して、白枠の窓ガラスがいくつも整然と並べられているライトブラウンのレンガ造りの校舎は、全く変わっていなかった。一見するとホテルのように見えるが、入り口には大きな木製の扉があり、その扉の上部には目立たないようにサマーアイズスクールと書かれた真鍮が貼られている。ジェームズにとってはその全てが懐かしく、ああ、帰って来たんだ、ここから僕の新しい人生が始まったんだと、大きく深呼吸をしてもし過ぎることはないという安らぎに包まれた。
エントランスホールには、りっぱな口髭を蓄えたこの学校の創設者の銅像があって、この学校の生徒達をいつも優しく誘ってくれる。道路側の建物だけを見ていただけでは決してわからないが、その奥には校舎に囲まれていながらも、きれいに刈揃えられた芝生が敷き詰められている。その広がりは、まるで真新しく作られたオリンピックの競技場のような気分に容易にさせてくれた。だから生徒達は太陽を燦燦と浴びながら自由に動き回ることが出来た。
「誰かに合わないだろうか?」と、サマーアイズスクールを後ろ髪を引かれる思いで後にしたジェームズは思った。しかし、久しぶりにロンドンの郷愁にふけっているのはジェームズだけだ。皆にとっては普通の風景であり、通過点にすぎない。そう思うと、チラチラと何度か左右に視線を動かして周囲を伺ったが、気分を切り替えて、そうだ、あの場所にと、観光気分も相まってロンドンバスに乗り込んだ。
ジェームズはユーストン駅に来ていた。嘗てリバプールで催されるルーシーが出場するヨーロッパ相撲大会の応援に行くために朝早くやって来た場所だ。あの時と同じように目線をあげると行先を案内する電光掲示板があった。全く変わってはいない。ジェームズはイチロウが以前話していたように揺れる電球をしばらく眺めていた。しかし、何も起こらなかったし、気分も悪くならなかった。
ジェームズはしばらく改札口の前で立っていた。列車の行き来に応じて客が改札口を出入りする。しかし、いくら待っていても例のあの日本人には出会わなかった。
「そう言えば、あのカードはどこにいったんだろう」
ジェームズはロンドンへ旅立つ前にもう一度あの時もらったカードを探してみた。あの日本人は役立てて下さいと言ってくれたように記憶している。しかし、いくら探してもなかった。もしかしたら、そのカードは、異世界を浮遊していてロンドンに到着するなり、急にズボンのポケットの中から現れるのではないかと期待していたのたが、そうならなかった。やはり、イチロウが言うように幻だったのか、それとも夢を見ていたのだろうかと、ジェームズは思った。
いや、違う、リバプールからここに戻って来てこの改札を通り抜ける前に、ジェームズはある重大な使命と決断をその日本人から投げかけられたはずだ。
ジェームズはあの電光掲示板に背を向け、駅の構内から外へ出た。そうすることで、何かを思い出すのではないかと思った。
ジェームズはしばらくふらふらと街中を歩いていた。あの日本人に会わなければ進学していたかもしれないロンドン大学の校舎群は眩しかったし、大英博物館を通り、ソーホーの喧騒に刺激されても、ジェームズの瞳には何一つ過去の風景は映し出されなかったし、心情も沸き起こってこなかった。
ジェームズはそのまま南下することなく、誰かに導かれるようにUターンして、再びユーストン駅の方に向かっていた。
しっかりと叔母の朝ごはんを食べたはずなのに、急にお腹の音が鳴った。ジェームズはあたりを見渡すと、目の前にフィシュアンドチップスの店があった。久しぶりなのでテイクアウェイ様に包んでもらってどこかで食べようと、近づいた。名店なのかわからなかったが、何人か並んでいた。
しばらく待っているとジェームズの順番はあとひとりとなった。頭髪の薄い、少し訛りのある小柄の店員さんに二メートルほどある身長の、おそらく大学生なのだろうが体格のがっしりとした男性が、ポテトを大盛りにしてくれとしきりに頼んでいた。サービスなのかどうかわからなかったが、所詮はジャガイモなので、その店員さんはあまり嫌な顔をせず、サービスしてあげていた。
ジェームズはシンプルに注文したつもりだったが、その店員さんはお前もかというような顔をしていた。だから、聞かれもしなかったが、ジェームズは、僕は少なくていいですから、とつい口走ってしまった。その店員さんは笑ってくれて、なぜかポテト増量の代わりに、フライをサービスだからとひとつ多めに入れてくれた。
ジェームズは近くの公園に行ってベンチに座った。公園の多いロンドンにしてはこじんまりしていて芝生で大勢が寝転べるという広さはなかった。まるで仕切りのように周囲には細い幹に葉が生い茂っていて、その公園の中央には銅像が鎮座していた。
「ジェームズ?」
ジェームズがむしゃむしゃとフィシュフライを食べていると、誰かの声が聞こえる。だからごくりと飲み込み残りをベンチ脇におくと、誰だろうとその声の主を見つめた。
「ピート?」
ジェームズは、頷きで確信に変わると、自然と頬が緩み、軽いハグをするような勢いで、脂っこいことも忘れて両手で握手をしていた。
ピートはサマーアイズのクラスメートだ。ルーシーほど親しくしていなかったし、積極的にジェームズに関わろうとはしてくれなかったが、困っている時はなぜか敏感に気付いてくれて、いつも的確なアドバイスをしてくれた。
ピートはインド系イギリス人で、何時もは温厚で物静かなのだが、銀縁の丸眼鏡をしていて、ロンドンを去ることになったジェームズのためにクラスメートが開いてくれたパーティーで、自らギター演奏しながら何曲か歌ってくれた。
二人はお互いの近況を話し合ったし、ジェームズが親しくしていたクラスメートの事も知っている範囲で教えてくれた。
「実はロンドンに帰ってきたのは、夏休みだからっていうこともあるんだけど、悩んでいることがあって、その気分転換のためなんだ」
ジェームズは時間を巻き戻したようなピートの変わらぬ優しさに触れているうちに、ピートならきっと嫌がらずにジェームズの話を聞いてくれて、なにかアドバイスをくれるのではないかと思った。
ジェームズの最大の悩みはルーシーのことだ。そのためにロンドンに飛んできたのだ。でも、そのことはピートには話せない。だから、「大学を辞めようと思っているんだ」と、悩みかどうかはわからないがふつふつと音を出しながら揺れ動く自分自身の心情を尋ねてみた。
「辞めるって、ロンドンに戻って来るのかい?」
「いや違うんだ。今電子工学を大学で勉強しているんだけど、わからないというか、授業について行けないんだ」
「僕は法律を勉強しているから工学系のことはよくわからないけど、まだ、入学したばかりだろう」
「ああ、でも、なんていうか、他にやらなければならないことがあるように思えるんだよ」
「他に?」
ジェームズはピートに話しながら、電子工学の講義を聞き始めてやっとそのことに気が付いたんだと付け加えた。
「ピートは悩んだらどうするんだい?」
ジェームズは唐突に尋ねた。
「親や友達や知人に相談するけど」
「出来なければ?」
ピートは、ごめん、と、ジェームズの両親の事を思い出したのか謝ってくれたが、ジェームズは気にしないでと微笑みを添え、ピートの答えの続きを促した。
「誰にも相談できないことはないと思うんだけど、もし、あったとしたら自分でその悩みを解決しないといけないだろうな」
ピートはそう言いながらも他にないだろうかと考えているようだった。やはり、これといった答えがなかったのかもしれないが、ごめんと言った。
「そうだよな。自分で解決するしかないよな」
ジェームズも頷いた。でも自分で解決できないから悩むんだと、それでは堂々巡りになってしまうと、ため息が漏れた。
「あっ、」と、ピートが何かを言いかけたが、慌てて口をつぐんだので、ジェームズは、なんでもいいからと、すがるように言った。
「いや、もし、ジェームズが今、何か他にやらなければならないと思っていて、でもそれが本当にやらなければならないことかわからないのなら、二つとも答えが見つかるように頑張ってみるしかないんじゃないかな」
「頑張ってみる?」
「そう。僕達は二つの世界で生きられない。でも、そう大げさではないんだけど、普段はバリバリのサラリーマンでも、家に帰れば睡眠時間を削ってまで絵を描いたりしている人もいるだろう。それと同じさ」
「電子工学の講義を受けながら、他の大学を受験する準備もするってことかい?」
ジェームズはもうそれはし始めているんだと言いたかった。
「ああ、でも、どちらとも手を抜かない。一日は二十四時間しかないし、誘惑が多いからとってもたいへんだよ」
ピートはジェームズの中途半端な気持ちを窘めている様だったし、悩んでいる暇なんてないと言いたかったかもしれない。
「天命は苦しみから生み出されるかもしれないな」
「天命?」
「僕は僕たちの神様を信じている。だから、さっき、自分で考えるしかないと言ったけど、考えられなかったら、最後には神様の導きに従うしかないように思うんだ」
「神様がなにか話してくれるのかい?」
ナナモの問いにピートはしばらく黙っていたが、瞳を一度閉じ、そして、もう一度瞳を開けた。
「神様が何かを話してくれるかどうかの問題じゃないんだ。僕達が神様を信じるかどうかの問題なんだ」
ピートの言葉はナナモには難解だった。まるで。シャボン玉のように思えた。きっといつかは消えてなくなる。いや。もともとなかったのもかもしれない。しかし、なぜかそのシャボン玉は、公園という閉ざされた空間で何度もぶつかりながら増幅し、最後にはジェームズの胸に突き刺さってきた。
ジェームズは、翌日、ルーシーに会おうと、朝早く起きて、オックスフォード行きのバスが出発するビクトリア駅へ向かった。地下鉄に乗ってきたのだが、地上に出ると、身体をうまくねじらなければ何度かぶつかりそうなほど、駅構内は多くの人が行き来していた。
ジェームズは北改札から出て駅沿いの道路を南下した。バスが道路沿いに止まっているからとルーシーが教えてくれたからだ。
ジェームズはオックスフォードに行ったことはない。昨夜、ピートの言葉が体中を何度も循環しているようでなかなか寝付けなかったのに、観光客じゃないんだから何とかなるだろうとバス停の場所を下調べしなかった。だから、ジェームズはそのバス停をすぐに見つけることが出来なかった。
道路沿いと教えてくれていたのに、四つ角で曲がったり、小路に入ったり、また戻ったりを繰り返しているうちに、ここはどこだろうと心配になって来た。ギリギリで家を出たので、このままではルーシーと約束した時間に間に合わなくなる。ジェームズはもう一度ビクトリア駅に戻ってみようかと思ったが、その時に、バスターミナルという文字が目に入った。本当にこんなところにあるのだろうかと、その標識に従って、ある古ぼけた建物に入ると、急に奥まった世界が開けたように、何台ものバスが停車していた。ジェームズは、まさかここはユーストン駅ではないだろうと思いながらも、構内を見上げたが、電光掲示板はなく、どこから乗ればオックスフォードへ行けるのかわからなかった。
ルーシーに会いに行くんだ。そう念ずるとあの例の日本人が現れて導いてくれるのではないかと思った。だから、ジェームズは喧噪の中、出来るだけ心を無にしてみた。しかし、誰からも声を掛けられなかったし、誰からもぶつかられることもなかった。
確かに長距離バスはこのターミナルから色々な目的地へ発車している。だから、どこからか乗ればきっとオックスフォードに行けるのだろう。でも、けだるそうな、透明なプラスチック板で囲まれた案内所から肩ひじをついてジェームズを見つめる頑強な男性が、ほんの一瞬だけでも例のあの日本人に見えなかったという現実が、「ここじゃないんだ」と、ジェームズに確信させた。
ジェームズはもう一度ビクトリア駅に沿った道路に戻ろうと思った。先ほどのバスターミナルからは離れてはいくが、ジェームズはまるで妖精に導かれるように歩いた。
そうだ、一度同じように誰かに導かれたことがある。月夜の晩だったような気がする。あの時は誰に会いに行くためだったんだろう。
ジェームズの独り言に呼応するように、目の前には、妖精ではなく小さな男の子が背をむけているだけなのに、まるでおいでおいでとジェームズを誘ってくれているように前方を歩いていた。
ジェームズはその少年と歩幅を合わせた。その歩調はジェームズにとってはスローモーションのようだったが。イライラどころか穏やかな気分になった。
少年が立ち止まり、チラッと上の方を向いた。ジェームズもつられて同じ方向へ視線をうつす。すると、そこには小さな停留所があり、「オックスフォード・バス」と書かれてあった。
ジェームズはその少年に礼を言いたくて、思わず声を掛けようと手を伸ばした。しかし、その少年は急に足早に走り出して、人込みの中に紛れていなくなっていた。
ジェームズはルーシーが教えてくれたのはこのバス停だと、しばらく消えた少年をキョロキョロとまるでミーヤキャットのように探っていたが、目の前に二階立てバスが到着すると、前方から乗り込み、運転手に運賃を渡すと、見晴らしの良い二階よりも長距離でも気分が悪くならない一階に席を取った。
「遅刻だな」
ジェームズは白地の基盤に赤い指針の腕時計に目をやった。今日は誰かに邪魔されたわけでも異世界に連れていかれたわけでもない。自分で自分を迷わせただけだ。でも、あの少年……、どこかで会ったような気がする。でも、ジェームズは深く考えることを止めた。そして、まあ読まないと思うけど一応入れておくか、という気分で持ってきた、東京で買った受験国語の極意という参考書をリュックから取りだした。きっとすぐに外の景色が気になってしまうとか、コクリコクリと睡魔に襲われるだろうと思って読み始めたが、オックスフォードの街並みに周囲の乗客がそわそわし出していても、ジェームズだけは、まだ食い入るようにその参考書に没頭していた。
僕はここに来てまで何をしているのだろう? と、思わないどころか、ルーシーとこれから会うんだ、というドキドキ感すら湧かない自分に、ジェームズは全く気付いていなかった。