(8)失意の夏休み
梅雨が完全に明け、街全体がパン焼き器の中に入ったかのような熱気で危うく焦がされそうになりながらも、前期試験が終わったナナモはまだ東京に居た。ロンドン行きの格安チケットを用意するから、英語の受験講師をしてくれないかと、イチロウに頼まれたのだ。
「僕はハーフだけど入試英語は得意じゃないんだ」
ナナモがそのことに気付いたのは、共通テストで満点を取ることが出来なかったからだ。きっと、試験に出る英文法の問題や、言葉の言い回しに、まだ日本特有に英語表現が残っていて、会話英語を主にしていたナナモにはなじめなかったからに違いない。
「そういうものかもしれないな。でも、文法を教えるんじゃないんだ。リスニングの勉強を主にしたがっているんだ。それにマンツーマンじゃないし、ちょっと問題をナナモのきれいな発音で読んでくれたらいいだけだから」と、ナナモの返事も聞かずに、「じゃあ、頼むよ、チケットは約束するから」と、場所と内容の書かれた簡単なメモを渡された。
イチロウがナナモにその話を持ち掛けてきたのは、イチロウの強引さではなく、イチロウは、「いつロンドンに行くんだい?」と、何度も聞いてくれていたのに、ナナモがなかなか出発しようとしなかったからだ。
「まだ行かないの?」
「おばあさんが、戻ってこなんだ」
ナナモはキリさんに何度も聞いていたが、相変わらずのらりくらりで祖母であるマギーは未だ行方が分からなかった。イチロウは、「お前、いくつなんだ」と、あきれ顔で、「じゃあ、まだアルバイトが出来るよな」と、この話を持ってきた。
ナナモはイチロウにどのように思われようが、やはりナナモの祖母であるマギーに何も言わずに行くのは悪いと思った。それに情けない話だが、あれほどルーシーに会いたいと願っていたのに、いざ出発しようと気合を入れても、のこのこ出かけて行って反対に落ち込むだけなんじゃないかと、二の足を踏んでいたのだ。
ナナモは教えられた新宿の古びた雑居ビルの二階に行った。歓楽街から離れていて、近くに寄席がある。平日はもの静かな場所だ。
十畳ほどの部屋には大きな会議用の事務机とパイプ椅子があって学生が六人いた。学生といってもナナモと齢は変わらない。けれども彼らは高校生でナナモは大学生だ。
「初めまして 」
ナナモが英語で自己紹介すると、皆が一様におーっという顔をする。ここにいる学生がどのような学生でどのような大学を狙っているのかナナモにはわからない。もし、小難しい日本の受験英語について質問されても答えられないかもしれない。
「英語と言っても国語です。僕は国語が苦手で、共通テストでもあまりいい点がとれませんでした。けど、英語のリスニングはいつも満点です。それは日常会話だからです。皆さんも普段の会話で相手の言っていることが理解できますよね。でも、リスニングはなれないと聞きづらいです。ただし、コツはあります。それをマスターしましょう」
ナナモの挨拶はあまり受けなかった。しかし、同じことを今度は英語で話すと、また、一様におーっという顔をしてくれた。
ナナモはリスニングのコツを教えた。こういう風な文章はこういう風に発音するから、こういう風に聞こえてくるので、こういうふうに、押さえて置けばいい。単語は簡単だから、でも、試験なので、早とちりしないように。問題には関係ないことまで含まれていたり、昨日の事ではなくて、だから今日はこうしなければならなくなったりとかひねってきます。また、全体の文章から、今後どうしたらよいのかと少し考えないといけないことまであります。と、ナナモがそれなりに感じたことも付け加えた。とにかく英語がすんなりと耳に入って来る。そういう訓練を繰り返していた。
ナナモが雑談などせず、与えられたテキストを淡々とこなすことに集中していたので、学生達は質問をほとんどしてこなかった。しかし、真面目でそれに際立って学習能力が高いことは容易に伝わって来た。きっと、あるテーマについて話し合えば、ナナモは簡単に論破されるだろう。もしかしたら、電子工学基礎理論についても、教科書を読んだだけで、ナナモのリスニングの授業より数段丁寧にそのポイントを解説してくれるかもしれない。
とにかく、無難に終えてほっとしたころを見計らってイチロウに誘われた。出入りがなければ冷凍庫に入っているような喫茶店で二人お茶しながら、イチロウは、マギーとまだ連絡を取ろうしているナナモに、「早く日時を教えてくれないとチケットが渡せないじゃないか」と、せかしてはくるものの、「ぐずぐずしていると日本からセミがいなくなっちゃうぜ」と、泣きたいのは僕の方なんだと言いたげなナナモを見て楽しんでいた。だからナナモは話題を変えるつもりで、「彼らは優秀だね」と、何気なくを装いながらイチロウに呟いた。
「彼らは医学部志望なんだ」
イチロウはナナモを直視せずにサラッと言ってからさらにつけ加えた。
「SNSで医者を目指す高校生たちと知り合って、リスニングの勉強に来ないかいって、掲示してみたら集まってきたんだよ」
ナナモはイチロウの行動力に驚いた。
「でも、どこの馬の骨かわからない僕の所によく彼らは来てくれたね」
「そりゃあ、ナナモの経歴を少し盛ったからさ」
ナナモはどのように盛られたのか知りたかったが、でも、ダメならすぐ終わりにしてもいいからと彼らにはことわっていたからと、イチロウに言われたので尋ねなかった。
「彼らは時間を大切にしている。それに本質に興味がある。ナナモのリスニングの授業は無駄じゃなかったんだよ」
イチロウはナナモにそう告げた。
「でもどうして?」
「どうして?だって、ナナモは医学部を受けようと思っていたんだろう」
そのことは話すべきではなかったのもしれないが、以前、ナナモはイチロウについ漏らしてしまっていた。
「それに、彼らは、超難関校と言われている大学を希望している。本当なら共通テスト程度なら満点だ」
「だったら僕なんかの・・・」
ナナモは少し背筋がぞくっとした。やはりクーラーが効きすぎている。
「盛ったこともあったんだけど、彼らにとって、ナナモに何かを感じたんだと思うんだ。それは俺にはわからないけどね」
イチロウはナナモに何かを伝えようとしているのかもしれない。しかし、その具体的なことは何一つ言ってはくれなかった。もしかしたら、彼らが超難関大学の医学部に合格して医者になっても、医者という仕事に変わりがないんだと言いたかったかもしれないし、医者になった彼らが、四年間大学で勉強していたナナモより電子工学基礎理論を理解できるとは思えないと言いたかったのかもしれないし、優秀な彼らでさえナナモに自分たちにないなんらかの魅力を感じたと言いたかったのかもしれない。いずれにせよ、ナナモは一人で考えるしかなかった。
「早くロンドンに行った方がナナモにとってはいいと思うよ。リフレッシュ出来るはずだから」
イチロウは最後にそう言うとスマホのアプリを提示し、そそくさと会計を済ませて外に出た。
二人は喫茶店から出て歩き出すと今まであれほどかちんこちんだったのに、まるで溶けだしたアイスクリームのように太陽とがっちりと握手した身体から絞り出される汗を慌てて拭うことで精一杯だった。
「ロンドンに行くのかい?」
ナナモのスマホにマギーから突然電話がかかってきたのは、お盆の期間が過ぎた頃だった。
「マギー、今どこにいるの?」
「西さ?」
ナナモはある場所が頭に浮かんだが、マギーは具体的な場所は教えてくれなかったし、そこで何をしているのかももちろん付け足してはくれなかった。
「大学生になったし、夏休みだから一度帰ってみたいと思ってね」
ナナモはもちろんルーシーの事など言えなかった。しかし、マギーはどこに居てもナナモのすべてを見通しているように思えて仕方ない。
「マレに言われたかい?」
マレとはナナモの叔父で、父の兄だ。ナナモはロンドンでマレおじさんとミチおばさんと一緒に暮らしていた。
「いいや、叔父さん達にはまだ話していないんだ」
「どうしてだい?」
「だって、マギーの許しがまだだから」
「そう言えばナナモは先月誕生日だったんじゃないのかい」
ナナモは意外の言葉を聞いて驚いた。マギーがナナモの誕生日を覚えているとは思えなかったからだ。それに、去年は東京で一緒に暮らしていたのに、祝いどころか何も言ってくれなかった。
「マギー、覚えていたの?」
ナナモはだからそう尋ねた。
「二十歳。そうだね」
「ああ」
マギーはしばらく黙っている。
「最近何かあったかい?」
マギーはまた尋ねてきた。
ナナモはここ数カ月大学で起こったことを話そうと思ったが、別にと、ただ、ロンドンからは誕生日のお祝いメッセージが一杯来たよとだけ答えた。
「ふーん」
マギーはそう言うと、金はあるのかいと、また尋ねてきたので、バイトをして稼いだんだと、黙っていたんじゃないんだよ、言えなかったんだと、まるで言い訳をしている子供のような声のトーンでマギーに伝えた。
「ロンドンに行って来ていいだろう?」
ナナモは改めて聞いた。
「もう決めてるんだろう。好きにすればいいさ。それに、もう二十歳で、成人なんだから自分で決めたらいいのさ」
「でもなんかあったら」
「ほーっ、冒険にでも出かけるのかい?」
マギーは先ほどの言ったこととは裏腹に子ども扱いする。ナナモは黙っていた。
「まさか戻ってこないつもりじゃないよね」
マギーの威圧が声に重なってのしかかってくる。それでもナナモは少しむきなって、そうなるかもしれないし、そうなったらマギー、悲しむだろうと、言い返した。
今度はマギーが黙っている。ナナモはマギーの返事を待っていたが、耐え切れなくなって、ちゃんと帰って来るからと、弱弱しい声で言った。マギーはそうかいとは言わず、「ちゃんと」って、どういう日本語だいって、時々妙なことだわりをみせた。ナナモはそんなマギーに戸惑いながら、話題を変えなくてはと四苦八苦した。
「ねえ、クニツ家のお墓ってどこにあるのか知っている?」
ナナモは質問が適切だったのかどうかわからない。しかし、きっとマギーは答えてくれないだろう。
「知らないよ」
案の定の答えだ
「お盆って、御先祖様を供養するんだろう?」
ナナモはなぜかあきらめなかった。
「ナナモ、それは・・・」
マギーは何かを言いかけたが、慌ててマレに聞くんだねと、電話を切った。
ナナモはマギーがOKを出してくれたのだと解釈した。ただ、最後にマギーが言いかけたことが気がかりでしょうがなかった。そのことを考えているうちにナナモは激しい頭痛に襲われた。ナナモはそう言えば、両親の事をマギーに尋ねたことがある。もちろん、ナナモは両親が亡くなっているとは思っていない。だから、先祖の墓に両親が居るとも思ってない。けれども、どこかにナナモの先祖は居るはずだ。だったら、どこかにお墓があるはずだ。
ナナモはまだ日本の大学を受験する気があるのなら日本の予備校の夏期講習を受けてみないかと言われてロンドンから久しぶりに日本に戻ってきた。そしてマギーの家で暮らしていた時に、ナナモはあまり乗り気ではなかったのだが、マギーからある場所に行くように言われたように思う。その場所がどこで、そこで何が起こったのか思い出せないでいる。ただし、あの時、マギーの家の近くの神社に毎日お参りに朝早く出かけていたことは確かだ。
「いいかい。神様にいくら頼んでもかなえられないんだよ。何かを得たかったら得られるように考えな。そして、行動するんだよ」
ナナモの頭痛の原因は脳を揺さぶるマギーのその時のこの声を思い出したからかもしれない。
イチロウに、バイト代も込みだからとほとんどタダみたいな値段で航空券を譲り受けた時、きっと格安航空券だからどこかの国を何度か経由してロンドンにたどり着くのだろうと心配な面もあったが、その航空券は直行便だった。ただし、イギリスが経営している航空会社だ。
「英語で話せるから大丈夫だよな」
ナナモは飛行機自体に乗ったことはこれまで二度しかない。一度目はロンドンへ向かった時だが、中学生だったし、この時は失意の中にいたし、どのように行ったかは全く記憶にない。ただし、ヒース―ローに着いた時には入国手続きが済むまでずいぶん待たされたことだけは鮮明に覚えている。そして、二度目は東京に戻ってきたときだ。エコノミーだったが、日本の航空会社で直行便だったので快適とは言わないまでも何の不安もなかった。CAさんは、ナナモの容姿を見て日本語か英語かどちらで話しかけるのか迷っているようだったが、ナナモは少し嬉しさもあって出来るだけ日本語で受け答えしていた。
この飛行機もヒースローまでは十一時間くらいで到着する。当たり前だが日本の映画などの娯楽ソフトが少ないことと、食事を含めてサービスは控えめだった。英語ですべて話しかけられたが、ナナモにはなんら問題なかった。それどころか、例の日本人が機内のどこかに乗っていないか、きょろきょろと探していた。見つからなかったし、何度かそんな動作を繰り返していたからか、珍しく男性のCAさんがわざわざナナモの所に気を使ってやってきてくれたので、ナナモはそれから控えるようにした。それでも、トイレへ行く時に、わざと遠回りして探してみたが、やはり例の日本人は見つからなかった。もし、ビジネスクラスやファーストクラスに乗っていれば別だが、もしそうなら快適な空の旅を楽しんでいるはずだし、困ったことがあってもナナモなんかに声を掛けずに優しいCAさんに頼んでいるだろうと、ほくそ笑むしかなかった。ナナモは通路側の席で、真横には目のクリッとした髭面の中年男性が座っていた。ナナモの英語を聞いて日本人ではないと思ったのか、何やら小難しいそうな本に夢中になっていて話しかけてくるということはなかった。
ロンドンまでの飛行はずいぶん長く感じられた。それでも、ヒースーローに無事到着するとほっとする。それに、セキュリティーをコンピューターにずいぶん任せているのか、前回あれだけ待たされたのは何だったんだろうと思うくらい、簡単な入国審査だった。到着して飛行機から降りて荷物を受け取ったターミナル5は、大型通販の貸倉庫のように広く、無風なのに秋の涼しささえ醸し出していた。
ナナモは足早に出口に向かった。叔父夫婦にはすでに連絡していたが、久しぶりのロンドンを味わいたいからと、迎えは断った。もちろんルーシーにも伝えていなかったが、もしかしたら叔母が話してくれたのではないかと、足早に駅に向かうのではなく、しばらくルーシーが来ないかあたりをウロウロしていた。しかし、結局サプライズはなく、ロンドン行きの列車に乗るしかなかった。
ゴロゴロと東京で買った新しい大きめのスーツケースを引きずりながら、叔父夫婦の家に着いた。夕方だったが、まだ叔父は帰宅していなかった。ベルにすぐに反応してドアを開けてくれた叔母はよほどうれしかったのか珍しくナナモを軽くハグで迎えてくれた。約二年ぶりなのだが、もちろん瓦葺ではない一般的なロンドンの借家からは、それでも懐かしい香りがした。夕方だったが、まだ昼間の様な陽光の中、庭先には、叔母にしては珍しく明るい色の草花が以前より多く彩られていてまるで飛び出す絵本のようだった。
夜になり叔父も帰ってきてささやかな歓迎会を開いてくれた。出来の悪い息子が帰って来ただけだからと、歓迎会なんて大げさなんだからと、ナナモは照れたが、そういうことを言ってくれるようになったと叔母は涙ぐんでいたし、叔父も気分が高揚しているのが、緩みっぱなしの笑顔で読み取れた。
ナナモは記憶としても人格形成においても二人と一緒にいた期間に改めて感謝した。
「ジェームズ、大学生活はどうだい?」
疲れているのよジェームズはと、叔母の言葉を気にしながらも叔父は話したくてしかたがないようだった。ナナモは、二人にジェームズと呼ばれたことに懐かしさと愛情を感じたし、ロンドンに居る間は誰からもそう言われるんだと改めて思った。
「まあまあだよ」
ナナモは二人に悟られたくなかったので、努めて明るく言った。二人はそんなナナモに気が付いたのか、顔を曇らせたように思ったので、本当はクラスに誰も友達はいないし、サークル活動もしていなかったが、イチロウとナオミの話にVRの事を付け加えて、一方的に押し切った。懐かしいでしょうと、和食好きの叔母なのにわざわざ作ってくれたローストビーフをぺろりと平らげた頃には、二人は次第に和んでくれたようだった。
ナナモは二人と話していても一向に疲れなかったし、眠気も襲ってこなかった。それよりも、大学生活が始まったのに何かまっすぐに歩いていないようで、二人を見ているとそのことがつらくて仕方なかった。
ナナモは揺れ動いている。けれど、その悩みは弱みとなるから見せたくない。だからナナモは近況報告のネタが尽きる頃合いで叔父に逆に尋ねてみた。
「ところで、マレおじさんもミチおばさんもやっぱり記憶がまだ戻らない?」
ナナモの記憶は相変わらずだったが、それは自ら命を絶とうとしたことからの逃避だったのかもしれないので仕方がなかったがふたりは違う。それに立派な大人であるし、ナナモと離れて一年以上経つ。何かしらの記憶が戻ったかもしれないし、戻るように努力したかもしれない。
「なぜそういうことを聞くんだい?」
相変わらず正直さに染みひとつない二人は申し訳なさそうに首を横に振ってから、ナナモへの答えの代わりに尋ねて来た。
「今年、日本に居てお盆を迎えたんだ。去年は受験でそんなことは気にも留めなかったし、マギーが何かをすることもなかったからわからなかったんだけど、日本ではお盆に先祖を供養するって聞いたんだ」
二人はうんうんと顔を揃えて上下に動かした。
「そうだね。私の祖先だからね」
「だったら、どこにご先祖様の墓があるのか知っている?」
ナナモは叔父に尋ねた。
叔父はしばらく黙って何かを引き寄せようとしていたのが、溜息をついてから、思いだせないと、ナナモに告げた。ナナモはやっぱりかとがっかりしたが、そうだろうと半ば思っていたし、今度も嘘ではないと思った。
「マーガレットさんは何か?」
「知らないって。マレおじさんに聞いてくれって」
マギーは母の母だ。よく考えれば知らなくても無理はない。
「でも、マーガレットさんは日本の先祖にとても興味を持っていたように思うのだけど……」
「本当?」
「いや、勘違いかもしれない……」
叔父はうつむきながらしばらく考え込んでいたが、やはり思いだせないと申し訳なさそうに首を振った。
「受験中は遠慮してくださったのかもしれないけど、もし、私の記憶通りだったら、大学に入学してからは日々の生活で、日本のことについて色々と教えてくれたりしただろう」と、叔父は尋ねて来た。
「実は、僕が大学に入学することが決まってから、マギーは東京にはいなくなったんだ」
ナナモはキリさんというひとの事を説明しなくてはならなかった。
「でも、マーガレットさんからジェームズがロンドンに行くから、その時はよろしくってわざわざ連絡があったわよ」
叔母は不思議そうにナナモを見る。
「僕には西の方だって言っていたけど、その時マギーがどこに居るかおばさんに言ってくれた?」
「確か奈良に居るっておっしゃっておられたと思うわ」
「奈良?そこで何をしてるって?」
「さあ」
マギーは日本文学を専攻していたと話してくれたように思う。ただし、その具体的なことについては一度も聞いたことがない。だから、ナナモの記憶違いなのかもしれない。でも、もし、本当で、日本文学に限らず日本について何か学んだり何らかの仕事をしたりしているのであれば、確かに日本に最初に都が置かれた奈良の地に長期間居ても不思議ではない。でもどうして奈良に?もしかしたらナナモや両親と何がしかの関係があるのだろうか?
「ところで、どうしてお墓参りに行こうと思ったんだい?」
ナナモの考え事を断ち切るように叔父が尋ねて来た。
「だって、日本に居るんだし、僕はクニツ家の長男として二十歳になったから……」
「ご先祖様にご報告したかったんだね」
「それだけじゃないんだけど」
ナナモは一瞬躊躇した。しかし、ロンドンに着いた今夜しかこのことを二人に言えないと思って勇気を振り絞った。
「僕は医者にならなかったから、そのことを謝ろうと思って……」
うつむいていたナナモはそっと叔父を見上げた。
「そうか? そのことを気にしていたのかい? もしかしたら私がクニツ家が代々医師の家系だって言ったからかい?」
「それに、僕は父さんも医者だったって思っているんだ」
そのことは東京での夏期講習を受けるためにロンドンを発つ前、まだ自分の進路を決めかけていたナナモが叔父と話していたことだった。
「ナナモが決めたことだ。ご先祖様は怒らないよ」
叔父はまるで優しく頭を撫でてくれているような口調で諭してくれた。叔母も頬を緩めて頷いてくれていた。
うつむいていたナナモは二人を目の前にもう少しで涙が瞳からこぼれそうになった。あわてて、天井に視線を移したが、しばらく言葉が出なかった。
ナナモは二人に言わなければならなかった。それは、何度も繰り返し脳裏に刻みつけられている言葉だ。
ここがロンドンだからか、八月としては涼しさと軽さを持ち合わせた夜風が庭先の花々の香りを引き連れて、ナナモにほんの小さな勇気をもたらせてくれる。ナナモはそう言えば、ルーシーの相撲大会に出かけた時の奇妙な体験を同じ香りに誘われて話したことを思い出した。あの時にナナモは医者を目指そうと思ったのだ。でも、医者ではなくもっと違う運命があったようにも思えた。ナナモは、その運命を今のままでは受け入れられないと思い始めていた。だから二人にあの時のように自分の思いを聞いてもらおうと思った。ただし、今回は奇妙な経験ではない。ナナモ自身が考え抜いたことだ。ナナモは口を開く。そして、「僕、大学を受け直そうと思っているんだ」と、声帯を揺らそうとした。
「ところでルーシーには伝えたの?」
叔母の問いかけにナナモは思わずむせてしまった。いいやと、何とか返事をしたが、大丈夫という顔を取り戻すのに少し時間を要した。どうしてこんなタイミングで叔母はルーシーのことを尋ねてきたのだろう。ナナモは急に身体が萎んでいくようで、もはや自分自身の思いを言葉にすることが出来なくなっていた。
「ロンドンに居るからいつでも会えるだろう。それにおばさんに日本について勉強させてもらっているって聞いたけど」
ナナモはルーシーから内緒だと聞いていたのに平然と話していた。きっと、その事に気が付かなかったのは自分のこととルーシーのことで頭の中が混乱していたからかもしれない。
ルーシーはロンドンの大学に通っていた。それにルーシーのお母さんが気になるので、夏休みもどこにも行かないと言っていた。連絡するのは簡単だ。でも、もし、連絡した時に彼(恋人)と一緒だったどうしようと、そのはざまに居ただけだ。
「しばらくロンドンに居ないって言っていたわよ」
「それいつ聞いたの?」
「先週だったと思うわ」と、叔母さんは記憶を引き寄せていた。
「どこへ行くって?」
「オックスフォードよ」
ナナモは彼とバカンスなのかと思ったが、それならどうして、オックスフォードなのかわからなかった。もしかしたら彼はオックスフォードの大学に通っているのだろうか? 混乱に妄想が加わり、清々しい夜風が暗闇に乗じていつの間にか重しを付けてナナモにのしかかって来ているように思えた。
「そこで何をしているんだろう」
「さあ?」
独り言のように尋ねたジェームズに対して叔母はそう言うと、一瞬間を置いてから、マーガレットさんと同じねと、まるで魔法を解いてくれる杖の動きのようにしなやかに微笑んだ。叔父も杖に導かれたのではなさそうだが、自然と欠伸が漏れていた。
ルーシーの事は気がかりだったが、それよりもナナモは、二人にナナモの思いを聞いてほしいと口を開きかけたが、二人の安らぎが反対呪文だったのか、今夜はもうこれ以上の話は出来ないと跳ね返されるように思えて仕方なかった。今夜はなかなか寝付けないかもしれない。ナナモはよりらんらんとする意識を閉じ込めようとする瞼を手でこすりながら、もし魔法であっても他のことは明日すべて消え去ってしまっていてもいいが、ナナモの決意だけは明日も忘れずに、いつでも取り出せる宝石箱にきちんとしまっておいてほしいと願っていた。