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ジェームズ・ナナモと黄色の小槌  作者: まれ みまれ
7/28

(7)悩める本音

 今年は空梅雨だったと天気予報士は事後報告していたが、ナメクジが無造作に徘徊していたようなネバネバした感覚は昨年と変わらなかった。ロンドンから日本へ、大学受験の夏期講習を受けるために戻ってきたときは、慣れていないということもあって、何時も濡れているような気分だった。その上、何百個という炊飯器が作動しているような蒸し暑さで、身体中に重りをぶら下げて歩いている様なけだるさもあった。

 相変わらずイチロウとは時々アルバイトの事で会っていた。大学のカフェの中は学生で熱気ムンムンなのに、クーラーのためか天気予報士が必要ないほどいつも快適だった。イチロウはナナモと会ってもあれから異世界について全く聞いてこなかった。それどころかナナモが声を掛けるまで、険しい顔で自分のパソコンとまるで闘牛士のような集中力で格闘していた。最初の頃は新しいVRを作成しているのだろうと思っていたが、それがナナモの情報収集への挑戦だと知ってからは、また、イチロウへの嫉妬というか、自分は何をやっているんだろうと、ナナモはますます落ち込んでしまっていた。

 ナナモは今日もまったくわからない電子工学基礎理論の講義を聞いていた。相変わらず名前が憶えられない教官は、黒板一杯に、何やら動かないミミズを何匹も描きながら、見慣れた文字なのに暗号にしか思えない数式を得意げに書き記していた。いつものように上着を脱ぎながら講義を進めていたが、一呼吸置くと眼鏡をはずし、「前期の講義は今日で終わりです。来週は試験を行います」と、唐突に話し始めた。教室内では、「えーっ」という、驚きなのか、それとも講義が終わったことに対する安堵からなのかわからない微妙な空気が流れていた。

「電子工学部のみなさんにとっては大切な講義だったはずです。幸いにもこの講義は基礎中の基礎なので、普通に講義を聞いていたら試験など怖くはないはずです。もちろん必須単位ですので進級のためには合格していただかないといけませんが、そんなことよりも、あなた方の将来には必ず役に立つ基礎理論ですから、満点を目指してどうか頑張ってください」

 親身になって話してくれているのに、眼鏡を外した顔が爬虫類に似ていると思ったのはナナモだけだったのかもしれない。それほど、その教官の基礎中の基礎と言う言葉が耳障りだった。

 教室内ではヒソヒソ話として、あの教官はああ言っても、一年生には優しいから、これまでほぼ同じ問題を出してくれていたと、ナナモにはまことしやかに聞こえて来た。一度も話したことはなかったが、、体育の授業の時にペアを組んでくれた優しそうな学生が、その過去問を僕は持っているけどと、わざわざ声を掛けてくれた。

 ナナモはその申し出を断った。なぜならナナモはその教官の言葉を信じようと思ったし、その通りだとも思ったからだ。そして、珍しくナナモはその日、家に帰ると、共通テストのテキストではなく、電子工学基礎理論の本とこれまでナナモが書き記してきた講義のノートを何度も読み返してみた。しかし、まるで回線がショートしてしまったのか、いくら叩いても反応しないキーボードのように、ナナモは自分で書いたノートの同じところを行ったり来たりするだけだった。   

 僕は今まで何を勉強していたのだろう?

 ナナモは、溜息を何度もつきながら、それでも、「もし、試験に難なく通れば、僕はイチロウと同じようになれる可能性がある」と、ひとり自分を慰めるしかなかった。


「試験どうだった?」

 イチロウはナナモの何かに期待してくれている。そんなそよ風が、いつものカフェで学生に混じってパソコンに相変わらず向かっているイチロウの所に誘ってくれた。試験期間に入ったためにアルバイトを中断せざるを得なかったので久しぶりだった。

「ダメだった」

 イチロウの問いかけに間を置かずに答えられたのは、何となく結果がわかっていたからだ。

 イチロウはナナモの落胆を察したのかもしれない。それ以上の言葉はかけてこなかった。ナナモは反対にイチロウの顔を見られたことで何かが吹っ切れたというか何かから解放されたようでかえって楽になった。

 ナナモはだからつい噴き出してしまった。

「何がおかしいんだよ」

 イチロウには悪いがナナモは含み笑いをこらえることが出来なかった。

「だって、何も書けなかったんだよ」

「何も?」

「ああ。試験だから、答案用紙に何か書かないといけないのに何もわからなかったんだ。そんな電子工学の学生っている? それも電子工学基礎理論だよ。電子工学の基礎の基礎だよね」

 顔を幾分こわばらせながらイチロウは掛ける言葉もない様だ。

「相当難しかったんだ」と、言葉を絞り出す。

「僕にはね。でも、少なくとも僕の両隣は、答案用紙を埋めていたよ。もちろん正解かどうかはわからないけど、僕にはそれすら出来なかったんだ」

 だから、笑わないわけにはいかないだろうと、そう言いながらも笑顔のナナモの眼だけは売れ残った魚のように精気を失っていた。

「過去問もあったはずだよね」

 イチロウがどこからその情報を入手したのかもうどうでも良かった。それでも、ナナモは干からびた瞳からでも零れ落ちそうな涙をじっとこらえていた。

「過去問を暗記したらよかったんだろけど、やっぱり僕は電子工学部の学生だから。この単位だけは自分なりに理解して試験に臨んでそれで合格しようと思ったんだ。僕は決して格好つけているんじゃないんだけど、電子工学の基礎を習得しないと、決してこの学部が好きにはなれないような気がしたんだ。それはイチロウが僕に教えてくれたんだ」

「俺が?」

「ああ、僕はイチロウを超えたいって思ったから」

 ナナモのライトブランの瞳には紗がかかっていた。その瞳はナナモのやや彫りの深い眼窩の中に埋まって寂しそうに佇んでいた。そのことにイチロウは気付いていた。

「俺を超えたい?」

「ああ、でも正確に言うとイチロウに嫉妬したのかもしれないな」

「俺は浪人生だぜ」

 イチロウは附に堕ちない顔をしていたが、あえてその真意を真面目に聞こうとしてくれている。

「浪人生であろうが大学生であろうが関係ないんだよ。僕が前期試験であくせくしている間、イチロウは、もしかしてだけど、僕について色々と調べてくれていたんじゃないのかなあって思ったんだ」

 イチロウは黙っていた。

「だから、僕は僕に出来ることは何だろうと思ったんだ。そしたら、僕が出来ることは電子工学基礎理論を十分理解して、何とかイチロウに教えてあげることだと思ったんだ。前にも言ったと思うけど、この講義に僕はずいぶん前から落ちこぼれていてついていけなかったんだ。それなのに、家に帰っても復習することなんか一切しなかったんだ。試験前だけやっても無理なことは知っていたけど、でも、もう一度やり直してみようと思ったし、そうすることで、僕は僕の経験した異世界はコンピューターの創った世界ではなかったって証明したかったんだ」

 ナナモは頬を紅潮させ口調が強くなっていたのだろう、周りから音が消えていく。それでもイチロウは素知らぬ顔をせずにナナモから視線を外さなかった。

「でもね、やっぱりダメだったよ。僕は僕なりに勉強したんだけど、僕には理解できなかったみたい」

 ナナモはうつむくことで拡声器から口元が離れていく。

「ナナモの話したことを僕は全て否定しているわけじゃないんだ。だたし、ナナモがナナモを信じようとしていたように、俺は俺を信じようとしただけだから」

 イチロウはまるでナナモから拡声器を奪ったようだ。

「俺も前に言ったけれど、俺のやっているVRの世界はずいぶん前から興味を持ってやってきたことなんだ。スポーツや音楽に興味を持ってのめり込んで行くやつがいるように、俺はゲームから入ってそのうちコンピューターにのめり込んで行ったんだよ」

 イチロウはナナモと同じように視線を落とし、拡声器を外しながらそれでも言葉を継いだ。

「落ち込んでいるのはナナモだけじゃないんだ。俺もナナモが電子工学基礎理論の勉強をしている間、ナナモの言う通り、色々とアクセスしてナナモの過去について調べてみたんだ。でもさ、俺も何も得られなかったんだ。手がかりすらさ。だから、俺は反対に電子工学基礎理論がわからないからだと思ったし、俺とは違って大学生として電子工学基礎理論を勉強できる権利と基礎を持っているナナモがうらやましかったんだ」

 もはや二人には拡声器は必要なかった。カフェも二人を隔離しようとは思っていないようで、周りの学生達はわれ関せずと会話を楽しんでいた。

「イチロウが大学生になれば解決する話だよ」

 ナナモは決して自分が大学生だからという上からの目線で言ったのではない。

 イチロウもそのことはわかっているという風に頭をかくだけで別にナナモを睨み付けてはこなかった。

 カフェの大きなガラス越しに夏の燦燦と輝く太陽が二人にめい一杯の笑顔で微笑んでくれている。でも、クーラーのよく聞いている店内には、その感情のこもった季節感は全く伝わってこなかった。

 ナナモはイチロウと違って、大学生だ。だから、どうすれば解決するんだろうと思わず、「僕はもう大学生になれないのかあ」と、言葉を冷風に紛れ込ませてみた。

「どういうこと?」

 イチロウはかすかな温度差を見逃さない感性があるようだ。

「電子工学が理解できないまま卒業することになったらどうしようと心配なんだ」

「ナナモはいつもネガティブだな。何とか生きてはいけるさ」

「でも、僕は何にも解決しないまま、人生を送ることになるんだよ」

「そんなわからないことをくよくよしてもしょうがないだろう」

 イチロウは笑いながら、「だから僕は今でも大学生になれないのかもしれないな」と言葉を継ぎながら笑っていた。

「ナナモはどうして電子工学部を受験したんだい?それもわざわざ日本に戻ってきたんだろう。何か特別な理由でもあったんだろう」

 イチロウは当たり前の質問をしてくる。

「僕の家は代代医者だったんだ。日本に戻って来る直前にロンドンの叔父から聞いたんだ」

 ナナモは当然イチロウも知っていると思っていたのだが、意外にもイチロウは俺が調べた範囲ではわからなかったと正直に言ってくれた。

「じゃあ、医学部を受験していて合格しなかったから工学部に来たのかい?」

「そんなことはないよ。でも、一瞬、頭の中をよぎったことは確かなんだ」

 本当はある時期までは医学部を目指していたことをイチロウには正直に言えなかった。

「共通テストがね……」

「結果が悪かったから方向転換したんだ」

 イチロウにズバリと言われると返す言葉がなかった。しかし、事実はそうだったのかもしれない。日本の大学は入試問題が難しいと聞いていたので、二次試験の勉強を主にしてきたというか、それで精一杯だったのだ。

「だったらロンドンで医学部を目指せばよかったんじゃないか?」

「どこの国でもそう簡単じゃないし、英語が話せるのはメリットだけど、それだけじゃないから……」

 イチロウもそうだよな、そう簡単じゃないよな、という顔でわかってくれた。

「でも日本に来たのは別な目的があったからなんだ」

 ナナモは何となくの思いでイチロウに話し出していた。

「笑わないでほしいんだけど。前に、ロンドンのユーストン駅での不思議な体験のことを話したよね」

「謎の?」

「そう。謎の日本人。その男の人は実は僕にもっと重要なことを話してくれたんだよ」

「重要なこと」

「ああ。僕が継承者だって」

「誰の?」

「それが思い出せないんだ」

 ナナモは大学前駅であの日本人男性に合ってから、時折朝方になると、誰かが暗闇から叫んでいる声が聞こえてきていた。その声はまるでスマホのボイスアシスタントの様に抑揚がなかったし、最初は何を言っているのか眠っていたのではっきりとはわからなかった。

「もちろん、変な香りに惑わされたわけじゃないよ。だから夢だって思ったんだけど、しつこかったんで、夢なのに聞き耳を立てたんだ。そうしたら……」

 イチロウは珍しく目を輝かせて前のめりになっていた。

「継承者になれば両親のことがわかるかもしれないって」

 イチロウは想像していた答えではなかったのかナナモの言葉に落胆している様だった。だからか思わず、「誰かかわからなかったのかい」と、尋ねて来た。

「ああ。でも、なんか大学受験と同じくらい大変そうな気がしたんだ」

 ナナモはそう言うしかなった。

「今でも聞こえてくるのかい?」

「それが最近は聞こえなくなったんだ。前記試験の勉強で疲れていたし、やっぱり夢だったのかもしれない」

 ナナモはやはりイチロウに言うべきではなかったのではないかと後悔した。しかし、イチロウはまったく気に留めていないという風ではなかった。

「ナナモの話は俺とはやはりどこかで次元が違うのかもしれないし、もし、ナナモが、どういう手段になるのかはわからないんだけど、その継承者になれたら、俺が調べられなかったナナモの過去を知ることが出来るかもしれないし、ナナモは俺を超えられるのかもしれないな」

 イチロウの言葉はまさに刃のようにナナモの胸に突き刺さった。

「僕はどうしたらいいんだろう?やっぱり電子工学部にこのまま在籍していても仕方がないのかな」

ナナモはめり込んでいく刃を抜けずもがいているような気分になった。

「それは俺にもわからないや。だってナナモは電子工学基礎理論の講義を聞いているから自分に合わないってわかるけど、俺はいつも聞いているわけじゃないからそのことについてわからないし、今は理解していなくても、もし、何かのきっかけで電子工学基礎理論を理解しだしたら、ナナモは俺を急に追い越してコンピューターの世界で画期的な発明をするかもしれないからな。そうしたらもはやナナモは社会の継承者になっているさ」

「未来はわからないってこと?」

「そうさ」

 イチロウは開かずのパソコンを指先で何度もいじっていた。

「でも、これだけは僕は言えると思う。僕がどれだけコンピューターに精通したとしても、僕はコンピューターが創れない異世界が必ず存在すると信じている。そして、継承者はその異世界と関係しているんじゃないかって・・・」

 イチロウはなにか言いたげだったがナナモは強く制した。だからイチロウはそれ以上の言葉を掛けなかったし、パソコンを開こうともしなかった。

「ところで、お金は溜まったのかい?」

 二人にとって話題の転換はグッドタイミングだった。

「ああ、ロンドンには行けそうだ。でも、もう少し稼ぎたいんだよ」

「なぜだい?」

 ナナモはお金が必要な別の目的があったが、それはイチロウにはまだ言いたくなかった。


 あれだけアスファルトに浸み込んだ梅雨の湿気が、夏の太陽の到来とともに跡形もなくなってしまっていた。それと同じように、基礎数学、物理学、電気化学などの講義内容は前期試験が終わると、ナナモの記憶から完全に消え去ってしまっていた。

 ナナモが最後に受けたフランス語の試験が終わった後でナオミが話しかけてきてくれた。以前にも聞いたが、ナオミはフランス語が不得意と言うわけではない。むしろ、大学の教養課程のごく初期のフランス語のテストなら余裕で合格点がとれる能力を持っている。フランス語の講義を受け続けるためにわざと白紙の答案を今までは提出していたのだ。しかし、今年はそう言うわけにはいかない。ナオミは大学院に進学する予定だからだ。

「電子工学基礎理論は惨敗だったよ」

 ナナモはナオミに会うと聞かれもしないのに自分からそうつぶやいていた。

 きっと今もイチロウと会った時と同じように情けない反動でにやけているのだろうが、ナオミはきっと男の照れ隠しだと思ってくれているのか、それとも無関心なのかわからなかったが、「何がおかしいの?」とは聞いてこなかった。

 ナオミは電子工学基礎理論のことより、フランス語の試験を気にしている。そのことが表情に明らかに漏れ出ていた。だからナナモは、「ナオミが訳してくれた日本語を必死になって丸暗記しただけだったけど、フランス語を勉強しているとロンドンの事を思い出すから結構楽しかったよ」と、素直な気持ちを話した。

 ナオミはそんなナナモに頬を緩めてくれると思ったのだが、すぐに何かを思い出したのか、きりっと目じりを上げてナナモを見つめて来た。 

「私が訳した日本語をそのまま書いたの?」

「ああ、ずいぶんの量だったから憶えるのに苦労したけど、見慣れた単語がいくつかあったから、それで、あの場所だと思ったら、スラスラと記憶が蘇ってきたんだ。だから、完璧さ」

 ナナモの言葉を聞いて、ナオミは大きな溜息をつく。そして、なぜかナナモに向かって手を合わせてごめんと口だけを動かしていた。

「工学部の試験はテキストの抜粋だって、ナオミ、僕にそう言ったよね」

 ナナモはただ確認したかっただけだった。けれども、ナオミはまだ同じ仕草をしている。そして、「どういうこと?」と、ナナモが尋ねたのでイタズラの言い訳をする子供のように弱々しかったがやっと音を発してくれた。

「あの先生今年は妙にひねくれていたの」

「ひねくれていたって? 意味が分からないよ」

「だからね。途中の文章を中抜きしていたのよ。それに、男女を入れ替えた上に微妙に単語も変えていたの。だから、あのまま書いていたら、全く訳になっていないことになっていたわね」

 ナナモの身体は冷凍庫に放り込まれたようだ。

「じゃあ、僕は0点ってこと」

 ナオミはばつの悪そうな顔でナナモに掛ける言葉がなかったようだ。

「僕への意地悪かな」

 ナナモはぽつりと言った。しかし、ナオミは肯定も否定もしない。それに条件は同じだ。ナナモと同じように丸暗記していた学生は同じ結果になっていたことになる。ただ、電子工学部でフランス語を履修していたのはナナモだけだということだ。

「ナナモは全く気付かなかったの」

 ナオミは英語が出来るナナモなら、何となく、それは勘なのかもしれないけれども気づいたんじゃないのかと思っている。

「確かにフランス語の試験だもんなあ。芝居のセリフじゃないもんなあ」

 ナナモにとってフランス語を学ぶことと、試験とは切り離して考えていた。だから、フランス語はこれからゆっくり学べばいいんだと、それよりあの先生の授業だけは、来年は受けたくない。だから、絶対試験に通るんだと、そればかり考えていた。それに、試験はテキストを訳すことだ。でも、あの教官は授業中、やたらテキストの意味を話したがっていた。でも、ナナモにはナオミがいる。だから安心して、それでも、テキストの試験範囲だけは丸暗記することだけに集中したのだ。

「今でも、まだ、言えるよ」

 ナナモはまるで興味本位でドラマに出て来る文化人のセリフのように、抑揚の全くない言葉で話し始めた。

「もういいわ。やめてよ」

 ごめんと、ナナモは子供っぽくナオミに当たってしまった自分を反省した。と同時に、本当は嫌だったに違いないが妹からノートまで借りてくれて一生懸命ナナモに教えてくれたナオミにありがとうと、付け加えた。

「過去には戻れないから。でも、間違いに気が付いたのなら、未来はやり直せるから」と、ナナモはそんなセリフをもっともらしくナオミに話していたように思う。だからか、「試験が終わったあと、夏休みには予定があるの?」と、ナオミは前を向かせてくれた。

「ロンドンに行こうと思っているんだ」

「何か用事でも出来たの?」

 ナナモはルーシーの事を相談しようか迷った。でも、なんだか恥ずかしいと言うよりも情けなくなってその勇気をなかなか出せなかった。

「大学に入ってからの初めての夏休みだし、久しぶりに友達に会いに行こうと思って」

「ロンドンには友達がいるの?」  

 ナオミは少し遠慮気味に尋ねて来た。

「ああ、少なくとも、ロンドンでは一人でランチを食べることはなかったよ。でも、最初の頃は今のように一人だったし、一人の方が良かったし、一人を楽しんでいたな。でも、あるクラスメートが僕に近づいてきてくれて、僕を励ましてくれて、仲間を紹介してくれたんだ」

「励ましてくれたの?」

「ロンドンに行く前に日本で色々とあってね。中学生でこの顔だろう。だいたいわかるだろう」

 ナナモはあえて具体的なことは言わなかった。ナオミは何となく理解しているようだが、あえて尋ねてこなかった。ルーシーはもう少し踏み込んでくれたのにと、ナナモはナオミの和の心をそれでも嫌だとは思わなかった。

「だからこんな僕を見たら皆驚くかもしれないな」

 ナナモはもはや恥じらいではなくわざとおどけて見せる。

「今も一人じゃないわよ」

 ナオミは初めてナナモを見つめて来た。ナナモはつい引き寄せられそうになったが、慌てて、イチロウのことを考え、とっさに、「ナオミもフランスに行ったらどうだい」と、尋ねていた。

「そうね。でも、今年は卒業研究をまとめなきゃならないし、大学院へ行くために勉強しなきゃならならないし、結構忙しいのよ。それにフランスに行っても私には友達はいないし」

「一緒に行こうか?」と、ナナモはもう少しで言いそうになったが、ぐっとこらえて飲み込んだ。

「ねえ、今の僕ってどう思う?」

 ナナモは話題を変えるつもりだけだったのだけど、ナオミは唐突に言われてびっくりしている様だった。

「いや、前期試験が終わったばっかりだったんだけど、ほとんどわからなかったし、唯一、工学系と関係ないフランス語も惨敗だったから、僕は電子工学部っていうか、この大学には合わないんじゃないかって思ったんだ」

「それ、本当にそう思っているの?」

 ナオミは先ほどとは異なる顔で心配げに尋ねてくれた。

「ああ」

「ナナモって受験のときって、数学や物理に自信があったでしょう」

「ああ、それなりには……」

「そう言う人が大学には入ってくると、陥りやすいのよね」

「どういうこと?」

「大学の学問って試験勉強じゃないのよ。高校の時にどんなに自信があっても関係ないのよ。大学で新しい学問が始まるの。もちろん、基礎学問がなければならないし、ナナモは合格してその権利を得たんだけど、本当は自分が目指す将来に向かって必要な知識を蓄えていくものなのよ。だから、もし、ナナモが電子工学を目指すなら、最初はわからなくても、わかろうとするし、そのうち身についてくるものだし、私のフランス語のように、何度も理解しようとチャレンジするはずだわ」

「そうなのかな」

「ナナモは何かから逃げているだけじゃないの?」

 ナナモはロンドンでルーシーから同じようなことを言われたような気がする。

「電子工学はナナモが選んだんでしょう。ナナモは電子工学を学んで何をしたかったの?」

 ナナモは、即答できなかったが、しいて言えば人を見た目で判断しないAIなら話し相手になってくれるのではないかと単純に思っただけだ。

「ナナモはひよっとして、他にやりたいことがあったの? それとも他の大学に行きたかったの?」

 ナオミはイチロウと同じようにナナモに詰め寄ってくる。ナナモは今度もはぐらかそうと思ったが、ナオミの目力はナナモの逃走を許さなかった。

「もしそうだったら、ナオミはそんな僕の事をどう思う? 情けない奴だと思う。彼だったら別れたいと思う?」

 首根っこを捕まえられたナナモはそう言うだけで精一杯だったが、その問いかけはついこぼれ出た最近悩んでいる本音でもあった。

 ナオミはまるで眉間に皺を寄せているような仕草でしばらく考え込んでいたが、急にナナモをじっと直視してからおもむろにニヤリとした。そして、ゆっくりとはっきりと、ただし、高い声ではない、てこでも動かないという女性特有の胆の据わった声で、「それはロンドンにいる彼女?それとも私の妹?」と、尋ねて来た。ナナモはその思いもよらない鋭さに、もし何か飲み物を口にしていたら、ナオミの顔めがけて噴き出していたかもしれないと思うくらいどぎまぎしてしまっていた。ナオミも万華鏡を持っている。ナナモは金縛りに合ったようにしばらくおどおどしながらナオミをじっと見つめていた。


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