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ジェームズ・ナナモと黄色の小槌  作者: まれ みまれ
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(6)秘めたる挑戦

 ナナモはキリさんが作ってくれたいつもの夕食をいつもの時間のいつもの放送局のテレビニュースを眺めながら一人で食べ終わった。いつも通り台所の流しで食器を洗い、乾燥器にタイマーを掛けてから、マギーが以前どこからかもらってきたヨーロッパ製のコーヒーメーカーにコーヒー豆をセットして、ニュースの続きを見ていた。全自動で抽出されるが、ほとんど無音だ。マギーもナナモも紅茶好きだったので、これまであまり使っていなかった。ところが、キリさんが無類のコーヒー好きで、拝借してと、本人は敬意を一応表しているが、いわゆる勝手に使用していて、その香りにナナモも思わずつられて最近はコーヒーを飲むことが多くなっていた。それでも気分によっては紅茶を飲むこともある。もちろん紅茶メーカーなどないから、手作業だが、日本の茶道のような独りよがりではない作法をナナモも一応は持っている。でも今日は絶対そんな気分じゃない。ナナモは強く思った。

 めずらしく真っ赤なタイトスカートを履いているテレビの女性キャスターが、レポーターからどこか海外の国で最近発生した感染症についての報告を受けていた。ナナモはその場所がどこかを確かめる前にテレビのスイッチを消した。そして、芳醇な香りで別世界に誘ってほしいという欲求と相まったまま、イギリス国旗でラベリングされたマグカップに注がれた琥珀の液体を持ったまま自室に戻った。

 ナナモはやらなければならないことがある。机に座り、焙煎されたコーヒー豆の産声にしばらく耳を傾ける。けれども、一向に落ち着きを取り戻せない。  

 ナナモはほんの一口飲んでみる。やはりほのかな甘みの喉腰は後押ししてくれないし、コーヒーの香りと味覚の重奏はナナモを昨日までの日常には戻してくれない。

 なぜルーシーに好きな人が出来たのだろう?

 ナナモは時間を垂れ流しながら、そのことばかり考えていた。

 ルーシーはロンドンで暮らしている時、ナナモのそばに居てくれた。もちろんいつもではなかったが、心の迷いで尋ねても居留守を使われたことなど一度もなかった。だからナナモは、いやジェームズはルーシーが好意を自分に持っていてくれていると思っていた。だから、あの日、リバプールまでルーシーを追いかけて行ったのだ。

(でもまてよ。あの日、相撲大会で怪我をしたルーシーを僕は見舞うことなく一人ロンドンに戻って来た。あのとき、ルーシーは傍に居てほしかったんだろうか。そうしなかった僕にルーシーは失望したのだろうか。でも、その後も僕は冷たい態度で接してこられたこともなかったし、東京で夏に行われた国際相撲大会に応援に行った時もとても喜んでくれた。ルーシーは時間があれば僕と日本中を旅したいとも言ってくれた。だから、僕はてっきり……)

 ナナモは閉じたパソコンを無造作にベッドに放り投げた。そして、ルーシーの事を忘れようと、ほとんど減っていないマグカップの冷めたコーヒーの液体を無理やりゴクリと喉に流し込んだ。

 ナナモはそれでも後ろ髪が引かれる思いだった。本棚に並べられているいつもの本を取り出して開くと、傍らにノートを拡げ、ペン立てから、HBの鉛筆を取り出し、その本を見ながら、そのノートに1から5までの番号を書き込もうとした。

 実はナナモは、電子工学部に通いはじめ、その講義を聞き始めてからもまだ、受験勉強に未練を抱いていた。だから、出来るだけ誰とも会わず誰とも話さず寄り道などせずに帰宅すると、大学での講義の予習復習をするのではなく、自分の部屋に戻って、問題集を開いていたのだ。だからと言って、自分が出来る限りの受験勉強をして折角入学した今の大学をすぐに辞めようと思ったわけではない。ただ、何となく後味が悪かったのだ。それは、二度も受けたのに共通テストの結果が悪く、ナナモが抱いていたある学部の合格圏内には遠く及ばなかったからだ。

「僕が共通テストに失敗したのは、ルーシーが日本に来られなくなったからではもちろんない。僕の能力が低かったからだ。それはわかっている。しかし、もし、共通テストで良い成績を取って、目標にしていた大学に受かっていたら、ルーシーにもっと早く、僕との付き合いを申し込めたのに……」

 ナナモは、独り言を繰り返すだけで問題集に全く集中出来なかった。だから同じ数字ばかりをそのノートに書き記していることさえわからなくなっていた。

 ロンドンに今すぐにでも行きたい! と、ナナモは素直に思った。問題集をすることよりも、大学で電子工学を勉強することよりも、ナナモ自身が真っ先にしなければならないことであるように思えた。しかし、授業を休まないといけない。だいたいロンドンまでの飛行機代がない。直行便でなければ、格安航空券が手に入る可能性がある。それでも、ナナモにとっては大金だ。マギーの家で暮らし、キリさんが食事の世話をしてくれているナナモにとって、自由にできるお金はあまりなかった。

 ナナモはマギーに頼んでみようと思ったが、マギーが今どこにいるかわからない。キリさんはきっと知っているはずなのに、メガネザルのような大きな目で、いつも知らぬ存ぜぬを貫き通してくる。


「久しぶりだな。あれから、また謎の男性に会ったのかい?」

 ナナモの呼び出しに、イチロウは初対面の時の印象とは異なり、目じりを下げる人懐っこさで、大学のカフェに来てくれた。

「ごめん、急に連絡して」

 イチロウは毎日大学に来ているわけではない。そう言えば普段何をしているのかどこに住んでいるのかナナモは知らなかった。だからナナモはまだ会ってから日が浅いこともあって何度かの躊躇はあった。 

「いいさ、僕は暇だから」

 確かにイチロウの身分は、今、浪人生だ。いや、大学準備生と言った方が正しいのかもしれないが、学生でも社会人でもない。それでも、なぜかナナモより充実している様だし、忙しそうにも見える。

「実は、バイトを紹介してほしいんだ」

「バイト?お金が居るのかい?」

 ナナモはまだ知り合って間もないイチロウにお金の話をするとは思わなかった。

「ああ、でも、変な目的じゃないよ」

「わかっているよ。それに、切羽詰まっていたら、貸してくれって言ってくるからな」

 本当は切羽詰まっている。そう言う気分だ。イチロウの今の言い方ならお金を貸してくれるかもしれない。その後にバイトして返すことも出来る。でも、イチロウにそんなことは言えない。ナナモは大学生なのだ。それに、なりふり構わずにルーシーの元へ飛んでいくということなど、悪い癖なのかもしれないがナナモには出来なかった。

「そう言えば、あの時も・・・」と、ナナモの心の中の不安げな溜息をイチロウについ話しそうになった。

「どんなバイトをやりたいんだい?」

 イチロウはそんなナナモの思いを気にすることなく、カバンからパソコンを取りだした。

「どんな?」

「お金の額も大切だけど、やりたくないバイトは長続きしないからな」

 イチロウの気配りにナナモは先ほどの思いから少し気が和んだ

「俺、前にナナモに実験させてしまったから少し心苦しい所があったんで、本当なら少しなら融通しようと思ったんだけど、それなりの額なんだろう。俺、こんなことばっかりしているだろう。だから俺も金はあまりないんだよ」

 イチロウはさらに目じりを下げた。

「ありがとう。でも、今までバイトをしたことがないからよくわからないんだ」

「一度も?」

「叔父の家は決して裕福じゃなかったけど、それなりに僕には気を使ってくれたからバイトでお金を稼ぎたいって言えなかったんだ」

「じゃあ、まったく働いたことはないのかい?」

「そんなことはないよ。でもそれは手伝いっていうか、高校生だし、ボランティア活動の一環だったから」

 イチロウはわかったようなわからないような顔をする。

「英会話の先生ってどうなの?」

「そうだね。でも、なんかこの際だから色々なことをやってみたいな」

「俺はバイトあっせん業者じゃないぜ。でも、アルバイトサーチっていうサイトがあるから・・・」

 イチロウはそう言いながらパソコンを起動させた。

「でもこのサイト、よく気をつけないとやばい人たちにつれていかれて、知らない間に犯罪にまきこまれたりするからね」

 イチロウはサラッというが、確かに便利さはそういう危うさを備えている。

「こんなこと言ったら怒られるかもしれないんだけど、毎日は無理なんだ。できれば、しばらくは土日が良いんだ。それも不定期で」

 ナナモはついイチロウに甘えてそう言っていたが、ずいぶん都合の良い願いであることにいささか恐縮する。

「それで・・・」

「それでって?」

「だから金額だよ。どれくらい必要なんだ」

「ロンドン往復」

「ロンドンに帰るのかい?」

 イチロウは少し驚いたようだ。

「まさか大学をやめて、また、ロンドンに戻るっていうじゃないよな」

「そんなんじゃないよ。でも前期試験が終われば出来るだけ早く行きたいんだけど」

 ナナモはまるで手を大きく振って違うってアピールするような顔の仕草で答えた。

「ひよっとして、ロンドンに戻ったらまた異世界に行けるって思ったんじゃないよね」

 オウムのようなイチロウの問いかけに、ナナモは、ルーシーの話が異世界だったらどんなにうれしいかと、もう少しで言いそうだった。

 

 ナナモはルーシーから、サマーホリデーに来週から入るという知らせを聞いて、彼氏とどこかバカンスに行くのではないかとやきもきしていた。しかし、今年は基礎体力を付けながら相撲道に邁進したいし、ナナモの叔母から色々と日本について学びたいし、何よりも母親と過ごす時間を大事にしたいという思いを聞いてからは、気が気でないといういらだちは相変わらずだったが、それでも幾分気を落ち着かせることは出来た。

 ナナモは月曜から金曜日までは、きちんと朝から夕方まで大学で講義を受け、きちんとノートをとる。一切寄り道などせずに、家に帰り、キリさんの夕食まで小説や新聞に目を通したあとは、ただ黙々と夕食をとる。その後は勉強机に座って、共通テストの勉強をしてから、風呂に入り、そして午前一時にベッドに入る。そういう単調な日々を過ごしていた。

 不思議なことに浪人生の時は、今より多くの時間があり、多くの教材があったのに、なぜか勉強に集中出来なくて、パソコンを開いたり、雑誌やゲームに手を伸ばしたりしていた。だからか、結局何も身になっていないと感じることが今より多かったような気がする。

「本当に短期のバイトでいいの?」

「ああ、前にも言ったけど、色々な経験をしたいからね」」

 騒音測定の助手、マネキン配送、プロ野球のスタジアムの案内、エアコン取りつけの助手、デパートの食品搬入部、そして引っ越し・・・・。

 イチロウが紹介してくれたバイトはどれもこれも時給はそれほど高くなかったが、その代り、すべてが安全な仕事だった。発注先もそれなりに知られた会社や、どこそこの公的な研究機関が多かった。引っ越しの仕事以外は時間にそれほど拘束されるわけではなく、体力的にもすこぶる過酷だと思ったこともなかった。きっとイチロウがコンピューターを駆使してすべてチェックしてくれているのだろうと思うと、電子工学部に在籍しながらもその手のことが全く不得手なナナモにとっては感謝しかなかった。ただそう思っているのはナナモだけで、イチロウはワンクリックで情報の収集と分析を、「大げさなんだからナナモは。だって、バイトだろう」と、瞬時にそういう操作を行っているのかもしれない。

 短期のバイトを依頼したのは色々な職種を経験したいからだが、ナナモはその中でも、出来るだけ対人が少ない職種を選んだ。それはナナモの容姿に対する不安からだった。ナナモはハーフである。それにハンサムだ。英語が話せるかどうかは別にしても、初対面なのに、ずけずけと土足で入り込んでくる人が結構いたのだ。ロンドンでは見た目で興味を持たれることもなかったので、日本の時より少しずつそれなりの付き合いが出来るようになってきていた。しかし、日本に帰ってくるとまたハーフとして見られる。それも中学生ではない。曲がりなりにも大人だ。ナナモは、折角、ロンドンで少し積極的に人との関わりが持てるようになってきていたのに、日本人より消極的でおとなしい青年にまた戻ってしまっていた。そして最近は、見知らぬ他人とのかかわりで、今の自分の時間が潰されるのが何だが非常にもったいないというか、少々わずわらしいと思うような人格になりつつある。

「昨日、ナイターで最後まで球場に居たら、モデルにならないかって、しつこく誘われたんだ。仕事中だと言って断っても何回も近づいてきて、最後には名刺を渡されたんだけど、何か胡散臭そうで・・・」

 慣れてきたこともあってナナモはついイチロウに愚痴をこぼした。

「ナナモはモテるんだろうな。うらやましいな」

 イチロウからそう言われてナナモは驚いた。だから、「イチロウがそんなこと言うとは思わなかったよ」と、バイトを紹介してもらっていることに感謝しながらも、ややこしいなあという表情を付けて、ナナモは言った。イチロウはナナモをそんな風に見ていなかったんじゃないかと思っていたからだ。

「だって、きっと誰から見てもナナモはいい男だし」

 イチロウはややこしいという種類の人達とはどうやら少し違うようだ。

「俺なんかフラれてばっかりだよ。ナナモはフラれたことなんてないんだろ」

 最近フラれたところなんだ。だから、バイトして、旅費を稼いでロンドンに戻りたいと思っているんだと、もう少しでナナモは言いそうになった。

「そんなことはないよ」

 ナナモはパスポートの写真のような表情だが、心臓は百メートルダッシュを何十回と行ったような鼓動だ。

「でも仕方がないんじゃあないかな。イチロウには悪いけど、僕と違ってイチロウは受験生だし・・・」

「ナナモは、ずいぶん古風な考えだな。受験は受験。恋愛は恋愛だろう」

 イチロウは意外なことを言う。でも、イチロウが街中で見知らぬ女性に声を掛けたり、もう成人になったのかわからないが、男女の飲み会に積極的に参加したりしている風には到底思えなかった。

「人を見た目で判断してはいけないぜ」

 まるで、ロンドンの爬虫類館で初めてアナコンダを見た時のような顔をナナモはしていたのかもしれない。

「ごめん。わかった? でも、どうしても、イチロウがナンパしている姿が想像できなかったんだ」

 ナナモはしばらく息を止めていたのに息苦しくなって一気に吐き出した。

 ヒヒより赤ら顔になっていたのか、イチロウはあきれたようすだったが、表情は子供のように穏やかだった。

「ナンパかどうかはわからないんだけど、これでね……」

 イチロウはパソコンのSNSを使って、アプローチをしているらしい。

「でもさ、俺、ナナモと違って、この顔だろう。だから最後の最後で怖気づいちゃって……」

「気にしすぎだと思うけど」

 イチロウはナナモなんかより、コンピューターに精通していて、何もできないナナモよりはずいぶん格好がいいと本心を付け加えた。

「俺はそれほどコンピューターが得意だと思っていないし、わからない人にはいまだにオタクって思われるかもしれないからな」

「わからない人……。そうかもしれないね」

「ナナモは僕からしたら羨ましいほどイケメンだけど、女性に興味がない。俺は女性に興味があるけどナナモが羨ましがっているコンピューターの魅力を伝えられないでいる。お互い様かもしれないな」

 イチロウからため息が伝わる。

「別に僕は女性に興味がないわけじゃないよ。でも、もしコンピューターの世界だったら僕は傷つかなかったかもしれないな……」

「そんなことはないよ。コンピューターだって人を傷つけるし、傷つけられることもあるさ。でもナナモはどうしてそんな風に思うんだい? 」

 イチロウは珍しく遠くを眺めているような含みのある表情をした。それはコンピューターの世界ではなく、現実の世界のようにナナモには思えた。だからナナモはその気になったのもかもしれない。中学生になった時に、ある女性から言い寄られて、それがナナモの容姿のみで近づいてきたことを知って、相手にしなかったら、そのことがクラス中に拡がって、いつのまにか、お高くとまっているハーフってレッテルを貼られて、いつしかクラスメートや友達を巻き込んだいじめに発展したことが口からこぼれ出てきてと、自然とイチロウに話していた。

「相当、つらかったのかい?」

「ああ、僕はそのことで死のうとしたはずだ」

「はず? 」

「日本に戻ってきて誰にも言ったことはないし、言ったとしてもたいていの人は信じてくれないと思うんだけど、両親が僕のいじめの核心的な部分の記憶を消してくれて、そして、ロンドンの叔父叔母夫婦の所に送り込んでくれたんだ。でもね、不思議なことにいじめの記憶はおぼろげに少しは思い出すようになったんだけど、両親の記憶が完全になくなっていて、いまだにどこにいるかだけじゃなくて生死すらわからないんだ」

 ナナモは嘗てルーシーにその話をした。ルーシーは信じてくれた。イチロウはどうだろうと、不安げに視線を合わせたが、異世界なんてないんだという断定的な表情はしていなかった。むしろ、「ロンドンで見知らぬ男の人に会っただけじゃなかったんだ……」と、そういう思いが伝わって来た。

「僕の言っていることを信じてくれるかい? 」

 イチロウはナナモの問いかけに即答してくれなかった。ただ、何バカなことを言うんだと、一蹴することもなかった。それどころか何か考えているようで、ナナモから視線を外すとしばらく動かなかった。

「ナナモには悪いけど、今ナナモが言ったことをすべて信じることは今は出来ない。やはり異世界はコンピューターが創った世界だけだと俺は信じているから。だって、もし、そうじゃなかったら、それはヒトが創ったものではなくてカミが創った世界になるからな」

「カミ? 」

 ナナモは靄のかかった森に中から月の光をおぼろげに感じるような気分に包まれた。

「そうさ。たとえコンピューターが創った異世界であろうとも、ヒトが創ったものならそこには整然とした理論がある。ナナモが今勉強している電子工学基礎理論もそのひとつさ。でも、だから、まだまだヒトでは解決できないようなこともあるし、反対にヒトがその理論を破壊しようとしてきたり変更しようとしてきたりする。でも、カミならそんなことは出来ない。カミの世界にはヒトはいけないから」

「そうだよね」

「俺はヒトの世界に住んでいる。そう思っている」

 イチロウはゆっくりと周りを見渡してから言った。

 ナナモもイチロウの真顔を見て、僕は何を考えていたんだろうというより、何を期待したのだろうと思った。ナナモはルーシーと同じようにイチロウにもわかってほしいと思っていただけなのだ。でも、ルーシーがナナモの言ったことを全く否定したりせずに信じてくれたのは、ひよっとしたらルーシーのナナモに対する思いやりにすぎなかったのかもしれない。だから、日本に戻って大学生として日々を送りだしているナナモはもう大丈夫なのだと離れて行ったのかもしれない。

 僕はどうしたらいいんだろう? と、ナナモはルーシーのことをこの際イチロウに話してみようとかと思ったが、そのことは全く異世界ではない現実だったので反対になんだか恥ずかしかった。

 イチロウはそんなナナモの思いを全く気にすることはなく、何かを思い出したようにパソコンを開き、しばらくデスプレイを見ながら物凄い速さでキーボードと格闘していた。

「どうかしたの? 」

 ナナモは真剣なイチロウの表情につい引き込まれてルーシーのことを忘れ、思わず尋ねていた。

「前に、ナナモの事を調べたって、俺言ったよね」

「ああ」

 ナナモは、「クニツ・ジェームス・ナナモだよね」と、自己紹介する前にそう呼ばれたイチロウとの出会いを思い出した。

「あるところまで行くとブロックされるんだけど、特にそれは、ナナモの両親の事なんだ。俺にも限界があるんじゃないかって今まで思ったんだけど、ひよっとしたらナナモがさっき言ったことと関係があるのかもしれないな」

「それで何かわかった?」

 ナナモは両親の話をイチロウに話して良かったと思った。

「いいや。やっぱりわからない」

 ナナモはやはりかと、あの時以上に落胆した。けれどイチロウは細長い溝の奥にあるだろう金色の硬貨に手を伸ばし続けてくれていたのかもしれない。

「じゃあ、カミの世界?」

 ナナモの口から自然とこぼれていた。

「いや、俺はやっぱり、そうとは思えない」

「でも、コンピューターにも解決できないんだろう」

「今はね。だから……、」

「だから? 」

「だから、それはヒトとカミの中間の世界かもしれないな」

 イチロウにしては珍しい答えだと思った。きっと苦し紛れに出た言葉なのだろうが、ときめきではないにしろ山々の芽吹きのような躍動感をナナモにもたらした。

「中間の世界か?」

 折角何かが到来したはずなのに、ナナモはその言葉の意味を深く考えようとはせず、ロンドンに行ってルーシーに会いたいと、そしてそのために、バイトをしなければならないと、現実に回帰するしかなかった。

(ルーシーが僕の方を振り向いてくれるにはどうしたらいいんだろう)

 ナナモは心の中でつぶやきながらなぜあんなことをイチロウに話したのだろうと少し後悔した。イチロウはまだ小難しい顔でパソコンと向き合っている。まるで研究者のようなその姿に圧倒されながら、ナナモはこのまま大学に居てイチロウのように自分はなれるのだろうかとおぼれ気ながら感じた。

 

 ナナモは珍しく寄り道してから帰った。しかし、どんよりとした暗幕が視界を遮ってどこをどのように歩いていたのか全く覚えていなかった。光を失った家にはもはやキリさんはいなかったが、台所のテーブルにはラップに包まれて夕食が置かれていた。ナナモは暗幕を引きずったまま食べ終わると、いつものように流しで食器を洗ってから自室に戻った。

 いつもならコーヒーを伴に机に腰かけるのに、今夜は無味無臭の世界に身を置きたかった。それでも、相変わらず大学のテキストなどに目もくれず共通テストの問題集を本棚から取り出し、鉛筆を握りしめながら、ノートに数字だけを書き記していった。しかし、ナナモの動きはすぐに止まった。そして、問題集とノートを閉じるとベッドに横になって頭の後ろで両手を組みながら天井を眺めた。

 ナナモは何度も答えのない質問を自分に課していた。そして、映るはずもないのに天井に投影された自分自身に語りかけていた。

(僕は何をしているんだろう。僕はまた何かから逃げようとしている。それはきっとロンドンから東京に戻って来たときに強く願っていたある覚悟からにちがいない。それなのに、いつしかどうせかなえられないんだと、かなえられなくてもいいんだと、この世界で他に出来ることがあるんだと、あきらめていた。

 でも、僕は決心しないといけない。それはとても大切な覚悟、いや、運命かもしれない。その運命にチャレンジしてみようと思う。チャレンジして何も変わらないかもしれないが、チャレンジしなければわからないことだってある。かなえられるかどうかはわからないではなくて、かなえるしかない。そういう決意が必要だ。きっともうすぐ始まる大学の前期試験で僕がこのま大学に居続けるべきかどうかがわかるだろう。その結果が出てからだともう遅いかもしれない。でも試練ならやりとげるしかない)

 ナナモは手を組んだまま腹筋だけでベッドから起き上がると、その日は珍しく一度も休むことなく深夜まで問題集とぶつぶつと会話しながら格闘していた。


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