(5)新たなる失望
今日は何だったんだろう。
帰りの電車の車内は学生だけでなく一般の人達も乗っていて肩擦れ合うほどではないにせよ混んでいた。ナナモはゆっくりと進行方向に向かって揺られながら、吊革に身を任せていた。外の景色をぼんやりと眺めながら、まるで日記帳に書き記していくように今朝から起こった出来事を頭の中で反芻した。もちろん、ナナモの頬には痛みや傷など何もなかったし、車窓にはゴーグルなど付けているナナモの姿は少しも投影されていなかった。それでも、今までの出来事が鮮明で、強烈だったので、まだその出来事が信じられなかった。
ナナモはいつものように寄り道などせず、新宿の街中を何度も人とぶつかりそうになりながらも、まっすぐ家に帰った。東京のど真ん中にどうしてこんな空間が存在し、許されているのだろうと思うほどの質素で典型的な瓦屋根の日本家屋が、殺風景な年代物のビル群の中でひときわ目立っている。
ナナモはこの家で母方の祖母である、マーガレットおばあさん(ナナモはいつもマギーと呼んでいる)とふたりだけで住んでいたが、マギーとはもう一カ月以上顔を合わせていない。ナナモにはよくわからないし、教えてはくれないのだが、なにやら仕事をしている。ずいぶん人気者なんじゃよ、ある世界ではね、と、あまりきれいだと思わない英語で、薄気味笑いを添えてナナモにいつも投げかけて来る。
マギーの正確な年齢はわからないし恐くて聞けないが、祖母である限りそれなりの年齢なのだろう。マギーは白肌で彫りが深く、ヘーゼルの瞳で、どうみてもイギリス人だが、同じ年代の日本人と比べて皺が多く、その分老けて見える。それでも、イギリス人としてそれなりの節度や身なりは整えている。マギーは自分の外観など全く気にしていないようで、日本の習慣やしきたりや考え方などに多少の愚痴をこぼしながらも日本社会に溶け込んでいる。
ナナモは誰もいないと思っていたが、ドアの鍵はかかっていなかった。
「ただいま」
家には誰かが居ることはわかっているのに、返事が全くない。ナナモはわざと玄関からどんどんと音を立てながら台所へ行った。
「ただいま」
ナナモはもう一度、目の前でナナモに背を向けながら台所で料理しているその後ろ姿に声を掛けた。
しかし、また、反応はない。何をしているんだろうと覗くように眺めてみる。しかし、よくわからない。だから、ただいまの代わりに、わっと驚かすつもりはなかったのだが、背中を両手で叩いてみた。
ギヤ―と、まるで、絵に描いた文字のように、隣近所数メートルに届くような、甲高い声が鳴り響いた。
「キリさん、僕だよ、僕」
ナナモは口を押えて羽交い締めにして黙らせたかったが、もちろん誰かに見られたらまさしくナナモが大泥棒にされてしまう。
「あ、ジェームズさん」
あれほど鳴り響いていたまるでパトカーのサイレンのような音が急に止んだ。
「ただいま。でも、あんなに大きな声を出されたら近所の人がまたかって思うでしょう」
キリさんはまだ怪訝な顔をしていたが、急に、 あっ、と、小さな声で叫ぶと、耳を覆っている髪の毛に両手の指先を入れ、親指と人差し指で何やらつまみ出した。
「ワイヤレスのイヤホン? それ、またしていたの? 困るからって、僕前に言ったよね」
マンガみたいな話だが、ご近所さんのご厚意でお巡りさんが交番から無料で駆けつけてくれた。交番は日本の治安を維持してくれる立派な制度だが、こういう時は少々迷惑だし、二人そろって平謝りするしかなかった。
キリさんはキリタニ・マツコというお手伝いさんだ。お隣さんという距離ではないが自転車で疲れない程度に来てもらえる距離に住んでいる。マギーが気まぐれで始めた英会話教室のマンツーマンのプライベートレッスンの生徒の第一号で、もう十年以上の関係だそうだ。マギーの家を訪れているうちにお手伝いさんとして雇われたらしい。マギーとはこの家で英語でしか話せないことになっているそうだが、ナナモのことをマギーと同じように「ジェームズ」と、さすがに、「さん」付けはしてくれるが、日本語でしか話してくれない。
「先生に勉強のために録音していただいていたものを聞いていたんです」
ナナモはこの女性が少し苦手だ。
風船のように太っていて小柄。染めているのかもしれないが肩口まで川のようなまっすぐな黒髪。眼鏡をかけていないから余計に目立つ大きな瞳。きっとそれなりの大人なんだろうと思わせる肌感。ずいぶん年の離れたおそらく子供にしか見えないはずなのに、たとえマギーの孫とはいえ、ナナモにいつも丁寧な言葉づかいで接してくれるし、怒られたこともない。かと言って、その言葉には感情がこもっていないように思えて仕方がない。ひよっとしたらそれはナナモの思い過ごしなのかもしれないが、確かめようと思っても恐くてなかなか切りだせていない。
「本当? ワイヤレスのイヤホンでマギーと連絡とっているんじゃないの?」
だからナナモはいつもお道化て友達のような言葉づかいで話そうと試みる。
「そんなわけありませんよ。こんなおばさんに何が出来るとお思いなんですか」
キリさんはナナモのこういう物言いに対してはくすりともしないで、能面の言葉を返してくる。それでいて、ナナモがやっぱり苦手だなという表情を少しでも見せると、それを瞬時に感じ取って、もみ手のような笑顔を作って来る。
「キリさんは案外コンピューターに詳しいからね。僕より数倍優秀で色々なことを知ってるから」
情けないことだが、本当にそう思っていた。キリさんはタブレットをいつもまるで指輪か何かの装飾品のように肌身離さず持ち歩いている。ナナモには何もわからないととぼけて見せるが、マギーから何か頼み事をされると瞬時に対応している。そして、何がしかのアプリをいくつか起動させてマギーの難題を瞬時に解決するばかりか、新しいアプリを開発していそうなきな臭ささえある。
「またそのようなことをおっしゃられる。ジェームズさんは電子工学部の学生さんですよ。おばさんの私をからかわないでください」
キリさんは今度は頬を緩めていたが、あの大きな瞳からは感情だけはこぼれてこない。
「嘘じゃないよ。本当に教えてほしいんだ」
キリさんは返事もせず、ナナモに背を向けると、先ほどの続きなのだろうか、おそらく夕食の準備なのだけど、何やら包丁で野菜を切り始めた。しかし、それはその光景が見えたからではない、音が聞こえてきたからだ。
ナナモはキリさんが居ても居なくても家に帰ると自分の部屋へすぐに行くことが多かった。しかし、今日は大学で何やら騒々しいことがあったんだと、キリさんに絡んでみたくなってダイニングのテーブルに腰を掛けた。
「今日大学で不思議な体験をしたんだ・・・」
ナナモはイチロウとの出会いをキリさんに聞いてもらおうと思ったのだ。
「それでね・・・」
キリさんが振り向いてくれたらと思ったのだが、振り向いてくれなかったので、ナナモは出来るだけわかりやすいゆっくりとした英語でつぶやき始めた。
ナナモはそれほど話が旨いわけではない。それに、不思議な体験といってもただある人を追いかけていただけだ。だから、言葉にしてもそれほど盛り上がる話でもない。それでも淡々と続けていた。
キリさんの後ろ姿は相変わらず銅像のようだ。
「異世界って、すべてコンピュ―ターとちょっとした調味料で創れる世界だって、イチロウって言うんだけど、彼はそう言うんだよ。僕は異世界って本当はあるんじゃないかって思っているから、それがすべてだなんて言われて納得できなくてさ。ねえ、キリさん、本当にそういうことって、コンピューターだけで出来るの?」
コンコンとそして、時には、ジャージャーと、そして、最後にはジュージューと、料理の音だけが聞こえる。きっと返事をしてくれないだろうと、それでもナナモは日本語で最後にそう言ってみた。
「偽の異世界と真の異世界ですか・・・。そうですね。紙一重ですね」
確かに シンラインと聞こえたような気がする。でも空耳かもしれない。
「ねえ、キリさん・・・」
ナナモがもう少しとさらなる声を出そうとした途端、料理の手を止め、キリさんは急に振り返った。
「コンピューターでは心も身体も、そして誰も傷つきませんから。だから、電子工学を選んだのでしょう。先生からはそうお聞きしていますよ」
「僕はそんなこと・・・」
ナナモは初めて聞く。なぜならマギーにそんなことを言った覚えはまったくなかったからだ。けれども、そう言われれば、受験校を最終的に決めようとした時、何かから逃げようと、いや、逃げなくてはならないと思っていたのかもしれない。
「キリさん、マギーは僕が今の大学に入学することになった時に、何か言っていた?」
ナナモはおそらく答えてくれないだろうと思った。
「あの子は追いかけなくちゃいけないって言っていたんだけど、どうするんだろうねと、おっしゃっておられました。ジェームズさんは誰かを探しておられたのですか?」
ナナモはキリさんの言葉を聞いて少し頭痛がした。そう言えば、イチロウのVRの世界の中でも、ナナモは誰かを追いかけていた。
「誰……」と、ナナモが考えようとした時に、「両親?」と、ふと頭をよぎった。けれども、ナナモの両親はどこに居るのかわからない。安否すらもわからない。でも、何かヒントがあったはずだ。それを探す為に誰かを追いかけていたようだった。もしかしたら今朝のあの男の人?いや違う。
「ねえ、キリさん、キリさんはマギーから僕の両親の事何か聞いていない?」
キリさんは思いもよらなかった質問に驚いているというのではなく、何を聞かれているのかわからないという顔をしていた。
「本当に異世界があれば僕は絶対行ってみたい。いや、行かなければならないんだ」と、ナナモは心の中でつぶやいていた。
「もう一度言いますよ。異世界が本当の世界なら危険が一杯です。コンピューターの世界では誰も死にませんが、実際の世界なら死んだり、そうでなくても病気になったり怪我をしたりするんです」と、ナナモの心の中でキリさんの声が聞こえる。
ひよっとしたら、僕は危険だからといって逃げてばかりいる僕を追いかけていただけなのかもしれないと、ナナモはそうキリさんに言おうとした。でも、その理由がわからない。わからないんだよ。
ナナモはもう一度、先ほどよりも激しい頭痛を覚えた。
「ジェームズさん、お部屋に戻らなくて良いのですか?何かおやりになっておられるんでしょう」
「どうして、そ、そんなことを言うんだい?」
ナナモはキリさんを見た。しかし、キリさんはナナモに背を向けて、何事もなかったかのように、また、料理に勤しんでいた。
ナナモは額を手で押さえながら自分の部屋へ行った。ベッドと勉強机と本棚があるだけの質素な部屋だ。もちろん、ロンドンでの思い出は小さなアルバムとして飾られている。ロンドンで住んでいた時は出来るだけ友達に会うために部屋に居ることは少なかったが、ナナモはもともと社交的ではない。日本に戻ってきて知り合いが誰もいなくなって、本来のナナモに戻ってしまったのだ。だから自分の部屋に一人でいると誰に気兼ねすることなく落ち着くことが出来た。
「でも、今日、急に見知らぬ男の人に話しかけられたり、イチロウとナオミという二人と出会って連絡先を交換したりと、今までなら到底考えられなかったことが起きている。だからと言って、そのことを拒んだりしなかった。むしろ、積極的だったかもしれない」と、ナナモはベッドに腰かけて自問したが、疲れでそのまま横になることもなく、却っていつもより興奮していた。
ナナモはベッドから離れると勉強机に座った。マギーがどこからか譲り受けてきた、何の装飾もないこげ茶色の木製の中古机と、身体にフィットするビジネス用のブルーの椅子というミスマッチだ。
ナナモは目の前に貼られているカレンダーを見た。
今日は特別な日だったんだろうか?
しかし、去年までなら、模試の日だとか、やらなければならない勉強の目的や、自分を鼓舞する言葉だとかをやたら書き込んでいたが、今では単なる数字の羅列に過ぎないカレンダーからは何も聞こえてこなかった。
ナナモは今朝駅で会った男性が、以前ユーストン駅で会った男性に似ていると思っている。しかし、似ていたとしても何かが変わるわけではない。だから、いつものように机に座って、パソコンを開き、「ルーシー、元気?」と、もっと気の利いたセリフを使えばいいのに、相変わらずの書き出しでメッセージを打ち始めた。
ナナモは、ロンドンの叔父叔母と一緒に暮らしながら、ロンドン南部のサマーアイズスク―ルに通っていた。駐在員のように海外から親と一緒にやって来た子供たちが一時的に勉強するクラスもあったが、ナナモは英語が出来たし、しばらくはロンドンで暮らすことになったので、一般生徒がいるクラスで勉強していたのだ。見た目もそうだが、あの時のナナモは日本でいじめられて、自ら命を絶とうとしていたくらい失意の中にいて、たまたま、記憶の喪失と引き換えにロンドンに来たのだから、学校に通っているというよりも、酸欠で口をパクパクさせている金魚のように、あてもなく日々サマーアイズという学校の水槽の中で浮遊していただけだった。それが日本に興味を持ってくれたルーシーというクラスメートの女性がナナモに近づいてきてくれて、ナナモに話しかけてくれた。いつしか冗談交じりにルーシーと話せるようになったが、それはルーシーの優しさのおかげで、その優しさにナナモは癒され励まされそしていつしか魅了されていた。
日本では中学一年生のナナモは、容姿や体格ですでに他の同級生と比べて飛びぬけて大人びていた。しかし、精神的にはまだまだ未熟だし、異性に対して特にナナモの場合格好つけていたこともあって、とても奥手だった。だから、なぜかルーシーが相撲という日本の国技をしていて、日本の様々な文化に興味を持ってわざわざナナモの所に尋ねに来てくれたのに、ルーシーと一緒に居た約六年間、ナナモは自分の気持ちを一度も伝えられなかった。
それでもナナモは受験生だった時には、毎日のようにルーシーに日本から些細なメールを、Love,Jamesではなく、Best wishes,Jamesで送っていた。それが大学に入学してからはめっきり少なくなった。ルーシーはきっと大学生活が楽しいんだね、日本に帰って良かったねと、好意的に受け取ってくれているのだろう。しかし、本当はその逆で、ナナモはもう一度ロンドンに来たばかりのときのナナモに戻ったことを、ルーシーに知られたくなかったのだ。だから、久しぶりに今朝ホームで起こった出来事は刺激的で、リバプールで行われたルーシーが出場した相撲大会をナナモが応援しに行った時に会った謎の日本人の話をルーシーにしていたので、(ルーシーはけっしてその話をナナモの空想だと決めつけなかった)同じような人だと思うんだけどと、手短にまとめてメールにした。ルーシーはどう思うだろう?
ナナモは久しぶりに、にやっと、気持ちが悪くなるくらいの微笑みをパソコン画面に向けていた。
送信ボタンを押してから1分も立たないうちに、ルーシーからオンライン通話の申し込みが届いた。
ナナモはびっくりしたが、すぐにアプリを起動させる。
画面に映っているのはルーシーだ。
「学校は?」
ナナモはパソコンとはいえ久しぶりに見るルーシーにそう語りかけていた。
「今日は休んだの」
ロンドンとは時差がある。東京は夕方だが、ロンドンはそろそろ学校が始まる時間だ。
「どうかしたの?」
「ジュードがね、夢に出てきたの」
ジュードとはルーシーの弟だ。先天的な顔面腫瘍で生まれてきたためにすぐに生死をさまよっていたが、顔には傷跡が残ったのだけれども奇跡的に回復し、美声を手にすることが出来た。しかし、さあ、これから彼の人生が始まると思った途端に、爆発事故で命を落としてしまったのだ。その悲しみからルーシーはめったにジュードの話はしないが、ロンドンに来たばかりのナナモ、つまりジェームズを励ます為に一度涙ながらに話してくれたことがあった。
「ジェームズに伝えてって、何か私に言ってきたの。ジュードの声はとても聴きやすいのに、肝心なところになると、聞きづらくなって、だから、一度は、えっ、て、もう一度、言ってみてって、言ったのよ。でもね、やっぱり、わからなかったの。私、それでももう少し食い下がればよかったのに、物凄く一生懸命だったんで、ジュードに何度も聞けない、聞いたら、私に不信感を持つんじゃないかって思ってしまって、ジェームズには悪かったんだけど、わかったわって言ってしまったの。ジュードはその言葉を聞いてとても穏やかな顔で私に、お姉さんありがとうと微笑んでくれて、スーって、いなくなったの。でも、私、ジェームズのことが心配で心配で・・・」
ルーシーにしては珍しく弱気な顔をしている。
「ルーシー、落ち着いて。僕は元気だし」
ナナモは、パソコン越しに笑顔を送った。
「そうね。そうよね」
ルーシーは微笑みこそしなかったが、さらっとしたブロンドヘアーの隙間から射す大きなブルーの瞳の木漏れ日をやっと返してくれた。
「ジュードに会えるなんて久しぶりじゃない?」
ナナモはわざとそう言った。ルーシーはそのことを聞いてやっと微笑んでくれた。
「少しぐらいは聞き取れたことはあったの?」
ルーシーは一生懸命思いだそうとしてくれている。
「そうね。確か、ウサギって言っていたわ」
「それだけ」
ルーシーはまたしばらく考え込んでくれていたが、もうこれ以上は・・・と、ナナモに謝っていた。
「また、思いだすかもしれないから、・・・」と、ナナモは、「ウサギか・・・」と、何度も反芻していた。
「なにか心当たりでもあるの?」
「いいや、何もピンと来ないよ。でも、もし、ジュードがわざわざ夢に出てくれて言ってくれたんだから、重大なことだろうね。でもそれだったら、どうして直接僕に言ってくれなかったんだろう」
「だって、ジュードはジェームズに会ったことはないから」
「そうか。僕はルーシーからいろいろ聞いていたし写真を見せてもらっていたから、ジュードと会った気分になっていたよ」
やっとルーシーは微笑んでくれた。
「ところで大学生活はどう?」
ナナモは、そりゃ楽しいさ、とは言えなかった。強がってそう言ったとしてもルーシーには見透かされてしまいそうだったからだ。
ナナモは、「メールだけだったら顔が見えないのになあ」と、そのことを感づかれないように、「まあまあだね」と、言うだけで精いっぱいだった。
「ところで、僕のメール読んでくれた」
ルーシーはごめんなさいと謝られたので、それどころじゃなかったんだねと、自分のことを心配してくれたルーシーに感謝の言葉を掛けながら、もう一度今朝起きたことを話した。
「その男性がジュードの代わりにジェームズに会いに来たのかしら」
「そんなことはないと思うよ。彼は、彼の役割があって来たんだと思うんだ」
ナナモはルーシーに言いながら、どうしてそういう解釈で話しているんだろうと不思議でしょうがなかった。
「役割?」
ルーシーの問い返しにナナモは即答できない。そうだ、ルーシーには話していない続きがあった。それは、あの時、相撲大会が終わって一人列車に乗ってロンドンに戻ろうとしていた時に、列車が一時停止して、その時にあの男の人が現れて、ナナモに何か言ったんだ。だから、ナナモは日本に来た。せっかくロンドンで楽しい日々を過ごしていて、自分らしさを取り戻して、そしてなによりルーシーという素晴らしい女性に巡り会えたのに、それらをすべて振り切るくらいの何か大切な役割を担うように告げられたんだ。
「でも、何だったんだろう?」と、ナナモは大声で叫びたい気分だった。
「ねえ、ルーシー、リバプールでの相撲大会から帰ろうとした時にも僕はその男の人に列車の中でもう一度会ったんだよ。その話ってしなかった?」
「初耳よ」
やはりそうだった。
「その時にその男の人に何かジェームズが果たさなければならないことを言われた?」
「そうだと、思うんだけど、憶えてなくて・・・」
ナナモは申し訳なさそうにルーシーに言ったが、本当はそのことが少し思いだされて気分が少し高揚していた。
「私達っておなじね」
ルーシーの無邪気さは相変わらずだし、そのことが誰彼ともなく人を惹きつける魅了なのだろうと改めてジェームズは思った。
「ルーシーこそ大学生活を楽しんでいるのかい?」
ナナモはこれ以上自分のことを考えているとルーシーと話すことが出来なくなるような気がして話題を変えた。
「うん。結局日本には行けなかったけど、日本文化について勉強しているの。ジェームズの叔母さんにも時々日本語や日本文化について教えてもらっているのよ」
ナナモには初耳だった。
「でも、これは秘密よ。叔母さんとの約束だから」
ルーシーは本当はナナモと同じように日本の大学を受験しようとしていた。しかし、ルーシーの母親が病気になってあきらめたのだ。ルーシーの母親は娘の背中を強く押してあげたのだが、弟のこともあって、もう家族が離れ離れになる悲しみが何よりも耐えられなかったようだ。
そのことを日本で聞いたナナモは、一度目の大学受験に失敗した時ロンドンへ戻って、イギリスの大学に進もうと思ったのだ。けれども、そうしなかった。いや、出来なかった。それは……。
「相撲は?」
ナナモは先ほどのことをチラと思い返していたが、あえて話題を変えた。
「続けているわ。「匠の技」っていうのかしら、でも、ヨーロッパはまだまだパワー相撲が主流だから。私も頑張らないと。来年大会がまた日本であるからその時は日本でジェームズに会えるかもしれないわね」
「待っているよ」
ナナモはけれどもあまりうれしくなかった。きっと、直接ナナモと会ったルーシーはどうしたの?なにかあったのと、今日みたいに心配顔で一日中寄り添ってくれるに違いない。
ナナモは面と向かっているが、パソコン画面越しなので、ルーシーに、「僕と付き合ってくれないかな」と、もう少しで言いそうになった。しかし、その後色々と話していたのに、なかなか言えなかった。
それでもルーシーはどんどんナナモの心に入って来る。だから、ナナモは息が詰まりそうになって、何百回、何千回自らの頭を叩いても、何故そう言ったのかわからないほどの後悔の念で、「もうじき、夕食なんだ」と、思わずつぶやいていた。
「ごめんね」
あっと、でももう遅かったし、それでも、「ありがとう」と、「心配してくれて」と付け足すので精一杯だった。
「じゃあね」
「また連絡するよ」
先ほどまでヨーロッパの妖精たちが異次元で奏でていた演奏が徐々に薄らいでいく中で、ナナモはリモートを終了しようとした。しかし、丁度その時、「待って」と、ルーシーが、ナナモ、いやジェームズに今まで見せたことのないような、頬を赤らめし古風な日本人のようにうつむきかげんで一呼吸おいてから、しっとりとした上目で、「私、好きな人が出来たの」と、息を漏らしてきた。
幸せのあまり踊りはしゃいでいたナナモの人差し指は、一瞬で冷凍にされ動かなくなって、行き場をなくしたマウスは危険なことは承知で立ち止まっている。そして、その言葉を聞いてナナモはジェームズとして、もはや、ルーシーを直視できなくなった。ルーシーを美術館の絵画としてこれまでずっと見入ってしまっていたことを何度も何度も呪文のように繰り返しながら後悔した。
それから、ルーシーがその好きになった人について、どのようなことを話し、どのようなサヨナラの言葉でリモートの終了を締めくくったのか、失望の藪の中に追いやられ、ジェームズからナナモに戻らざるを得なくなっていたナナモは覚えていない。
ナナモはパソコンを閉じると、両手をズボンに突っ込んで、中に入っていたものをすべて出し、ポケットの裏地をすべて外に出した。そして、部屋の隅に置いていた、通学用に背負っていたリュックのチャックを開け、ひっくり返して無造作にベッドの上にぶちまけてからひとつひとつ丁寧に確かめた後、改めてリュックの中に手を突っ込んで隅から隅まで指先で調べた。
今朝もらったカードがない!
ナナモは散らかった部屋の中で、トランプのカードをひとつひとつ確かめるように、何度も同じ動作をするしかなかった。
あの男の人からもらってすぐにズボンの中に入れたはずなのに、どこかで失くしてしまったのだろうか?でも、確かにあったし、僕は何度も確かめたんだ。ナオミと連絡先を交換するためにスマホを取り出した時に一緒に出てしまったのだろか?
いくら探しても見つからないカードは、今朝の出来事を消し去って行く。やはり、すべてがコンピューターの世界だけだったのか。だったら、ルーシーから聞いたこともVRの世界なのかもしれない。
ナナモは首を横に振らざるを得なかった。そして、どこかにあのカードはある。ナナモはそのことを信じたいと思うナナモと信じたくないと思うジェームズとの狭間に居た。
「何をやっておられるのですか、夕食ができましたよ」
キリさんはまるでナナモを隠しカメラでずーっと見ていたかのようなタイミングで、声を掛けて来た。珍しく英語だったような気がするが、それすら、上の空で、ナナモは散らかった心の中でボーッとひとり動けずにしばらく立ち尽くしていた。