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ジェームズ・ナナモと黄色の小槌  作者: まれ みまれ
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(4)第二外国語

 ナナモはキタジマソウイチロウと連絡先を交換していた。また、会おうよと、言われて、ナナモはすぐに、ああ、とは返事が出来なくて、少し困惑したような作り笑顔で頷いたら、もう、実験なんてしないから、それより、ナナモの異世界話が聞きたいからと、半ば強引だった。

 それでも、ナナモは嫌な気がしたわけではなかった。イチロウはここの大学生ではない。だから、いつでも会えるわけではない。でも、授業をさぼってまでこんなに長く話したのはこの大学に通い始めてから初めてだったからだ。

 ナナモは妙に心がウキウキしていた。だから、その余韻にしばらく浸っていたかった。

「さぼるんじゃないよ」と、どこからか声がする。

 ナナモはなぜか武者震いが止まらない。そうだ、まだ、何かを決めたわけでないんだ。ナナモは慌てて次の講義に向かった。

「ジェームズ君、ここを訳してください」

 大講義棟ではなく、十数人が入れる程度の小さな教室で外国語の講義が始まっている。ナナモは必須で第一外国語である英語の代わりに選択であるはずなのに、それが必須となる第二外国語の講義を受けなくてはならなかった。ここ数年は中国語を履修しようとする学生も見受けられたが、ナナモはなぜか再チャレンジのつもりでフランス語を選択していた。

 だからその声は椅子に座っていながらナナモを見下ろしてくるフランス語の講師からだ。

 その講師は、外観だけの判断でいうとフランス人でもハーフでもない。純粋な日本人だ。天然パーマなのかわからないが、肩近くまで伸びている細い毛がくるくると撒いていて膨れ上がっている。平坦な顔立ちなのに妙に浅黒くて、銀縁眼鏡が鼻先から少しだけずれている。滑稽なはずなのに、瞳の奥はいつも微動だにしない。

「えっと……」

「予習してきたのですか? それとも、英語が得意だからこれくらい想像したら答えられると思っているのですか?」

 ここは大学で高校や予備校ではない。だからもう少し教官もフランスの、いや、ヨーロッパの雰囲気を醸し出すような講義をしてくれてもいいのに、そんな崇高なことが君たちにわかるのかい?といったような高慢さをぷんぷんさせながら、それでも、ナナモの顔貌をみて、わざとナナモのことを苗字ではなくジェームズ君と呼んでくる。その上、時々嫌そうな、いや、あえて質問してやろうといういやらしさと、もし、自分以上にフランス文化について知っていたらと、その交錯で右往左往している姿が目に見えるようだ。

「すいません。予習してきませんでした」

「電子工学部だからと言って文化的なことは要らないと思っているんだろうけど、そんな考えをしていたらコンピューターオタクになってしまうよ。それに私の講義は自動翻訳機ではないからね」

 実は、ナナモはロンドンに居た時に、時々フランス語とは接していた。イギリスは色々なヨーロッパの国々からその文化の影響を受けていたが、特に語学を含めてフランスの影響が大きいように思えたからだ。それに、何となく、フランス語の話し言葉には絵画や音楽といった芸術が感じられる。だから、ナナモもあこがれはあった。しかし、ある時、英語のYesが、フランス語ではOuiだと知った。耳から聞こえてくる響きには芸術の香りが芳醇に感じられたのに、Ouiとして文字にしたとたん、全く何も感じないどころか、強烈な失望感に襲われたのだ。なぜだいと、Ouiを絶賛する同級生には、やっぱり日本人だからからなのかと、皮肉っぽくあきれられたが、ナナモ自身今でもその理由がわからない。他のフランス語には魅了溢れる綴り言葉が数多あるのに、Oui,すなわちYesが、どうしてもYes以上の輝きを放ってくれなかったのだ。だからそれ以来ナナモはフランス語から遠ざかってしまっていた。

 フランス語の講師は、勝ち誇ったようにそれ以上ナナモに質問することはなかった。だからと言って誰かに質問することはなく、テキストだけ見ながら、だるそうにしている。それでいて自分が発するフランス語の発音に酔いしれるように、誰に対してと言うわけでもなく、ひとり講義を続けていた。自分が勉強してこなかったのはしょうがないことだが、ナナモはそのことに少し憤りを覚えた。

 日本語も英語も書かれていないテキストからは、不思議と文化の香りがいつもする。しかし、今日に限って、イチロウのこともあったので、その誘惑に慌てて首を横に振った。

 そんなナナモを見つめてくすっとする学生が数名いる。それらは皆女性だ。電子工学部には女性は一人もいなかったが、工学部に女性がいないわけではない。特に化学系や生物系の工学部には結構女子学生もいる。第二外国語は本来選択だから、他の工学系学部から、特に女性にはフランス語は好評のようで、このクラスもほぼ女性だけだった。だから、ナナモはあの講師にいつも意地悪くされていたのかもしれないし、ナナモもフランス語への再チャレンジをとうにあきらめていたのに、休まず講義を受けに来ていた。

 実はナナモにはこのクラスに気に入った女の子がいた。いつも一番前の席に座っている。ナナモと同じでおそらく東欧系とのハーフなのだろう。奥まった瞳ではなく、鼻が透き通っている以外は、まだあどけなさが残っている顔立ちだ。ブラウンが混じったストレートの髪がところどころで枝を絡めている。教室なのであり得ないのだが、まるで風に舞っているようなさわやかさが自然だった。

 ナナモは授業終わりに思い切って彼女に声を掛けてみようと思った。いつもなら引っ込み思案なので決してそのようなことをしない。だから、ナナモにとっては単なる癒しなのだ。でも、彼女の後方からいつもそんな風に見ていると思うと、後ろめたい思いがないわけでもない。今朝から色々なことも相重なって、これも仮想現実なのだと思おうとすると気が楽になったので、ナナモは授業の終わりに彼女に近づいて行った。

「あの……」と、ナナモは小声でつぶやくように声を掛けた。

 彼女は気が付いていない。だから、もう一度、今度はもっとはっきりと声を掛けようと思い切って息を吸い込んだ途端に、彼女は立ち上がり、あの講師の後を急いで追いかけるように教室から出て行った。

 まさかあの講師と?

 ナナモの妄想はまるで積乱雲のように瞬時に膨らんだ。それは具体的な景色ではないので仮想現実ではないのだろうが、激しい雨音となって、ナナモの心に響いていた。

「彼女、よく質問するのよね。でもきっと今日の授業で納得できなかったことがあったのかもね」

 ナナモの後ろから静かな抑揚のない声が聞こえる。ナナモが授業を受け始めた時は後ろには誰もいなかった。それなのにと、ナナモは自然と振りかえっていた。

「あの女子に何か用でもあったの?」

 ナナモの後ろに立っていたのは、全く乱れのないストレートな黒髪なのに、どう見てもヘルメットにしか見えない髪型。化粧気のないそれでいて透き通る様な白さを、角ばったブラウンの鼈甲眼鏡で隠している。女性にしては割と背の高い女子学生だった。

「ううん、別に、いいんだ」

 ナナモはその女子学生をこの教室で今まで見たことはなかった。それに、あの女子学生ほどの香りを全く感じなかったので素通りしようとした。

「ねえ、どうしてあの先生はあなたのことをジェームズ君っていつも言うの?」

 その女子学生はナナモの行く手を遮ろうとする。先ほど講師を追いかけて出て行ったあの女子に比べたら少しぽっちゃりしているが、だからといってナナモが立ち止まらなければならないほど明らかに太っているわけではない。

「僕のミドルネームさ」

 ナナモはさっさと教室から出て行きたかったので無視しても良かったのに、あの女子と話せなかったことに気落ちしていたので少しつっけんどんに自分のフルネームを言った。

 女子学生はノートルダム・ナオミと自己紹介しながら、私もハーフなのと、話しかけてきた。

「えっ」

 ナナモは驚いた。そして、特に意図したわけではなかったが、じろじろと顔を覗き込んでしまった。ナオミは後ずさりしながらも、ナナモがヘルメットとしか見えなかった髪の毛を触りながら、染めているの、眼もコンタクト、それでもわかるから眼鏡で隠しているのと、それでも嫌がらなかった。

「僕に何か用かい?」

 せっかく女性が話しかけてきてくれたし、何か容姿のことで気になっていたので、ナナモに相談したかったのかもしれなかったのに、ナナモはあまり関わりたくないなと、そういう表情も付け加えて尋ねた。

「ごめんなさい」

 ナナモの気持ちが通じたのか、最初の印象とは違って少し頬を赤らめて急にしおらしくなって謝って来た。ナナモはかえってあたふたした。

「お茶でもする?でも、キミは僕のことをジェームズって言わないでね」

 ナナモは自然にそう言っていた。

 ナナモはまたカフェに来ていた。これまでここでお茶したことなんて一度もなかったのに、今日は二回も来ている。それも、先ほどは男の人で、今度は女の人だ。イチロウからは、誘われたのだが、ナオミは自分から誘っていた。

「僕は今年入学したところなんだけど、ナオミはどこの学部?」

 ナナモは緊張しなかった。それでも先ほどの印象の変化が気になる。だから差しさわりのない聞き方だ。

「生物工学部の四回生よ」

「四回生? ごめんなさい。なんか幼く見えたんで、同級生だと思ったよ。あ、失礼、先輩だったんですね」

 ナナモは急に丁寧な言葉を使った。

「そんな改まった言い方しないで、私、そういうの好きじゃないの?」

「好きじゃないって?」

「日本人って、すぐに先輩後輩っていう関係を築こうとするじゃない。それって、確かに人間関係には大切なことだけど、なんか窮屈に感じることがあるの」

「そうかもしれないね。ある意味垣根を作ってしまうからね。年齢ではなく、もっと気兼ねなく自由に話せたらなと思うことは確かにあるよね。でも、先輩後輩の関係は日本人にはとっても大切なことだと思うし、僕は嫌じゃないというか、守らないといけないことじゃないかなって思うんだ」

 ナナモはナオミに少しフランクな日本語で返した。

 ナオミは予想外だったのか、瞳が丸くなっているように見える。

「ナナモはロンドンに何年居たの?」

「六年くらいかな」

「それじゃあ、英語は話せるの?」

「ああ、生まれた時から母親とはずっと英語で話していたから」

「でも、なんか日本人っぽいよね」

「そうかな。だったら、叔父と叔母の影響かもしれない。ロンドンでは一緒に暮らしていたんだけど、二人はおかしな言い方だけど、日本人だし、特に叔母は日本文学を教えていたから」

「それじゃあ、叔母さんは、ある意味あのフランス語の先生と同じかもしれないわね」

「確かにロンドンに居る時は僕のことをずっとジェームズと呼んでいたけど、僕の大好きな叔母と一緒にしないでほしいな」

 二人は初めて同時に微笑んだ。

「私は、父がフランス人で母が日本人なんだけど、私と一緒で父は日本で生まれ育ったの。父は少しはフランス語が話せるんだけど、私とは日本語で話していたから、私は全く話せなくて。でも、見た目は話せそうじゃない。だから、語学が嫌いになって、理数系の勉強ばかりしていたわ」

 ナオミは自分は生粋の江戸っ子だと思っているようだ。でも、こころの奥底でフランスの自由さが消えない。その葛藤が大人になって行くにつれて彼女の悩みになってきたようだ。

「私、本当は負けず嫌いなの。だから、フランス語を勉強していた時もあったの。でもね、発音が……、それで、逃げたの」

「だから、その格好で身を隠しているんだ」

 ナナモはからかうつもりではない。それは何となくナオミには伝わっている。

 大きな窓ガラスにシンプルな木目調の椅子やテーブルが並べられているだけのカフェには、午後だということもあって、イチロウと居た時より多くの学生がいて、隣を邪魔しない程度の会話がいたるところで踊っていた。その中で、ナオミは完全に埋没していて、ナナモの方が却って目立っているように思えた。

「ナナモはちゃんと英語が話せるし、だから、あまり、容姿にコンプレックスがないというか、自信があるんじゃない?」

 そんなことはないよ。僕はこの容姿のことで死のうと思ったんだ。いじめられて、いじめられて、毎日が地獄のようだったんだ。でも、言い返したり、喧嘩したり、相手と面と向かって対決することから避けてしまってというか、出来なくて、結局、いじめられているということも認識できなくなって、生きているという感覚も麻痺してしまって、ついに、爆発してしまった。でも、その爆発はとても静かで、誰にも気付いてもらえなかったんだ。

 ナナモはナオミのかけている眼鏡に映る自分の過去に話しかけていた。もちろんナオミには聞こえない。そして、もしかしたら、ナオミにも、ナナモと同じような、いや、それ以上のいじめがあったのではないかと、ナオミの過去に思いをはせるしかなかった。

「そんなことはないよ。僕はロンドンでは日本人として見られていたから」

「どうして?」

「生まれ育ったのは日本だから。母はネイティブの発音が出来たけど、僕は全てがそうじゃなかったし、僕には子供の時日本人として育てられて出来上がった性格があるからね。ナオミがさっき、フランス人気質みたいなことがあったって言っていたけど、それはフランス人だからじゃなくて、ナオミが育った環境で培われた部分が多いと思うよ」

「そうかしら」

「ああ、そのことはロンドンで住んでいたから分かったんだけど」

 ナナモは叔父と叔母そして、ナナモがロンドンで通っていたサマーアイズスクールの友達のことを思い出した。

「日本は和の国だけど和の国じゃない。フランスは個の国だけど個の国じゃないって、何となく僕は思うんだけどどうかな?」

 カフェという閉鎖された空間の中で、ナナモをじろじろと嘗め回すように見て来る人は誰もいない。でも、誰かはチラチラとナナモ達を見ているかもしれい。それでもいきなり殴られることなどない。もしあればきっとそれはまぎれもなく異世界に違いない。

「ところでどうして四回生なのにフランス語を履修しているの?」

 ナナモは話題を変えたかった。

「試験に通らなかったから。いや本当は、わざと落ちていたの。単位が取れなかったら、卒業できないでしょう。そうしたら否が応でもフランス語の勉強を続けなくちゃならないでしょう」

 ナオミはある意味屈折している。しかし、ナナモはそんなナオミの一面が嫌いではない。何故なら過去のナナモはもっと屈折していたからだ。

「じゃあ、授業を休まないのに全く勉強していない僕を見て、同じだと思ったのかい?」

「そこまでは言わないけど、親近感はあったの」

 ナオミの笑顔はしおらしい、そうナナモには伝わって来た。

「四回生だったら、研究室に配属されているんだろう。いったいなんの研究をしているんだい?」

「肌の研究よ、いや、皮膚と言った方がわかりやすいかしら」

 ナオミは、見た目ではない、もっと根本的な、いわば大きく言えば人間の根源として、肌というものを捉え探求しようとしているようだ。

「皮膚の機能って難しいのよ。しょうちゅう傷は出来るのに、菌から守ってくれたり、皺がなかったのに、いつしか皺だらけになったりするでしょう。なんか面白そうで」

「それ、工学なの?」

 ナナモは自然と言葉が漏れていた

「人も機能しているから生きている。だから、ある意味工学的な見方が必要なのよ。それにお互い肌には苦労したでしょう」

 ナナモは思わず周りを見渡していた。もちろん、カフェテラスで楽しそうにしゃべっている多くの学生には皺がない。でも、みんな何れは年をとる。ナナモはそう思いながら自分の研究を楽しそうに話すナオミの肌を思わず見つめていた。ひよっとしたらナオミは将来皺のないお年寄りになるのだろうか? ナナモはそう想像する自分を慌てて否定するように思わず目をパチパチさせた。

「やっぱり、ナナモと話せて良かったわ。これまで何度も話したいと思っていたの。でもなかなか出来なくて。それに、私、ナナモと違って、教室には遅く来て、一番後ろの席に座って、早く出ていたし」

 ナオミは少女のようにちらっと舌をだした。

「でもどうして今日は僕に声を掛けてきたの?」

 ナナモは不思議だった。

「ナナモはあの女子になんか用事でもあったの?」

 不意を突かれたのでナナモはどきまぎした。ナオミはきっと感づいている。ナナモにはそのことがひしひしと伝わってきたがどうすることもできなかった。

「ナナモは正直ね。でも、それは今日の私と同じ気持ちからなんでしょう」

 ナオミはストレートに、それでいて思いやりも忘れていなかった。

「そうなんだ。これは見た目だけなんだけど彼女はきっとハーフなんじゃないかなって思って」

 ナオミはくすりともしない。確かにナナモの本心は丸裸だ。きっと、僕はあの女子がハーフであろうがなかろうが気になっていて、今まで話したくて話したくしょうがなかったのに、話せなかっただけなのだ。それが今日、あの講師にバカにされたこともあって、僕はフランス語は確かに話せないけど英語は得意なんだとあの女子に言いたくなったのだ。

「それに……、あの女子にフランス語を教えてほしいと思って……」

 けれど、ナナモはそう言葉を継いでいた。

「そう言うくだらない男の見栄ってかわいいわ」

 ナナモは、そうね、ナナモはやっぱり日本人なのねと、お世辞でなくてもいいから、ナオミがそう優しく溜息をもらしてくれたらなあと思ったが、それは叶わぬものだった。

 でも仕方がない。ここは日本だ。ナナモは押し通すしかなかったし、まんざら嘘でもなかった。

「僕は休まず授業には出ていたんだけど、ただ、あの先生が訳す日本語をノートに書き写すしかなかったんだ。けれど、最近、ちょっと授業に集中出来なくなってきて、ボーッとすることが多くなって聞き取れない所が出ていたんだ。彼女は一番前の席で一生懸命授業を聞いているから。確かに、彼女はチャーミングだけど、ハーフ同士だという親近感もあったから・・・」

 ナナモはナオミの顔色をうかがいながら、それでも変な汗が首筋から湧き出ているような感触がして寒気がした。それでもその久しぶりの錯覚が嫌ではなかった。

「そうね、あの先生ちょっと意地悪なところがあるし、やたら、文学的なことを話したがるわね。私にはその方が却っていいんだけど、ナナモは理系だから単純にフランス語の基礎だけ教えてくれたらいいのにと思っているんでしょう」

 ナオミはウインクするような物言いで今度はナナモの言い分けに寄り添ってきてくれた。だから、ナナモは、そうなんだと、ナオミに乗ることにした。

「でも、私はだからあの先生の講義を受けていたのよ」

 ナオミも少し屈折している。

「でもさ、あの先生のフランス観が正しいとは限らないよ。僕はロンドンに住んでみて初めてわかったこともあるから」

「そうかもしれないわね。でも私はそのことを確かめることは出来ないわ」

「どうしてだい?」

「フランスに行ったことがないから」

「なぜ行かないの?」

「なぜって?」

 ナナモは先ほどナオミが負けず嫌いであると言っていたことを思い出していた。そうであるなら、こんな教室でくすぶっている必要などなくて、フランスへ行けばいいんだ。ナオミにはそれが似合っている。

「私には家族がいるから・・・」

 ナナモは、もしかしたらナオミには世話をしないといけない家族が居るのではないかと思った。ナナモは一度そのことで悲しい想いをさせた経験がある。

 だからナナモはしばらくナオミの様子をうかがうだけで口を開くことが出来なかった。

「私には唯一負けたくない人がいるの。それは家族の中にいるの」

 ナオミはそんな二人の沈黙にくさびを打ち込むように静かにつぶやいた。

「家族に負けたくない?」

 やはり、ナオミは家族を誰かから守らなければならないんだ。だから、負けることは出来ないんだ。ナナモはもう一度過去を思い出していた。

「気を悪くしないでほしいんだけど、その家族は何か病気なのかい?」

 ナオミはナナモをじっと見つめている。ナナモにはその瞳は物悲しく、寂しそうに見えた。

「病気?」

「ああ、家族の誰かが病気で、ナオミはそのひとを守らなければならないから、フランスには行けないんじゃないのかい?」

 ナオミはそれまで神妙な面持ちだったのに、ぷっと噴き出したように微笑んだ。

「ナナモはフェミニストなのね。そういう所は日本人とは違うのかしら」

 ナナモはナオミの豹変に驚きながら、自分が頓珍漢な自分よがりの世界に入り込んでいるのに初めて気が付いた。

「私の家族はみんな元気よ。特に妹はね。私より負けず嫌いなのに、私より、美人で頭がいいの」

「もしかしてその家族って妹さんのこと?」

「そうよ、まだわからないの。ナナモがさっき声を掛けようとしていたのは私の双子の妹、マリンっていうのよ」

 ナオミはナナモに連絡先を交換しましょうと微笑みかけてくれたのに、ナナモはナオミをしばらく見つめていて視線が動かせなかった。そして、クンクンと周りの匂いを嗅きはじめた。

「失礼ね。私、臭くないわよ」

 ナナモはそう言われていることなど忘れてまだ同じことを繰り返している。それでも、やっと目の前にナナモを睨んでいるナオミが居ることに気が付いた。

「いや、何も匂わないや」

 ナナモは安堵の気持ちでフーっと一息ついた時に、頬をパーンと叩かれていた。そんな錯覚が、また、あのカードを確認しないとと、ズボンに手を入れさせていた。


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