(3)キタジマソウイチロウ
ナナモはなぜかごめんなさいと謝っていた。あの学生はああ言ったきり、芝生に散らばった壊れた機材の部品を集め出していた。ナナモも手伝おうと身をかがめようとすると、まるで、「わからんようになるから」とでも言っているかのように、わずわらしそうな表情を添えて手で制された。
ナナモはどれくらいその場所に立ちすくんでいたのかわからなかったが、このままじゃあと、何事もなかったかのように去って行くわけにもいかないと思って、あの学生が探し終わるまで待つしかなかった。
あの学生はゴミ袋に部品を投げ込むのではなく、食器を運ぶ際に用いる丁度両手で運べるほどの大きさのトレイに部品を集めていた。ナナモにとってはゴミ屑に過ぎないが、芝生を丁寧にかき分けながら懸命に探している姿を見ていると、あの学生にとっては大切な部品に違いないと思えてくる。
作業が終わったのか、それでも、首を傾げ、何度かそれでも三回ほど行ったり来たりしながら、仕方ないなという顔をしながら、ナナモの所に戻って来た。
ナナモがずっと待っていたということに多少は何かを感じ取ってくれているようにも思えたが、それでも何かいきさつを話してほしいと思っているナナモにすぐに寄り添おうとはしてくれなかった。
「キミはVRって知らないのかい?」
あの男は突然ナナモを見上げながらそれでも微笑えみかけるような感じではなくそう言った。
「VR?」
ナナモはあわててそうつぶやくだけで精一杯だったが、あの男は関西弁ではなくなっている。そのことが却って違和感を覚える。それに何かを仕掛けたのに謝ってこない。ナナモは腹立たしかったが、不思議なことに、怒ったり、詰め寄ったりしようとは全く思わなかった。
「キミは電子工学の学生なんだろう。だったら、バーチャルリアリティー(VR)、すなわち、仮想現実の世界に少しは興味があるだろう?」
「仮想現実?」
「そうさ」
ナナモは仮想現実と言われてどきりとした。なぜなら何かがナナモの記憶から生まれ出てくるような気がしたからだ。でもだからと言って具体的に話せるほど確かなものではない。それに、それはコンピューターゲームでもVRでもない。現実の世界のように思えて仕方がなかった。
「あの……」
何かを言わなければならない。いや、聞いてほしいと、ナナモは無性に思ったが相変わらず全く何も出てこない。
「まあいいや」
あんなにナナモを待たせておいて、あの学生は相変わらずの口調でナナモにそう告げるとさっさとその場から去ろうとした。だから、ナナモは慌ててその男性の肩に手を当てた。
「危ないじゃないか?」
両手で持っていたあの学生のトレイが危うく落ちそうになる。
「ごめん」
ナナモはまた謝っていた。
「これ片付けて来るから、ここで、待っていてくれる?」
ナナモはまたかと思ったが、どうしても言いたいことがあったので、ああ、と返事をして、踵を返すあの学生を見送るしかなかった。
ナナモはその後ろ姿をしばらく追っていたが、そのうち視界から消えて見えなくなったところで、あっと、叫んでいた。もしかしたら、逃げたんじゃないだろうかと思ったからだ。ナナモの身体はとっさにピクリと反応した。しかし、まさか、まだ、VRが続いているわけがないだろうし、もし続いていたとしても、もう追うのは止めようと、ナナモは別に金縛りに合ったわけではなかったがその反応を押しとどめてその場から動こうとしなかった。
(きっとあの学生は戻って来る。探しに行かなくても、きっと戻って来る)
ナナモはなぜかそう思った。
まるで霧の向こうから現れたように、輪郭を少しずつはっきりさせながらあの学生は戻って来た。悪かったなと、初めて少しだけ頬を緩ませてくれたからかもしれないが、その待ち時間は芝生で部品を探していた時よりもずいぶん早いように思えた。
ナナモは大学内に最近建てられた二階建ての巨大なログハウスの中にあるカフェに誘われた。木々の優しい香りと暖かみで、学生だけではなく教官にとっても憩いの場だ。
あの学生は、道すがら、電子工学基礎理論は休講だけど、他の授業を受けなくていいのかい? と尋ねてくれた。ナナモは、多少後ろめたい気持ちがなかったわけではないが、今日はいいんだと答えていた。
「俺はキタジマソウイチロウって言うんだけど、ソウイチロウって長いだろう、だからキタジマって呼んでくれって言うんだけど、親しくなるとなぜか女子はソウちゃんって子供っぽく呼んでくるし、男子はイチロウって呼ぶんだ」
あの学生、つまり、イチロウは少しはにかみながらそれでも自己紹介をしてくれた。
「僕は・・・」と、ナナモが言いかけると、
「クニツ・ジェームズ・ナナモっていうんだってね。父親が日本人で母親がイギリス人のハーフ。ロンドンに居たけど、今年からこの大学の電子工学部に入学して、もうじき二十歳になる。だから、クニツ君って、初対面だし、そう呼んでもいいんだけど、なんか堅苦しいし、俺も名前で呼ばれているし、俺の頭の中ではジェームズよりナナモの方がしっくりくるんで、ナナモって呼ばせてもらうよ」
先ほどは肩口までの長髪が印象的だったが、今は後ろで縛っているのでその輪郭がはっきりとする。だからか、小顔でしっかりした眉が精悍なイメージを受ける。一重の瞳が無表情に見えたが、話し始めた時は、思ったより優しそうに目じりを下方に動かしていた。
「どうして、僕のことを知っているんだい?」
ナナモはびっくりした。イチロウが誰かに似ているとは思ってはいたが、今日初めて会ったような気がするし、講義室で出会ったことがやはりなかった。
「悪いけどナナモのことを調べさせてもらったんだ」
イチロウはそう言うとカバンから少しだけパソコンを取り出しナナモに見せた。
「それですべてがわかるのかい?」
ナナモは興味を持った。もしかしたらナナモが知らないナナモの過去をイチロウは知っているかもしれないと思ったからだ。
しかし、その高揚感は一瞬にして消え去った。
「それがね、ナナモについてはなぜかわからないことが多かったんだ」
「わからない?」
「そうなんだ。色々な情報が色々なところで登録されている。だから、それぞれの機関にアクセスしながら情報を構築していくと、ほぼその人物像が浮かび上がってくる」
「本当?」
「ああ、まだそのことにみんな気が付いていないだけさ。でも誤解しないでくれよ。おれはハッカーじゃないから。ただ、ちょっとだけコンピューターに詳しいだけさ。だから、すれすれで情報を集めることが出来るんだ」
「すれすれ?それ、違法なんじゃないの?」
「まあ、迷惑を掛けたわけじゃないから……」
イチロウは少し目線を外す仕草をしたが、すぐに何事もなかったように話しを続けた。
「でも、不思議なことに、どの機関にナナモの情報を入手しようとアクセスしても、あるところまで行くと拒絶されるんだ。最初はナナモがロンドンに居たからなんらかの操作が加えられたと思っていたんだけど、そうじゃなかったんだ。なぜだが、ナナモの情報は守られているんだ」
「情報が守られているって?僕は確かにハーフで、中学生で編入してから高校を卒業するまでほぼロンドンに居たけど、特別なことはしていないし、皆と同じように育っていたと思うんだけど。それに戸籍がちゃんとあったよ。大学に入学するときに必要だったから自分で日本の役所に取りに行ったんだ」
「戸籍ねえ?」
イチロウは含みを残してそれ以上のことは何も言ってくれなかった。ナナモはもう少しそのことを聞きたかったが、イチロウはそのことを遮るようにカバンからスキー競技で見るよりはずいぶん小さなゴーグルを取り出しテーブルの上に置き、これがVR装置なんだと自慢げにナナモに見せつけた。
「テレビで見るよりずいぶん小さいけど、これを付けていたとしたらなんとなくわかるはずだよね」
「じゃあ、付けてみるかい」
ナナモは真黒なそのゴーグルを手に取った。えっ、とその瞬間声が反応していた。思わず、軽いと、声を漏らしていた。
「カーボンよりも軽い新素材なんだ。内面はテレビのデスプレイのようなものなんだけど、その素材は自由に曲げられるんで、眼の周りを覆うと、立体的に映し出されることが可能になるから、網膜がその視覚をごく自然に捉えてくれるんだ」
「でもそれでも装着感は残っているな」
ナナモはゆっくり付けてみた。今は何も映っていないが、確かに映画の3D眼鏡よりもとても軽かったが、ナナモの顔の肌は全くその人工物を感じないほど鈍感ではない。
「キミが壊してくれた、いや、別に怒っているわけじゃないんだけど、この薄くて軽いスキーのゴーグルというより、花粉対策の眼鏡のようなVR装置に連動させたイヤホンからある周波数の軽い電磁波が伝わるようにしておくと、VR装置を付けているような肌感がなくなるんだ。そうすると、そのデスプレイに映されている景色が現実の視覚として脳が認識していくような感覚に堕ちていくんだよ」
「電磁波って?大丈夫なの?」
ナナモの質問にイチロウは薄ら笑いを浮かべていたが、「まだよくわからないけどたぶん大丈夫」と、その薄ら笑いを必死に押し殺しているその表情が怖かった。でも、今特に変わったことはなかったが、後で血管が避けたり脳みそが爆発したりすることはないからと言われても、なんでそんな余計なことを言うんだと、それ以上の良からぬ想像をしそうになってあわてて首を横に振った。
「でもどうやって装着したんだい?その時はわかるだろう」
「何か匂いがしなかったかい?」
ナナモはあの時窓際の席に居て自然とうとうとしていたと思っていたが、そう言えば何かほんのりと甘味のある香りを嗅いだような気がした。
「薬を使った?」
「別に直接体の中に入れたわけじゃないし、たぶん大丈夫」
イチロウはまた同じことを言ったが、もう薄ら笑いを浮かべなかった。そして以前からナナモがよく座る階段講義室の場所をリサーチしていて、その確率で前もって薬剤を机に塗っていたんだと説明してくれた。
「でも階段や坂を登ったり降りたりしたよ。あの体感は現実だとしか思えなかった」
ナナモは決して講義室にとどまっていたとは思えなかったし、ちゃんと身体を動かしていた。
「VRの世界に誘導されて動いていたのは事実さ。校舎内を動いていただけなんだけど、視覚を操っていたんだよ。例えば同じ背丈なのに近くに立った人と遠くに立っている人とでは遠くに立っている人の方が背を低く感じるだろう。そういうものの応用さ」
「でも、音がしたり爆音がしたり、誰か横に居るような感覚になったり、視覚だけじゃなかったけどなあ」
ナナモがそう言うと、イチロウは、「それは薬と電磁波の総合効果だったんだ。それにナナモは気が付かなかったと思うんだけど、僕はずっとナナモのそばにいたんだよ」と、まるで、当たり前だよと言わんばかりの口調で話してくれた。
「えっ」
ナナモは思いもよらない説明に驚いて、思わず声を漏らしていた。
「外に出た時は走ってもらうほうが臨場感があったんで、僕の代わりにドローンが常に追随していたんだ。音はイヤホンで消せたけど、ドローンの風は消せないからね。でも外だったら多少の風は感じるし、案外うまく行ったよ」
「すべてパソコンのプログラミング通りだったってこと?」
「そう。ナナモには本当に申し訳なかったんだけど、実験はうまく行った。やはりナナモにやってもらって良かったと思ったよ」
イチロウは初めてこくりと頭を下げてくれた。それでもうれしかったのか、それとも、満足したのかわからなかったが、イタズラして先生に見つかった生徒のように、怒られているのにそのイタズラを思い出しているのか、自然と頬が緩んでいくのを止められないでいる。
ナナモはイチロウの話を聞いて、ああ、そういうことだったのかと単純に納得したわけではなかったが、さりとて、実験台にされたことを心底怒っているわけでもなかった。ただ、ナナモが異世界の体験だと信じていたことがうち砕かれたことの方がショックとして大きかった。
「でもどうしてそんな大切な実験に僕を選んだんだい?」
ナナモは素直にそう尋ねていた。
「キミが、いつも一番早く教室に来ていたから、きっと真面目な学生なんだと思ったんだ」
「真面目?」
「真面目じゃないと、なかなかこの装置はうまく働かないんだよ。だって、つまり、真面目な人は素直だから。電磁波だとか、匂いだとか言ったけど、その根本は人だから」
「僕は真面目なんかじゃないよ」
「でもいつも早くから教室に来ているし、あの電子工学基礎理論も真面目にノートを取っている」
ナナモは、「それは・・・」と、言いかけたが、止めることにした。
「それに真面目な人の方が現実離れした状態に早く気が付いてくれるんだ。だって、万が一にもビルが爆発することはあっても、青信号なのに誰もいないスクランブル交差点なんて誰も想像できないだろう。だから、たとえ真面目な生徒でもそのうちこれは現実じゃないって途中で気が付いてくれるんじゃないかって思っていたんだ。これはあくまでもゲームだから。そうじゃなくちゃ、ある意味あぶないからな」
「でも、僕は気が付かなかった。だからあんなことを言ったのかい?」
イチロウはイエスかノーかはわからない曖昧な返事をしたように思えた。しかし、ナナモにとってそれはもはやどうでも良かった。あの異次元の世界に居た自分は実は現実の中にいたということがとてもショックだったのだ。そしてイチロウの言う通り非現実なことが目の前で起こってきてもそう思わなかったのは、ナナモが素直でも真面目でもなく、ナナモにとって非現実でも不思議な世界だとも思わないナナモの過去の経験があったからだ。だから、あの時自然とそうつぶやいたのだ。
ナナモは大学に入学してから、時々、走馬灯のように昔の出来事が思い出された。もちろん、いじめられていた中学校の時の事ではない。ロンドンに居た時のことだ。それも、十八歳になり、イギリスでは完全に成人男性として扱われるようになってからのことだ。けれども、それはいつもではないし、昼であれ夜であれ、必ずうとうとと微睡んでいる時だったので、きっと夢なのだろうと思っていた。それもはっきりした記憶で裏打ちされたものではない。つまり、映画のようにストーリーが完結していなくて、ところどころをカットされているようで、つながりのあまりない場面場面しかなかった。
本来記憶とはそういうものだとナナモは思っている。楽しかった思い出すらも自分で事実として異なる記憶としてとどめていることも多いからだ。
しかし、今朝、プラットホームでの不思議な体験が、ナナモにある体験を思いださせた。それは切れ切れの場面がジグゾーパズルのように集めるとある風景をはっきりと創ったのだ。だから、ナナモにとっては、それはイチロウの非現実ではなくナナモの現実だと捉えたのだ。
「俺の創ったVRはどうだった?」
イチロウは感想を求めている。きっと楽しめたよとか、迫力があったなあとか、もう少しあの世界にとどまりたかったなあという答えを求めているのだろう。イチロウがナナモを見ている瞳がキラキラしていることでわかる。
「追跡劇は初めてじゃないから」
ナナモは十八歳の時にロンドンのユーストン駅で起こったことをイチロウに話してみたくなった。
「どういうこと?」
ナナモは一呼吸おいてから見えないページをめくり始めた。
「ロンドンに居たことはもう調べているから知っているよね。十八歳になってしばらくしたある朝の事なんだけど、リバプールで相撲大会があって友達が出場するんで、応援に行こうと思って、リバプールまでは二時間ほどなんだけど、列車に乗ろうと、始発がロンドンのユーストン駅から出てるんで、改札に向かったんだ。そしたら、男の人が倒れていて、助けて―って、日本語で叫んできたんだ。見た目も日本人ぽかったし、誰も見向きもしなかったから、早く行きたかったんだけど、助けてあげたんだよ。
タクシーに乗って、その男の人が知っているクリニックがあるからって、ロンドンの中心部からすこし外れたところにハムステッドという街があるんだけど、そうそう、世界一有名な横断歩道を途中で通るんだけど。ある白亜の建物まで連れて行ってあげたんだ。それまで、痛いとか苦しいとか、ずっと言っていたのに、その建物の中にありがとうとも言われずに平然と一人で入って行って、姿を消してしまったんだ。何だったんだろうって、また、ユーストン駅に戻ったら、今度はさっきの男の人が、なんか事件を起こしたみたいで、誰かにその男の人を捕まえてくれって、言われて、大英博物館とか、ソーホーとか、東京で言えば、上野あたりを想像してくれたらいいのかもしれないけど、走り回って追いかけたんだ。そしたらね、やっと追いつくことが出来そうな距離まで来たんだけど、その場所はユーストン駅の改札口だったんだ。追い詰めたぞって、その改札口を二人して通ったら、その日本人の男の人はいなかったんだ。そして、気がつけば、僕は列車の中にいたんだよ」
ナナモはまくし立てるようにイチロウに話していた。
「それでさっきのことも不思議だと思わなかったのかい?」
ナナモはイチロウの瞳から視線をそらさずに頷いた。
「その相手は今日みたいに爆弾を使ったり、拳銃で撃ってきたりしなかったのかい?」
イチロウの質問にナナモは少しむっとした。
「そんなことはないよ」
「でも、今日より臨場感というか、現実感が強かったし、確かに街中の人達とぶつかった時には感触はなかったんだけど、人の動きは鮮明だったし、なんたって、タクシーに乗ったんだ。二人でだよ。横に座っていたし、記念写真を撮っている観光客のために運転手は横断歩道でちゃんと止まっていたよ」
「それは早朝だったのかい?」
「ああ、でも、眠くなんてなかったし、今日みたいに列車を待っている間にうとうとなんかしてなかったよ」
イチロウは、皆がするように何か考え込んでいるのか、顎を手で掴む仕草をしていた。
「ユーストン? 駅だったかな、そこは始発だって言っていたけど、駅に着くなりすぐに改札口に向かったのかい?」
「ユーストン駅は割合大きな駅で遠距離列車の始発駅なんだけど、日本と違ってイギリスでは、列車がどのホームから出発するか直前までわからないことが結構あるんだ。だから、十くらいプラット―ホームがあるんだけど、改札口の前にある広場の頭上に大きな電光掲示板があって、発車時刻が近づいてきたら、そこに行先とか、どのプラット―ホームとか、何時に出発するとかが、空港にある、あれは縦だけど、広角に横に並んで表示されるんだよ」
イチロウはおもむろにカバンからパソコンを取り出していた。そして、ナナモの説明をより鮮明にしようと、何やら検索していたが、すぐにたどり着いたのか、その画面をナナモに見せながらうんうんと頷いた。
「これを見ていたんだな」
黄色に輝く多くの小さな電球で出来たややレトロな電光掲示板を二人は見た。
「これかもしれないな」
「これって、電光掲示板?」
「そう、この画面、静止画像なのにそれでも微妙に電球が揺れているだろう」
「映し方の問題じゃないのかい」
「そうかもしれないけど、そうじゃなければ、この電光掲示板に使われている電球は古いタイプかもしれない。もしそうなら、微妙に電圧の変化で光の強弱が出てきてもおかしくないだろうな」
「どういうこと?」
「つまり、もしこれを制御して視覚に訴えるようにしていたら。まるで催眠術にかかったような錯覚に陥ることができるかもしれない」
「じゃあ、僕は今日みたいに催眠術にかかっていたというのかい?でも、VR装置なんて付けていなかったと思うんだけど」
「コンタクトレンズかもしれない」
「映画じゃないんだから」
ナナモはそう言ったが、イチロウはくすりともしなかった。
「ある例で言ったまでさ。もしかしたら、もっと単純で寝ている間に、脳に入り込んだかもしれない」
「映画そのものだ」
「だって、ロンドンの街中だったんだろう。東京の街中だと考えても、誰にもぶつからなかったっておかしくはないか?」
ナナモはすぐには反論できなかった。でも何かが違うようだし、違うことをどこかで望んでいた。
「イギリスは日本より基礎科学に熱心だから、映像操作や洗脳操作が進んでいるのかもしれないな。キミの話を聞いているともっと研究しなくちゃと、思ったよ」
イチロウはおもむろにパソコンに向かって何かを打ち込み始めていた。ナナモはピアノ奏者のようなイチロウの指さばきをしばらくボーッと眺めているだけだった。
「あっ」
ナナモはつい大声を出してしまった。イチロウは無視せず手を止めてくれた。
「その謎の日本人の男の人、リバプールで会場探しをしている時も、やっとわかって会場に入った時も、僕の視界に入る距離で居たんだよ。おまけに、試合が終わって、一人でまたロンドンに戻る列車の中で、今度は僕に何か話しかけてきたんだ」
「何を?」
ナナモはとても大事なことをその時言われたような気がした。もし、その言葉がなければ日本に戻ってこなかっただろうと思った。
「使命かなんかだと思うんだけど・・・」
「シメイ?」
「そう、僕が日本に来てやらなければならない何かだと思うんだけど、どうしても思い出せない・・・」
ナナモは、拳で頭を叩きながらどうしてもたどり着けない記憶の門の前でウロウロするしかなかった。でも、相撲大会は確かにあったし、それは現実だった。でも、それもやはり操作だったのか? と、それじゃあ、一日かがりになるし、だから、「そういうことも今日と同じで出来るのかい?」と、聞いていた。
「しばらくしてからまた同じ人物に登場してもらうなんて考えつかなかったよ。そうだよな。一度覚醒させて現実の日常を送らせた方がもっと別世界が現実味を帯びることになるよな」
イチロウは、ぴしゃりと、まるで硝子戸がしまった時の音が出ているような勢いで、パソコンを閉じると、カバンの中に押し込んでいた。
ナナモもイチロウもしばらく無言でいた。二人はいま同じ現実世界を共有していたが、全く異なる世界に支配されていた。
「夢や幻は本当にないのかな」
どれくらいの時間が経ったのかわからなかったし、それすらどうでも良かったが、我慢しきれなかったのか、まだあきらめきれないでいたナナモががっかりした音色で呟いていた。
「残念だけど。すべては電子工学が生み出した仮想現実だけだよ」
イチロウはちゃんとナナモの言うことを聞いてくれていた。
「それじゃ僕は仮想現実に洗脳されて日本に来たの?」
「そこまでは言わないけど、仮想現実も現実の一部だから」
イチロウは初めてわかったような、わからないような言葉を投げかけて来た。
ナナモはまだもやもやした気持ちが晴れなかったが、いつまで考え込んでいてもしょうがないと、ナナモが大学生としてやるべき現実に戻ろうと、「僕はキミの実験に付き合ったんたんだよね」と、言った。
「イチロウって呼び捨てにしてくれたっていいんだよ」
「実はお願いしたいことがあるんだけどいいかな?」
「何だい?」
「電子工学基礎理論を教えてほしいんだけど」
イチロウは、口を半開きにはしなかったがまさにあっけにとらえたような表情でナナモを見つめ返してきた。
「イチロウは優秀だよね。だって、こんなすごい装置を発明したんだろう。だから、電子工学基礎理論なんて簡単なんだろう?」
イチロウは、ナナモから視線を外すことはなかったが、それでも申し訳なさそうに、「僕はここの学部生じゃないんだ」と、はっきりと言った。
「えっ」
「じゃあ、何学部何だい?」
「大学生じゃなんだ」
「大学生じゃない? あっ、他の大学だってこと?」
「ううん、浪人しているんだ」
「どういうこと?」
「だから、僕はまだ大学に合格したことがないんだよ」
ナナモは急にそう言われても理解できなかった。だから、「まだ、イチロウの実験は続いているのかい?」と、口からこぼれていた。
イチロウは慌ててそのことを否定した。悪いと言いながら、おもむろにナナモの頬をつねってきた。ナナモは痛みを覚えたが、それすらもはや信じられなかった。
「仮想現実を知ってしまったら、現実かどうかわからなくなるね」
カフェにはいつの間にか学生が集まっていて、思い思いの会話を楽しんでいる。そして、イチロウはナナモが思ってもいなかったような笑顔で頭をかいていた。それは却って非現実な光景にも思えたが、仮想現実を一番信じたくないと思っていたナナモがそう思ってしまったことに、イチロウ以上のおかしさをナナモは覚えた
「昔からこういうことに興味があったんだ。でも、そういうことばっかりしていたから勉強しなかったんで、受験勉強がおろそかになって、なかなか大学に合格しなかったんだ。わかるだろ。受験の勉強って特殊だし面白くないしね。でも、この大学に高校の時の友達がいて、彼は映画研究会なんだけど、おれがコンピューターに詳しいから、そのサークルの一員に入れてくれたんだよ。でも、映画とおれの創る世界は違うから、それにここに居れば、工学部の講義にもこっそり参加できるんで、時々こうやって来ているんだ」
イチロウには大学生と言うよりも若手研究者と言うような落ち着きがある。
「さっきナナモが真面目そうだからおれは選んだって言ったけど、本当はナナモがとても真面目に電子工学基礎理論の講義を聞いていたんで、おれの方こそナナモが優秀なんじゃないかって思ったんだ。さっきも言ったけど、おれには理論武装がないからね。だから、おれを支えてくれる人材を集めようとして、それで、悪かったけど実験に参加してもらったんだ。もし、ナナモがつまらないとか、途中で見破ったり、反対に興味を持ち続けて、もっと続きがみたいなんて言って来たらあきらめなくちゃいけなかったんだけど、そうじゃなかったから」
「それはさっきも言ったけど・・・」
「だから余計に協力してほしかったし、電子工学基礎理論を教えてもらいたかったんだ」
「じゃあ、僕は不合格だね」
「いや、そんなことないよ。おれにないものをナナモは持っているような気がする。それに電子工学基礎理論がなくても仮想現実は創れるからね」
イチロウの笑顔につい吸い込まれそうになる。それでも、
「本当に僕が異世界へ行くなんてことはないのかな。間違いってあるだろう」と、ナナモは、もう一度だけ、くどいと思われるかもしれないがあきらめきれなかった。
「あるわけないよ。異世界はすべてこの中にあるんだから」
イチロウはデジャブのようにカバンからパソコンをのぞかせた。
イチロウは自分の創りたい仮想世界の理想についておそらくコンピューターや映像の専門用語を使いながらナナモに語りかけてくれていた。しかし、その熱意は、電子工学基礎理論のあの教師よりも数倍感じられたが、ナナモにとってその講義と同じように難解で、ある意味現実離れしていた。ただ、その熱量がナナモの前に立ちはだかっていた記憶の霧を少しははねのけてくれたのか、ユーストン駅で会ったあの日本人が、今朝駅のホームで出会った男性と同一人物であると導いてくれた。
ナナモはポケットに手を入れた。スマホにへばりついていたのか最初はわからなかったが、プラスチックのカードのような触感が伝わってくる。ナナモはイチロウに気付かれないようにゆっくりと取り出した。ちらっと見ただけだったが、それはまさしくあの日本人がくれたカードだった。
「でも、これも仕組まれたものなのかもしれないな?」
本物かどうか確かめることは出来ない。でも、確かめないといけない。ナナモはイチロウと出会った幸運を確かめるようにそのカードを握りしめていた。