(2)電子工学基礎理論
蛇鱗と呼ばれている石畳の坂道を、息が乱れることのない距離でゆっくりと登ると、大学のキャンパスが拡がる。我関せずとどーんと居座る大きな楠木。ごろんと朝からでも寝ころびたくなる芝生の絨毯。特に太陽と戯れているこの季節の緑の部分は確かに美しい。しかし、テーマパークのような大きなモニュメント像があるわけでもなく、コンクリート剝きだしの簡素な長方体の建物群が乱立する街並みは決して華やかではない。もちろん学問の府なので細工の施されたギリシャ神殿やイタリアのカラフルな港町を期待しているわけではない。ただ、日本の大学だからすべてを木造建築にしろとまでは言わないが、それでも最近建て替えられたのか、よく見ると艶があるその灰色群に、もう少しなんとかならないのかと少しだけため息が出る。
工学部の建物群はキャンパスの一番奥にあった。偏見だが、文系と異なり理系の学生は運動が苦手な者が多いから、少しは歩かせようと思っているのかもしれない。
ナナモも理系だ。大学生になってから、ほとんど寄り道していない。もちろん体育会系のクラブに属しているわけでもない。だから、歩くことがめっきり少なくなった。それでも教科書の入ったリュックを背負いながら工学部の校舎に向かうまでの歩みは、心地よい運動となっていた。でも、だるい日もある。それは電子工学基礎理論の講義がある日だ。
今日も朝一番の授業だ。だから、つい、プラットホームで寄り道したくなったのだ。でも、少しは時間をつぶすというか、結果として遅刻の口実を作ろうとしていたのに、それほどの時間が経ったわけではなかった。ホームでいつもよりグダグダしていたはずなのに、余裕をもって家を出ていたこともあって、結局まだ授業に十分間に合う時間だった。
電子工学部の建物は一階が大講義室になっている。電子工学基礎理論は必須科目だったので、一学年の学生は全員ここで講義を聞く。階段教室になっていて、ナナモは一番前でも一番後ろでもなく、ほぼ真ん中の窓際に座っていることが多かった。その場所だと教室からこっそり抜け出すことはなかなかしにくかったが、寝ていても目立ちにくいし、授業に疲れると窓から外の景色が見えて気晴らしになった。
ナナモは新学期が始まった時から、もう何度か電子工学基礎理論の授業を受けていた。けれど何も頭に入ってこなかった。というより何も理解できなかった。電子工学だからコンピューターの授業があって、すぐにでもパソコンを使ってプログラミングなどが自分でも簡単に出来るようになるのではないのか期待していた。それなのに、実際は実技などなく、電子工学という、おそらくそのイロハの授業なのだろうが、大学なのでまず基礎知識を叩き込もうとしてくる。でも高校の科目でそのような授業があったわけではない。小難しい数式を並べられても、そのすべては絵空事で、その内容に興味が持てなかった。もしかしたら講義を担当している教官に質問すれば個人的な疑問に答えてくれるのかもしれない。じゃあ、何を質問したらいい? ナナモはそのとっかかりすらわからなかった。
そう言えば電子工学基礎理論の教官の名前って?
大きめの眼鏡。壮年の様だが黒髪。少し額が見えるような毛玉帽子をかぶっているような髪型。ノーネクタイにぴちぴちのパンツ。授業が始まると決まって少しゆったりめのジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖口をまくって、チョークを持つ。教官なので真面目そうな顔立ちなのかもしれないが、最前席ではないのではっきりとはわからない。もちろん、冗談どころか笑顔さえも、一度たりとも垣間見たことがなかった。
ナナモはそんなことを考えながら講義室へ入った。いつもより遅れてきたので誰かいるだろうと思ったが、教室内にはまだ誰もいなかった。ひよっとしたら休講なのかもしれないと、淡い期待を抱いた。そう言えばここに来る前に掲示板を見るのを忘れたなと、でもいいやと、今日は日当たりが良く、だだっぴろくひんやりとしている空間だが、窓ガラスを通してこの席だけは温かくしてくれる。
硬く居心地の悪い机と木製の椅子は一体化している。ナナモは少しお尻を前にずらすように身体を傾けて座ると目を閉じた。ベッドに入った後もこのようにぼんやりとくつろいでいる時もこの頃瞳の裏に映る光景は不思議なことに決まって未来ではなく過去での希望だった。
ナナモはそのことが不思議で仕方なかった。何故なら、ナナモは中学一年生の時、いじめに遭って、自らの命を絶とうとした。実際そのようにしたはずだったのに、目が覚めると飛行機の中にいた。行先はロンドンで、そこで暮らしていた叔父叔母に預けられながら、高校まで暮らしていた。だから過去には希望など少しもなかったはずだ。その上、日本人の父とイギリス人の母に育てられたという幼い時の記憶以外、両親との思い出がすべて消えてしまっていた。その生死すらわからない。叔父叔母に尋ねてもナナモと同じように両親の記憶だけが無くなっている。本当だろうかと何度も二人に尋ねたが、真面目で優しく接してくれる二人が嘘をついているとは思えなかった。
それがロンドンにいるうちに未来への希望が沸き起こってくる。いじめられていた過去も薄れていく。だから現在は過去を補うためではなく未来を構築していくものになった。
いやそのはずだった。その自信が十八歳になった年に日本に戻って日本の大学を受験してみようと思わせた。実際夏休みを利用して、予備校の夏期講習を受けにわざわざロンドンから東京にやって来たのだ。
懐かしいという楽しみが、この階段教室にいると思いだす。夏期講習の教室と同じだからだ。
夏期講習の教室にはクーラーが作動していたが、牛ぎゅう詰めの状態で、電子工学基礎理論の講義と同じように、大きな黒板に予備校の講師が長々と説明していく。それは一方通行でただノートを取っているだけだった。それでもその講義の内容は何とか理解できたし、理解しようとしたし、何よりもその行為が楽しかった。
「毎日が苦痛だと思っていたけど、何か希望があったよな」
ナナモは独り言を心の中でつぶやいていた。中学生の時いじめられ独りぼっちになっていたが、今ではそういうことはない。しかし、未来がなくなるのではないかという不安はあの時と同じように今も思う。もしかしたら、それでも今できることを精一杯やればいいのかもしれない。けれど、ナナモは自分の未来を方向転換しなければならないような強い力が何か働いているように思えたし、今朝の出来事がそう確信させた。
「僕の居場所はここではないのかもしれない」
ナナモはもう一度独り言をつぶやいていた。
「今年で二十歳になる。まだ遅くはないはずなのに、いったい何をすればいいんだろう」
ナナモは何か目標があったのだ。だから、日本に来て夏期講習を受けて、一度、ロンドンに戻ったのに、結局日本の大学を受験したのだ。
ナナモの記憶が正しければ初めて受験した時も、次の年も、同じように電子工学を受験したはずだ。でも本当は電子工学ではなく違う学部を目指していたように思う。ナナモの記憶はどうしてもそのことを否定してしまう。でもそれは、自分が受かるわけなどないと、その未来を完全に封印していたからではない。もし、その未来を選択したら、ナナモは物凄い重荷を背負わなくてはならなくなるという恐怖でしり込みしてしまっていたからなのかもしれない。
ナナモはうとうと、また過去の希望を夢見ようとしていた。
ナナモは突然起こされた。でも、誰かが声を掛けてきたわけではない。誰かが身体を揺らしてきたわけでもない。それでも起こされたという感覚は確かにあった。もしかしたら窓辺の席でナナモを心地よくさせてくれたのは、やはり日に日に成長していく太陽の光だったのだろうか。それならいいのだが、あの名前も知らない教官だったらと、ナナモはゆっくりと瞳を開け、鼓膜を張った。
しかし、黒板の前に教官は立っていなかった。それどころか周りには誰もいない。
「やっぱり休講だったんだ」
ナナモは教室から出て行こうと立ちあがった。そして、出口に向かった。すると、誰もいないと思っていたのに教室の一番後ろの出入り口付近に学生が座っている。小柄だ。いや、座っているからそう思ったのかもしれない。その割に首回りまで髪の毛を伸ばしている。しかし、ナナモと違って、いたって普通の若者の顔だ。
ナナモは、その学生とは面識がないように思う。だから、同級生ではないのではないかと思った。でも、ナナモには友達がいなかった。もちろん挨拶程度の会話はする。けれども、授業が終わればすぐに帰っていたので、どこかに遊びに行こうとしなかった。もしかしたら、記憶になかっただけかもしれないし、以前はその学生は髪の毛を後ろで束ねていたので気が付かなかっただけなのかもしれない。
そういう思いがナナモの動きを止め、その学生を観察することになる。でもその学生もナナモを見ていた。だからか、お互いが程よい距離を保ちながら、お互いが緊張している。
ナナモは少しだけ距離を縮めようとする。それはその学生に近づくためではない。この教室から出ていくためだ。すこぶる単純な理由だし、そんな理由がなくても、唯通り過ぎればいいだけなのに、ゆっくりと間合いを狭めようとしていた。心とは別に体がそうしているのだ。なぜだろう?
「休講だよね」と、そう話しかければ済むことなのにナナモはそう出来なかったし、その学生もそうしてこない。
ナナモとその学生とはまだ三メートルほどの距離がある。それでも、まるで時代劇の決闘シーンのようにじりじりとさらに間合いを狭めていく。
「あれ?」
ナナモはその学生をどこかで見たことがあるように思った。いや、その学生と会うためにずいぶん過酷な旅をしていたように思えた。
「やっと見つけたよ」と、ナナモは、もはや「その」ではなく「あの」学生に声を掛けようとした。でも名前が出てこない。あれほど会いたがっていたのに肝心な名前が出てこなかった。
しかし、あの学生はナナモの思いなど意に介せずと、相変わらず無表情だ。それどころか、さっさと通り過ぎたらいいのにとさえ思っているのか、ゆっくりと様子を窺うように、近づいてくるナナモを憐れむかのような冷めた目で睨んでいた。
「あの・・・」
それでもナナモはこの大学へ来てから初めて自分から話しかけようとした。いや、そうしなければならないと思ったのだ。
ナナモは一気に距離を詰めようと、素早くあの学生に走り寄ったつもりだったが、あの学生はナナモの何倍もの動きで立ち上がると教室から出て行った。
「追うんだ!」
どこからか声が聞こえる。でもナナモはその声が聞こえなくても追っていたに違いない。何故なら、あの学生に負けじと走り出していたからだ。
「ちょっと待ってくれよ」
教室の出入り口から勢いよく飛び出したナナモだったが、あの学生は校舎から威勢よく飛び出したわけではなく、廊下の端っこで振り返るようにナナモを見ながら、立ち止まっていた。だから、ナナモも急ブレーキを掛ける。またお互いが先ほどの距離を保ちながらまっすぐな廊下で対峙していた。
それでもナナモはゆっくりとあの学生にまた近づいて行く。するとあの学生もまたゆっくりと遠ざかって行く。けれど、あの学生がいる廊下の先は行き止まりだ。もはや逃げ場はない。だから、すぐ目の前に立つことは時間の問題だ。ナナモは少し歩幅を拡げる。先ほどより距離の時間が短くなる。
あと少しとそう思った時に、あの学生は突当りを向かって右方向に進んで消えてしまった。行き止まりのはずだと思ったのに、壁に吸い込まれている。えっと、ナナモは素早く同じようにその角を曲がった。するともう少しで当たりそうな距離であの学生がナナモを見上げている。
「あっ」と、驚いたナナモは後ずさりする。でも目の前にあの学生はいるのだ。失礼なのかもしれないが捕まえてやろうとナナモが手を差し伸ばした瞬間、角を曲がったままのその廊下は急に奥行きを深め、はるかかなたと言うと大げさだが、数十メートル離れたところでナナモをまた見つめている。ナナモは走るしかなかった。ナナモは追いかけようと筋肉を緊張させた。そしてそのまっすぐな廊下を走り始めた。すると、その廊下が急に急上昇してまるで滑り台のように弯曲して来る。ナナモはびっくりして思わず立ち止まった。もしかして夢でも見ているのだろうか? それとも、大学での日々を憂いていたので、幻覚が現れたのだろうか? でもあの学生はたしかに教室にいた。それは現実のはずだ。
ナナモは頬を強く摘まんだ。痛みを感じる。でも、本当はそう感じている夢を見ているのかもしれない。
あの学生とどうしても会わななければならない。そして、これが現実なのかそうではないのか確かめたい。
あの学生はその坂の頂上にいるはずだ。でもここからでは見えない。よし、この急坂を登ってやる。必ず追いついてみせるのだと、まるで、陸上競技のスタートラインに立った選手のような姿勢で身構えた。走りだそうとすると。その坂は階段状になって、まるで龍の衣のようにうごめき始めた。その動きを追っているとくらくらと目が回る。ナナモは負けてはならないと歯を食いしばって登り始めた。不安定ではあったが、やっと登り切ったと振り返ったら、その階段は消えていた。その代り、前方を向きなおすと。目の前には屋敷門のような、大きな朱色が妖艶な、いかにも重そうな木製の扉が聳え立っていた。
「この向こうにあの学生はいるのだろうか? でも、僕の力でこの扉をこじ開けることは出来るんだろうか?」
ナナモは階段を見た時と同じように一瞬立ち止まる。けれども、もはや後戻りする選択肢はなかった。あの学生とどうしても話したい。その強い思いが、ナナモにこの扉を打ち破る勇気を与えてくれる。
そう簡単にぶち破れるわけではないとは思ったが、ナナモは一か八かで体当たりしようとした。身体を最大限に緊張させ、大砲の砲弾のように丸く固めると、右肩から思いっきりぶつかって行った。
ごつんという衝撃があるのかと思ったが、その扉はギギッーという音もなく、ナナモが扉にぶつかる前に開いた。だからそのまま勢い余ってナナモは投げ出されるように、転がっていた。
ナナモはとっさに受け身がとれたので、どこかを強く打ち付けることはなかった。しかし、目の前の景色が揺れている。だから、ナナモは周囲を伺おうと左右に首を振った。ここはどこだろう? しかし、大学ではない。ナナモは目を凝らす。すると突然暗闇になった。全く光がない。ナナモは立ち止まる。
ふぁんという、奇妙な電子音が聞こえたかと思うと、また、光が差し込み、周囲の世界が膨らんだ。ここはどこだろう?
ナナモは周囲を見渡した。どこかで見たような光景だ。ナナモは周囲を高層ビルに囲まれた平面の中に立っていた。渋谷か? 何かみたような動物の像がある。でも、犬ではない。もっと強そうな、虎のような怪獣だ。それに、ビル群の外観はガラス張りの都心の建物ではなく、細工の施された欧風の建物に似ている。
ナナモはある一点を見上げた。あの有名なファッションビルに似た建物が目に映った。しかし、コンクリートではなくレンガ壁でダブルオーナインと数字が見える。
それにしてもこれだけビル群が聳え立っているのにナナモの周囲だけぽっかり空いていた。そうだここは世界でも有名なスクランブル交差点なのだ。だから行儀よくしつけられた車は赤信号の前で静かに待っている。でもヒトがいない。少ないという意味ではない。全くいないのだ。ナナモ一人だけが、その交差点の真ん中で佇んでいる。
あの学生は? 四方に伸びる白色の縞模様の横断歩道のどの方角へ向かえばよいのだろう? ナナモはキョロキョロと何度も周囲を伺った。しかし、やはり誰もいない。どうすればいいんだ。焦る気持ちはあったが、ここはじっくり待つしかない。ナナモは気を落ち着かせ腹を決めた。しかし、そんなナナモの平常心を打ち消すように青色の歩行者用の信号機が点滅し始め、渋滞の車からイライラのエンジン音が少しずつ大きくなってナナモを揺すって来る。
ナナモはとりあえずあのダブルオーナインと書かれている建物の方に向かおうと一歩踏み出した。その時、突然赤い閃光が轟き、身体をなぎ倒そうと物凄い疾風が吹きつけてきた。
タイムラグで爆音とともにその建物が粉々に崩れて行く。
「逃げろ!」
大きな声が聞こえたかと思うと、今まで誰もいなかったのに周囲からまるで見慣れた朝の通勤時のように群衆が一斉にスクランブル交差点の周囲からナナモの方に集まって来る。ナナモは押しつぶされそうな予感がして、逃げようと思ったが、間に合わないようなスピードで四方八方からやっくる。ナナモは誰彼となくぶつかってこられて、もみくちゃにされた。しかし、体感はない。そう言えば爆発による疾風はまったく熱くなかった。
ナナモは怒号と悲鳴が交差する群衆の中であの学生が平然と歩いている姿を捉えた。
ナナモは何とかひしめく群衆をかき分けて、あの学生の後を追っていく、ナナモが窮屈な歩きから、小走りに、そしてやっと、走れるようになった途端、その学生も全速力でもしここが渋谷なら道玄坂方向に走って行く。
ナナモは走ることには自信がある。だから、スピードを上げた。
あの学生は、それまで一度も振り返ることがなかったのに、急に振り返り、内ポケットから何か取り出すと、ナナモに向けて来た。
「まさか、そんなはずがない。ここは日本だ」
しかし、そんなナナモの思いとは別に銃声が響き、弾丸がナナモの頬をこすっていった。
ナナモは、今度はそのかすかな痛みの感覚を確かに覚えた。だから素早く頬に手をやる。指先には真っ赤な血がついていた。
「おーい、その男を捕まえてくれ!」
ナナモは叫んでいた。でもなぜあの学生はナナモに銃口を向け、弾丸を発してきたのだろう。そして、それでもなぜあの学生を追いかけなければならないのだろう。ナナモはその理由を一生懸命考えた。しかし、答えにはたどり着けない。
運動靴の踵がつかないような急な上り坂の両脇には大きさや外壁の異なるビルが建っている。丸腰のナナモは次から次へと発せられる弾丸をビルの隙間でよけ、時には映画館への簡素な鉄製の案内板で身を隠して、あの学生を追いかけた。ナナモの息は少しずつ上がってくる。
ナナモは狭い路地に入り、呼吸を整えた。もはやあの学生を目視できない。弾丸が放たれる際の音を頼りに居場所を探るだけだ。
ナナモは路地から何度か様子を伺いながら顔を出したりひっこめたりした。しばらくすると呼吸が落ち着いてきた。だから、また路地から出て前へ進もうとした途端に、ナナモはズボンのポケットに何か硬いものを突っ込まれた。後ろは無防備だったので身体がビクッと動いただけですぐに振り返ることは出来ない。それにあの学生がいつの間にか回り込んでいて銃口を向けていたら、ナナモはもう終わりだ。そんな恐怖も当然あった。
ナナモはおそるおそる振り返る。しかし、誰もいない。緊張感からの解放でホッとする。だから、ポケットに突っ込まれたものを取り出した。
それは銃だった。大人の手に収まるほどの大きさだがずしりと重い。ナナモはこれまで当たり前だが銃など触ったことは一度もない。もちろんロンドンでも自由に銃を持てるわけはなかった。子供の時にプラスチックの銃を持って遊んでいた程度だ。
「撃つんだ」
どこからか声がする。でも、どうして僕があの学生を打たなければならないんだ。
「殺されるぞ」
殺されるって、どうして? なぜ僕が?
ナナモは頭が混乱してきた。だいたい、これはどういう状況なんだ。僕は電子工学基礎理論の講義を受けに来ただけなのだ。それなのに追っているうちに銃を持たされ、あの学生と闘おうとしている。
「奴は裏切り者だ。おまえに何食わぬ顔で近づいてきたのはお前を惑わすためだ。奴は親切そうに見えるが、お前を奴の組織に引きいれたいと策を練っている。やつはお前なら騙せると思っているんだ。奴の世界は闇の世界だ。この世の人々を不幸に陥れる闇だ」
またどこからか声が聞こえる。
「そんなことはない」
ナナモは大声でそう叫んでいた。
「それじゃあ、何故、ビルを爆破した。なぜお前に銃口を向け、殺そうとするんだ」
ナナモは答えられない。
「お前がやられるか、あいつがやられるか。今が選択の時だ」
ナナモはその声を聴き終えた時に、何かを思い出した。でも何かだ。
ナナモは唐突に路地から出て行った。銃口を向けたのはあの学生ではないかもしれない。だったら、この場から去ることだってできる。
しかし、ナナモの目の前には数十メートルの距離を隔ててあの学生が立っていた。やはり小柄だ。それに、能面のように無表情だ。
先ほどまで晴れやかだった青空は嘘のように消え、火山灰が天空から撒かれたような雲が拡がっている。疾風が衣服に当たりカサカサと音を立てながら、視界を微妙に揺らしているが、あの男の長髪は微塵も動かない。
二人はまるで映画の決闘シーンのようにしばらく身動き一つせずにまた対峙する。
ナナモは自然と気を引き締め、そしてあれだけ拒んでいた銃を右手に強く握っていた。そして、少しずつあの学生に歩み寄って行く。きっとあの学生がナナモを撃ってきたのではないと信じている。
ゆっくりと数メートルナナモがあの学生に向かって歩みを進めた時に、どこからかカランコロンと空き缶が転がって来た。その音に反応し、あの学生は素早く銃をナナモに向け、撃って来た。今まで聞いたことないパーンという乾いた音が響いてくる。ナナモの本能が身体を横にずらし、向かってくるであろう弾丸から身をかわすと、倒れ込みながらであったが右手に持っていた銃の引き金を引いていた。
あの学生はナナモを見つめたまま銃口を向けている。ナナモは続けてもう一発発射しようと思ったが、あの学生はそのまま前のめりにゆっくりと倒れていった。
ナナモはその様子をおぼろげに見ていた。最初はあの学生がナナモを撃ってきたことのショックで動けなかったが、そのうち殺してしまったのではないかという恐れが身体をより強く縛り付けて来た。そしてこれは現実ではないんだと冷静さがもう少しで戻ってきそうだったのに、焦げ臭い、今まで嗅いだことのない匂いが鼻先から入り込んできて邪魔をした。
鼓膜はつーんとしていたが、ナナモが立ち上がると、一瞬、時間が止まったかのように、周囲から五感が消えた。ナナモはまるで無重力の世界で浮遊しているようだった。
やっとその束の間からアスファルトに両足を付けることが出来た時、けたたましいサイレンの音が徐々に強くなって鼓膜を揺すって来た。
ナナモはその音に促され、あの学生のもとに近づこうとした。まだ今なら手当をすれば助けられるかもしれない。冷静さが少しずつ歩みの速度を強めた。それほどの距離ではないはずなのに、ずいぶん時間がかかったような錯覚で、ナナモはあの学生のそばまでくることが来た。そして身をかがめ抱き起そうとしたときに、背後から羽交い締めにされた。
「誰だ、離せ」
ナナモは大声で叫んでいた。それどころか、身体を何度もねじりながら、羽交い締めから抜けだそうとした。
しかし、ナナモがもがけばもがくほど強い力で締め付けられる。それでもナナモは自由になることをあきらめなかった。目の前の学生を助けかった。
「このままじゃ、死んでしまう。僕は何とか彼を助けたいんだ。いや助けなくてはならないんだ」
ナナモはワーッと叫ぶと、まるで体中の精気を一気に集めてそれを瞬時に固め爆発させた。そして、まるで相撲力士でもなったかのような力で、羽交い締めにしてきた背後の人物を無我夢中で投げ飛ばしていた。
この時、ナナモから何かが一緒に飛んで行った。それはとても軽いものだったが、ナナモのもう一つの身体が別次元へ昇華されたような身軽さを覚えた。
鏡に反射されたような光の粒が急に迫ってきたが、眩しさより瞳を大きくして鮮明に目に前の視界を拡げてくれた。
ナナモは放射線状に建てられた学部校舎の中央にある一面緑の芝生の上にひとりぽつんとり立っていた。都内の小学校の校庭の三倍くらいの大きさはある。ロンドンの街中によくある公園に似ていて、昼休みになると陽射しに誘われて思い思いの格好で学生たちがくつろいだり、昼食を取ったりする場所だ。
「僕はまた異世界に紛れ込んでいたのか?」
ナナモから漏れ出た言葉は、あの学生を殺していなかったんだという安堵感とともに、ある光景を鮮明に脳裏によみがえらせていた。
「あほ、そんなわけないやろ。ふつうやったらもっと前に気が付くのに、なんで気が使へんかったんや。それになよっとしてるとおもったのに、馬鹿力出しやがって、折角の大事な機材が壊れたがな」
ナナモの郷愁を無視するように、聞きなれない関西弁が聞こえて来た。
ナナモは慌てて周りを伺うと、その目線の下にあの学生が立っていた。