(1)行きたくなくなった学校
僕はどうしてこの学校に来たのだろう? この学校に来て僕は何をしたかったのだろう? もう後戻りはできないのだろうか? もう一度自分がやりたかったことを考え直すことはできないのだろうか? でも、同じことかもしれない。やり直してもうまくいかないかもしれない。けれど迷っているならやり直さなければならない。なぜならあきらめない限り、やり直すことは出来るからだ。そうやり直すことは出来るのだ。
ドア近くに乗ったならガラス窓に顔を押し付けられたまま、気を抜くと涎が落ちそうな不細工な面持ちで、新宿から中央線で西に三十分ほど電車に乗ると、大学前駅に到着する。
住宅街からは少し離れているとはいえ、この駅は急行が止まらない。プラットホームはやや弯曲しながら細長く伸びている。だからではないが、辛うじて桜香の残る新学期が始まった頃は、一時限目の授業に呼応して、授業の開始時間よりいくぶん早い時間帯でも学生だらけでごったがえしていた。その上、駅の一方向にしか改札がない。改札の反対側の車両に乗った時は、せっかくホームに降り立ったのに、なおむさくるしい移動を余儀なくされる。頻繁に電車が発着するダイヤではないが、それでも早く行かないとまたプラットホームが一杯になる。大多数の学生は、なかなか前に進まないことにイライラしていた。
でもそれすら懐かしい。なぜなら、ゴールデンウイークが明けてしばらくしてからは、余裕をもって朝一の授業に向かう学生は、もはやプラットホームを占拠しなくなっていたからだ。
ナナモは関東西部大学の工学部の一年生だ。授業があってもなくても月曜日から金曜日まで毎日同じ時刻の電車に乗り、同じ時間に駅に着く。大学生向けの派手なペンキの塗られた飲食店。世界のどの場所でも見られるファストフード店。それらを横目に数百メートルほどの並木道を、誰とも話すことなく通って行く。そして、やや錆びついたアーチに威風堂々と大学名の装飾された正門をくぐると、石畳で舗装され蛇行しながら続く小高い坂道をゆっくりと歩きながらキャンパス内に入って行く。
ナナモはそんな毎日を送っていた。
だからその日も特別なことは何もないはずだった。久しぶりにスマホにブツブツと文字を入力してはいたが、いつものように比較的空いている列車の最後尾の車両の先頭扉から出ていき改札口へ向かった。なぜかその日は学生が多かった。だからいつもならのんびりと大股で歩くのにそうできなかった。
ナナモはまるで厩舎へ向かう羊の群れの中の一匹のように小俣歩きで改札に進んだ。それでもここから脱出さえすれば、もう少し自由になれる。それは時間の問題だ。と思いながら、しばらくするといつもの改札口にたどり着いていた。あとはピッという音が聞こえれば通り抜けられる。ナナモはすばやくスマホを取り出した。その瞬間、ナナモは前の人にぶつかった。
「すみません」
ナナモは反射的に謝っていた。男性だ。けれどその人は振り返ることをせずに、立ち止まったままでいる。きちんとした、紺に白地のストライプの入ったスーツを着ている。身体からはみ出すような筋肉質ではない。後ろ姿だけではわかりにくいが、学生だと思えにくい。ただし、そう決めつけることは出来ないくらい、すっとした出で立ちをしていた。
ナナモは少し顔を傾け背中越しに覗いてみた。その男性は手を改札機にかざしていた。見えないということはきっとスマホではなく鉄道で使うICカードなのだろう。イライラしているのか、小刻みに手が震えている。それでも、何回かに一度は、その行為を止めて冷静な素振りで手のひらを見つめている。
その男性をじっくりと観察しているのはナナモだけだった。周りからは男女問わず、チエッと下品な溜息が聞こえて来る。しかし、その男性はそんな周囲に気遣うことなく、さっさと後方へ退散するわけもなく、何度も手を執拗に改札機にかざし、その場所を動こうとしない。
「あの……」
ナナモは周囲からの気配に後押しされたわけではない。けれども、真後ろだったのでその男性に自然と声を掛けていた。
その男性はチラッと一瞬振り返る。無表情だった。やはり、大学生ではなさそうだ。なぜならじっくりと見ていないのに、ナナモと同じような年齢層ではないことはなんとなくわかったからだ。オジサンといえば失礼だ。ただし、明らかにうまくいっていないその動作から、目じりの気弱そうな男性を想像していたが、意外にも眉の太い目鼻立ちのはっきりしている顔貌だ。襟足を少しだけ短く刈り込み、整髪料できれいに七三に整えられた頭髪で余計に際立っていた。
でも大多数が学生なのにどうしてスーツ姿の中年男性がここに居るのだろう?職員ならもう少し早い時間に来ているはずだし、もしかして大学の教授なのだろうか。総合大学だし、一年生のナナモは全ての教師を知っているわけではない。もちろん、教師は教授だけではない。講師や助教もいるはずだ。
でも、そうじゃないよなと、ナナモは思った。なぜなら、なんの根拠もないのに、以前どこかで会ったような親しみが自然と沸き起こっていたからだ。
ナナモは積極的でもおせっかいな性格でもない。むしろ、そういうことが苦手なのに、他の改札機へ移ることもなく、その男性と一緒になってひとつの改札機を占拠していた。小さな駅とはいえ、大学前なので他にも改札機はあと二つある。だから、そんなに急ぐはずもないはずなのに、女性ですら、同情よりも無言の嫌味を口元から漏らしながら、足早に通り過ぎていく。
「あの……」
ナナモはもう一度同じことを言った。そして、さっきは少し遠慮気味だったのに、むしろ積極的に口調を強めた。それでも反応はない。
「あの…… どうかされました?」
だから、周りに人がいることなど忘れ、語りかけるのではなく大声で叫んでいた。
「今朝チャージしたはずなのに、これ使えませんね」
その男性はやっと答えてくれた。だけどナナモの方は見ていない。独り言をつぶやいている。誰に向かって?ナナモはキョロキョロと周りを見た。
不思議なことにあれほど改札口でたむろしていた学生は皆姿を消していた。それどころか駅員さんがどこかしこには必ず居るはずなのに、誰も近寄ってはくれない。まるで、透明なシートに二人だけが囲まれているようなそんな空間のなかで、改札機だけが無言で点滅していた。
その男性は機械にぶつぶつと同じことをつぶやきながらゆっくりとそれでいてしっかりと手を動かし、何度か改札機にまだ手を当てていた。先ほどよりはずいぶん落ち着いているように見える。ナナモはなぜか焦る気持ちが全く湧かない。それどころか、決まりきったスケジュールを止めてくれる男性といることで、久しぶりに心がウキウキしていた。
「本当にチャージしたの?」
そんな油断でナナモはそう言いそうになったが、慌ててその言葉を飲み込んだ。目上の人だし、もし不愉快な思いがナナモに向けられたらと、ビビってしまったからだ。それでも、なぜかその男性にひきつけられる自分がいる。面倒だと思いながらも何か関わりたいという衝動を抑えられないでいた。
「カードを間違えていませんか?」
ナナモはついそう言ってしまって、慌ててその男性を垣間見た。大人はいくつものカードを持っていることが多い。つい最近も年老いた女性が、同じような色をした買い物カードを何度もかざして、結局呼び出した職員にやんわりと諭されていたことを思い出したからだ。それでもいい大人がそうそう間違えるはずがない。バカにするなと怒鳴られるかもしれない。
「地下鉄のカードですよ」
ナナモの想像通りその男性の言葉には丁寧だが語気が強められていた。ナナモはつい恐縮するように後ずさりした。しかし、すぐに「地下鉄?」と、その言葉が気になった。都内で使うICカードは地下鉄以外でも使用できる。もちろん地下鉄が地上の鉄道とつながっていないことはない。でも、この路線はそうではない。だから、なぜ地下鉄?と、思ってしまう。
「あの…… そのカードを見せてもらえませんか?」
はあ?と、その男性に言われたらどうしようと思っていたし、もはや駅員さんに委ねれば良いのに、またしても口から言葉が出ていた。しかし、その男性は怪訝そうな顔一つせずに、反対に少しのけぞったような自信に満ちた表情で、自分のカードを差し出してきた。
「あっ、これ…… 懐かしいなあ」
ナナモはしばらくその男性のことも忘れてそのカードに見入っていた。
「これ、オイスターカードじゃないか」
もちろんナナモは声には出していない。否、出していないと思う。しかし、もはや大声で発しながらにやけている自分が誰かに見られてもいいとさえ思っていた。
オイスターカードはロンドンで使われている公共交通のICカードだ。地下鉄だけの利用ではなく、二階建てバスにも使用できるし、一部の列車にも使える。イギリスではユニオンジャックをイメージするが、淡いブルーで、もしイタリア人がみたら、もう少しと思ってしまうようなデザインだ。そう言えば日本のICカードもそれほどセンスがある色彩やデザインではないなと、微笑みが漏れてくる。
「私は間違えていませんよね」
遥か彼方からイライラではなくニコニコ声が聞こえてくる。いや、ナナモには近づいてきたというほうが正しいのかもしれない。それほどナナモはしばらくその淡いブルーのカードを眺めていた。もちろん、なんだろうと表裏をひっくり返しているわけではない。指でこすってコーティングを確かめていたりしているわけではない。ロンドンに住んでいる人達から見るともはや見慣れている日常品を見ているだけだった。
「これオイスターカードですよね」
どのくらい夢見心地の中に居たのかわからないが、妙な懐かしさも相まって語りかけるようにその男性に言葉を投げかけていた。
「オイスターカード?」
でも男性はナナモの気持ちに乗ってこないのか怪訝な顔をしている。
「ICカードでしょう?」
「ICカードなんですがオイスターカードって言うんですよ」
ナナモは初めて少し語気を強めてみた。もはや、この男性からなにかされるという考えはどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
「オ・イ・ス・タ・ー・カ・ー・ド?」
男性は自分のカードをしげしげと見つめなおしている。
「オイスターカードって言って、ロンドンの公共鉄道で使われているんですよ。特に地下鉄ですけどね。あの、失礼ですが、お仕事か、それとも旅行か何かでロンドンに行っておられたのですか?」
「ロンドン?」
「そうです。イギリスのロンドンです」
その男性はどう見ても欧米人には見えない。それに流暢な日本語だ。いや、日本人として話しているとしてまったく違和感はない。もちろんきれいな標準語だ。それでも、だからと言ってロンドン出身ではないとは言い切れない。
「失礼ですが、日本人ですよね?」
ナナモはあえて英語で質問しようと思ったのだが、それはやり過ぎだと思い、とどまった。
「はい」と、日本語の質問を聞き返すこともなく、その男性は普通に答えた。ナナモの懸念とは裏腹に、バカにされたとは思っていないようだ。そして、そのカードをしばらくしげしげと見つめていたが、「あの白い二階建ての建物? 庭には色とりどりの花が咲いていて…… 確か……」と、何かを思い出したように尋ねて来た。
「ハムステッド二十番地ってロンドンにありますか?」
ナナモはしばらく考えていたがなぜか聞き覚えのあるような場所に思えて、「はい」と、あわてて、「あると思います」と付け加えた。
「それじゃあ、あなたはこのカードがロンドンで使われているICカードで、日本のものとは違うと言われるのですね」
「はい、そうです」
「失礼ですが、確認したいので、あなたのカードを見せて頂けませんか」
ナナモはハイわかりましたと、すぐに言おうとしたが、ナナモのICカードはアプリとしてスマホに取り込まれている。だから、カードとしての現物を見せることは出来なかった。
「あなたはカードすら持っていないのに電車に乗られたのですか?」
男性と話がかみ合わなくなってきた。それに、同じことをナナモは聞き返したいくらいだ。
「僕のはスマホの中にあるんですよ」
ナナモはどうしようと思いながら、そう言えばと、スマホを検索し、日本のICカードとロンドンのICカードの画像をその男性に見せた。文字でも言葉でもない。ずいぶん原始的なコミュニケーションかもしれないが、それが一番の近道だ。これで、この男性にも十分伝わったはずだ。
その男性はしばらくスマホの画面を見ていて、そして、自分が持っているカードとしきりと見比べていた。すぐに見れば理解できるはずなのに、その男性は、「白亜の建物の中で渡されたのです。ちゃんとチヤージしているからこのカードがあればどこにでも行けるって言われたはずなのに……」と、ひとしきり独り言を繰り返すと、まだあきらめきれないのかわからなかったが、強引にカードから視線をナナモに移した。
「あなたのおっしゃりたいことはわかりました。でもどうしてあなたは、私のカードが、オ・イ・ス・タ・ー・カ・ー・ドだってすぐにわかったのですか?」
「ロンドンに居たからです」
「ロンドンに?」
「なぜですか?」
ナナモはこの見ず知らずの男性の素朴な質問に戸惑ってしまった。けれど、なぜか、どうして日本からロンドンに行って、そして、今、また日本に戻って来ているのかを、この男性に話してみたくなった。
それでもナナモには授業がある。新学期が始まってから今まで授業を欠席したことは一度もなかった。しかし、それは大学が面白かったり、授業に興味を持ったり、自分の進むべき将来にこの学校で学ぶことが必要だと感じたからではない。この大学を受験したのは自分であり、この大学に合格したことを受け入れたのは自分であり、そしてこの大学に通学しようと決めたのは自分であったという選択に対しての責任を全うしているだけだった。あの時、すなわち、受験するときも、合格通知を得た時も、授業料を払い入学式にのぞんだ時も、その選択を放棄するというもう一つの選択もあったはずだ。この大学はナナモが行きたかった大学ではない。いや、ナナモが学びたいと思っていた学部ではない。でも、そうしなかった、そうできなかった。だから、休むことは出来ないのだと自分を縛ってみようと思い込んでしまっていたのだ。
しかし、その男性のカードを見ているうちに、ナナモは授業などもはやどうでもよくなっていた。まだ一か月半ほどしか経っていないが、一日も休まず受けたどの授業もナナモには響いてこなかったし、なによりも工学というその専門の授業は全く理解できなかった。それでも大学に来ている。そういう毎日をくりかえしている。ナナモはそういう自分が嫌になってきていた。
「あの……」
ナナモは、「お時間がありますか?もしおありでしたら、僕の話を聞いてもらいたいんですが……」と、そう言いたかった。でも改札口で何度もカードをイライラしながら押し付けていたんだ。この男性にはきっとこれから大切な仕事があるのだろう。
ナナモは先ほどまで改札から出ていくことを邪魔されたことなどすっかり忘れてこのままこのホームでずっと居てもいいような気がしていた。それにいつもならこの駅から空を見上げることなどないのに自然と周りを見ている。もちろん空以外周囲の景色などは遮蔽されているホームからは垣間見ることなどできない。それでも見上げると、どこからかさわやかな疾風が挨拶してくるように頬に触れてくるし、青空をより鮮明にする太陽がにっこりと微笑みかけるように、周囲の雲たちと歓談していた。
ナナモはその男性から離れてホームにあるエビ茶色の椅子に腰かけていた。大学駅前だからと言って特別お洒落なデザインではない。椅子が二つ連結している深めのスプーンのような、それでいてすっぽり身体を預けることができない程度のプラスチック製の椅子だ。
ナナモはその椅子の角に腰かけた。そして、すぐに、どーんと座り直そうと、窮屈だったリュックを降ろして横の椅子に置こうとした。
「あっ……」
あの男性が座っていた。ナナモと同じように、何かに身を任せようとしている。
「出られなかったのですか?」
驚いたナナモの口から自然と言葉が続いた。
「そうなのです。でもね、私は列車に乗る時にはこのカードで改札を通れたのですよ」
その男性は真面目な顔をもっときりっとさせながら、もう一度ナナモの視線の高さでオイスターカードを揺すっていた。
「駅員さんに尋ねてみましょうか?」
「いや、あなたが教えてくれたそのICカードがどこかにないかここで探してみます」
男の人はそう言うと、ナナモの横で背広のポケットをごそごそし出した。ナナモは気になったが、さりとて他人のポケットに手を入れるわけにいかない。まさか、丸裸になるはずもないしと、限られたポケットの数なのに何度も手を突っ込んでいるその姿が却っておかしくてつい笑ってしまった。
「何か滑稽ですか?」
ナナモは声を出していない。それに「滑稽」だとは、やけに古めかしい言い回しだ。
「いえ。つい。すいません。ポケットが無数にあるみたいなので」
「そうですね。限られていますよね。カードはどこに入っているのでしょうね。なかなかたどり着かないですね。でも、きっと、どこかのポケットにはあるのでしょうね」
その男性も少し微笑んでいるようにナナモには思えたが、それが錯覚だとわかるように凛とした言葉が聞こえて来た。
「もし、あなたの言う通りこのカードがその…… オ・イ・ス・タ・ー・カ・ー・ドだったとしても、だから日本では使えないとしても、私はこのカードを本当は今でも信じているのですよ」
「信じている?」
「そう、このカードでも、きっと改札口から出られるって」
しかし、その男性はナナモにそう言うとまた同じようにポケットを探していた。
「あの……」
ナナモは、今度はその男性のことを気にすることもなく。それでも少し遠慮気味に一歩前にはけっして出ないぞと言う口調で、
「僕を見て何か思いませんか?」と、語りかけていた。
その男性はきょとんとしている。
「さきほど、失礼ですがあなたは、僕がどうしてロンドンに居たのかって尋ねられましたよね」
ナナモはもはや遠慮しなかった。
「はい。それがなにか?」
「僕を見て何か感じませんでしたか?」
ナナモは男性に尋ねた。しかし、男性はピンとこないようだ。
「僕の顔ですよ」
男性はそう言われて、ナナモを見ている。けれど、同じように首をかしげるだけだ。
「僕の父は日本人で母はイギリス人なんです。ほら、眼も、ライトブラウンだし、鼻筋だって……」
「でも、きちんとした日本語を話されておられますし、私にも丁寧に接してくださいました。ご両親が立派に育てられたのでしょうね。それに、ハーフ? いや、今ではそう言う言い方ではなくて違う言い方なのかもしれませんが、そういう方は多くおられますし、この頃は生まれも育ちも日本の方も多いですから」
男性はナナモの顔貌を全く気にしていないように思えた。ナナモはその無関心さに、つい鬱積していた感情を早口の英語でこの男性に吐き出していた。
「日本の学校でいじめられていた僕を、おそらくだけど、両親がロンドンへ連れて行ってくれたんだ。でもね、僕がロンドンに着いた時には、行方不明になっていて、だから僕はロンドンにいる叔父叔母の所に預けられて、それで、そのままロンドンで生活するって思っていたのに、なぜか、また日本に戻ってきて、今、祖母と一緒に住んでいるんだけど、日本の大学に入学して、でもその大学が合わないって、いや、自分がやりたい学問ではないなと気が付いて、でも祖母がせっかく学費を工面してくれたんで、辞めたいって言えなくて、どうしたらいいんだろうと思って悩んでいるんだ」
ナナモが話し終えてもその男性は瞬き一つしていなかった。
そうだよなと、ナナモは決してこの男性が悪いわけではないのに、つい感情的になった自分を責めた。しかし、その男性からは意外な言葉が聞こえてくる。
「大学を辞めて、そして、働いて、お金を返せばよいのではないのですか?」
英語が通じたようには思えないのに、会話が成立している。もしかして英語がわかるのだろうかとナナモは思った。でももはやそんなことはどうでもよくなっていた。もしかしたら心が読めるのかもしれない。そんな錯覚にかけてみようと思った。
「そうですね。でも、僕、やっぱり大学には行きたいんです」
ナナモは日本語で今度はゆっくりと言った。
「なにかやりたいことがあるのですか?」
男性のその問いかけには温かみがあった。だからナナモはすぐにハイと返事をするつもりだったが、なぜかはっきりとその問いに答えられないでいる。
「それでは、あなたは今、大学で何を勉強されているのですか?」
「工学です」
でも、全くわからないし、興味が湧かないんです、と言いたかったが、ナナモは素直に言えなかった。入学して間がない。まだ、わかるほど勉強していないのではないのかと言われるような気がしたからだ。
「あなたのやりたいことは、今学んでいる工学では応用できないのですか?」
できるような気はする。でも何かが違うし、ある部分ではできないかもしれない。
「この大学は総合大学ですよね?」
「はい」
「それじゃあ、あなたがやりたいと思っている学部に変わればいいのではないのですか?」
「この大学にはないんです。その学部は。だから再受験しないといけないんです」
「じゃあ、そうするしかないですよね」
そんなことはわかっている。でもそう簡単ではない。さっき言ったじゃないか。でも、その言葉はナナモの心に突き刺さって来る。
「間違えは誰にでもありますからね」
男性は、まるでトランプのジョーカーのように、あのカードをナナモに渡してきた。ナナモが、えっ、と戸惑っていると、「日本では使えないなら私が持っていてもしかたありませんからあなたにお譲りします。あなたはまたロンドンに戻られることがあるかもしれませんからね」と言ってきた。
男性の言葉からは柔らかみが伝わってきたが、笑顔はなく、何か諭すような物言いにナナモには思えた。だから、もしかしてロンドンに戻れって意味なのだろうかと、瞬きしない男性にそう問いかけてみたかったが、ナナモはぐっとその言葉を飲み込んだ。
「間違えていたとしても、それに気が付けば、もし自分で気が付かなくても、誰かに気付かせてもらえれば、やり直せるのですよね」
男性はやっと表情を緩めた。しかし、その言葉はナナモにねっとりと反響していて、せっかく作ってくれたほんのりとした空間を共有することが出来なかった。
「あの、あなたは誰ですか? 以前、お会いしたことがありますか?」
すがるような気持ちからではないのだが、ナナモの口から自然に漏れ出ていた。
ナナモはこの男性ともう少し話をしたかった。しかし、男性は返事をしない。その代り、内ポケットから懐中時計を取りだし片手で器用に開けると、また閉じた。
「あなたの話に興味を持つ人物がいずれ現れますよ、ナナモさん」
どうして僕の名前を知っているんだろうとナナモは全く思わなかった。それどころか名前で呼ばれたことに嬉しさとともに、張りつめた糸で縛られていた身体が一気に緩んでいくような心地よさを覚えた。
「あの、お名前は?」
「ア……」
次の列車がホームに入ってくるのか構内アナウンスでかき消される。
「えっ」
ナナモは慌てて聞きなおそうとしたが、男性は停車した列車から降りてきた学生に混じって改札口に向かっていた。男性はカードをかざすことはなく、まるで周りの学生から離れた異空間に居るように、ゆっくりとそして丁寧に、背筋を伸ばし、一礼してから両手を合わせ、二度柏手を打って、何かを呟いてから、もう一度一礼していた。すると、何も音はしなかったが、すっと開閉棒が開いて、その男性は改札口から出て行った。
ナナモも急いで男性の後を追いかけようとしたが、男性はまるでまぼろしのようにスーッと目の前から消えていた。
ナナモは夢なのだろうかと何度も目をこすって周りを見回した。しかし、改札機の前には、出たいのか出たくないのか、ナナモ一人だけがじっと佇んでいた。
「間違いではない。でも迷っているのならやり直せばいい。もう一度考え直せばいい」
どこからかそんな声が聞こえてくる。そして、その声はナナモに勇気をもたらしてくれる。
「よし決めた」
ナナモはそう叫びながら両拳に力を入れた。ナナモは右手に何かを握っている。錯覚なのか、ずいぶん大きくずいぶん重く感じる。そうだあの男性からICカードを渡されたはずだ。ナナモは素早く拳を開いた。しかし、ナナモが握っていたのは、オイスターカードではなく真新しい日本のICカードだった。でもそれはSUIKAではなくなぜかICOCAだった。そしてナナモはスマホを取り出すことはなく、そのカードを改札機に当てた。ピッと今まで聞いたことのないような柔らかな音がしてから、難なく開閉棒は開いた。
ナナモが改札機を通って駅舎から出た時には、大きな雲の隙間から出でた太陽が燦燦と輝いていてナナモを導くように照らしていた。