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飛んで火に入る冬の人

これからも週一短編投稿していきます。




 『何かを得るという事は、何かを失う事だ』と誰かが言った。つまり損失は、何かを獲得する行為の事だろうか。


 損失と獲得は対義語らしい。失う事が得る事ならば、それは類義語ではないだろうか。果たして、対義語だろうか。


 本当に失う事が得る事ならば……


 私は息子を失い、何を得たというのだろうか。







ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー






 テーブルにはHighball(ハイボール)と、その空ビンがいくつか散布して、リビングにはランドセルが一つ。照明が弱々しくて、ランドセルが薄明かりに溶けている。


 その薄明かりから、声が聞こえた。


 『今日のおやつはー?』


 はっと凝視すると、そこには愛する子の姿があった。私は驚くより先に体が動いて、勢いのあまりに椅子から転倒した。空ビンがガラスの破片になって床に広がる。


 手を伸ばして息子に触れようとすると、指先が空を切った。バランスを崩してまた転倒する。ガラスが肘と膝に刺さって、血が滲んだ。


 『どうしたの? お母さん?』


 横から声がする。ダメ押しに手を伸ばすと、霞のように霧散して消えた。どうやら私の精神は、幻覚と幻聴を与えたらしい。




 皮膚を破ったガラスを払って、また椅子に座りHighballで喉を潤す。氷も口に含んだので、alcohol(アルコール)で喉を焼かずに済んだ。仮に喉を焼いたとしたら、もしかすると幻覚を振り払えたかもしれない。痛覚が薬になり得たかもしれないと思った。


 『お母さん、大丈夫?』


 心配して気遣う子は愛しい。これが幻覚でないなら、今すぐにでも抱きしめるのに。これが幻聴でないなら、今すぐにでも返事をするのに。


 きっと触れようとすると居なくなるから、虚しくてもここに居てほしかった。側に居る方がより寂しい気もするけど、失うと狂いそうだった。


 一人でに椅子から転倒し、空を指で切る姿は、奇行に走った狂人だろう。でも私は狂ってはいない。亡くした子を憂いて、ただ正常におかしくなってしまっただけだ。




 患った幻覚が椅子に座り、私を心配してくれる。たまに手を伸ばすと消える。触れられない。


 肘を付いて伏せていると、後ろから声がした。


 「……お酒、僕も飲んでいい?」


 正常人の妻が一人と、それに話しかける夫が一人。夫のくすんだ肌色からは不健康な瘴気を感じた。今度は幻覚ではない。少しの沈黙の末に、夫は宥めるみたいに独りごちた。


 「……あの交通事故は、完全な偶然だったんだ。……だから、誰も恨めない」


 「……どうしようもなかったんだ」


 夫が慰めてくれるが、全く意に返さない。どうしようなくても、喪失を悲しんだり、あの運転手を憎むくらいはしていいだろう。


 故意に殺していない男は、運転免許を剥奪されただけで野放しになっている。それが許せない。法の罰が与えられないのなら、私が与えてやりたいと思った。


 ただその怒りは一部分に過ぎず、大部分の心中は、胸から臓器の一部が抜け落ちたみたいな寂寥。喪失感。それらに襲われていた。


 当たり前とは、ここまで特別な物だったのか。




 『お父さん、大丈夫?』


 息子が父からは見えていないというのに話しかけた。「お父さんは大丈夫よ」と言うと、息子は笑った。それを夫は愕然として見ていた。


 「もう悲しむのは終わりにしよう。こんなに酒ばかり飲んでたら、壊れてしまう」


 夫が優しい声色で喋ると、浸透したalcoholが頭蓋を叩いて痛い。血流が大袈裟に巡る。頭自体が一本の血管になったみたいだった。


 「嫌になるのも分かるよ。轢いたあの人が憎い気持ちも分かる」


 「乗り越えて行かないと。こんな事は、きっとあの子も望んでいない」


 苦しんでもどうにもならない。こんな事、何の意味もない。でも失った子を、ただの損だと決めつける事は出来ない。私だって人間だから。悲しんでしまうのは、おかしい事ではない筈だから。


 Highballがくぴりと私の喉を鳴らして流れた。夫もつられて、ごくりと喉を鳴らして流す。


 「新しい子供でも作ろう。何か生き甲斐が有れば、きっと頑張れるよ」


 新しい子供と聞いて、私は少し悲しくなった。この言い方は、前の子が旧作の様に聞こえる。まだ私はあの子と決別できていない。


 新しい子供なんて必要ない。あの子以上の良い子なんて、後にも先にも居ては堪らない。




 『何の話してるの〜?』


 無垢に話す息子を見る。どうしてこんな子が無作為に選ばれ、殺されないといけなかったのだろう。


 「貴方が、お母さんとお父さんは好きよって話」


 『そうなの? ありがと〜』


 「えぇ……どういたしまして」


 もうこのまま生きていこうかな。もう実態の有無は関係ない。もういい。もう幸せ。幸福の形は人それぞれだから、狂人なりの幸せがあってもいい筈だ。


 「一体……誰と話してるんだ?」


 夫の心底憐れんだ目が、私を見据える。おままごとをした幼児のようだと、思っているのだろうか。愛する妻はいないと思ったのだろうか。


 「ごめんなさい、ちょっとだけ疲れてたの」


 『? 寝るのお母さん?』


 「休んだ方がいい。本当に、苦労しすぎたんだ」


 「私……そうね、苦労したのかも」


 息子を無視するのは心が痛いが、夫から狂人の烙印を押されるのは嫌だった。息子の死という絶望を、大切に共有した人だったから。




 「もう終わらせる事にする」


 これは、夫の言葉に従ったためだった。


 「あの交差点に行って……いい加減決別する」


 半透明の幻覚が、夜遊びに喜んでいた。







ーーーーーーーーーーーーーーーー







 薄着の合間を縫って、寒さが肌を冷やした。アスファルトに私と夫の影だけが伸びている。半透明の息子の影は、もうすぐ立ち会う交差点で失われてしまった。


 「もう深夜で寒いね。帰りにコンビニで暖かい物でも買おう」


 寒さに震える私を見かねて、夫が話した。カフェオレが飲みたい。


 「うん、肉まんとかも一緒に買いたい」


 『えっ!? 肉まん? やったぁ!』


 心なしか、息子の声が小さい。精神が幻覚の助けはもはや必要ないと、判断したのだろうか。寂しい気もするが、きっとこれが正しい幸福への第一歩なんだろう。


 だが、緩やかに自分が消えていく感覚もあった。息子を失い、その絶望から這い上がる人は立派だと思う。だけど、亡き子を惜しむから「私」じゃないのか。亡き子を惜しまない「私」とは、本当に「私」なんだろうか。




 アスファルトを蹴り進んでいると、そろそろ終点の交差点が見えてきた。電信柱の裾に花束が添えられていて、先程まで暗がりに囚われていたせいか見えなかった。


 信号機の青色が、怪しく白の花束を照らしていた。ただ、照らしているのは花束だけではなく、ある男の顔が青で染まっている。私はその男が、愛息を殺した人間だとすぐに気付いた。


 「あの人……どうしてこんな時間に」


 私は不思議と、この男の人を見ても憎しみが湧かなかった。存在しない息子を悔やんでも仕方が無い気もした。





 男の人の顔は夫よりも皺が深く、私よりも目に隈が見えた。顔の堀に青色が塗られて、病的な絶望を思わせた。どうやら深く反省している。


 男は、その顔面蒼白の白痴のような顔のまま、自然に日常的に車道へ歩いた。


 トラックのクラクションは耳を割りそうだし、ヘッドライトも眩しい。それに写る人影は二つ。私はほぼ反射的にその男を助けようと飛び出していた。


 赤色に光る信号機のピクトグラムが警告を鳴らしている。幻覚が私を引き留めようとするが、もう止まれない。


 アスファルトを蹴り進め、私は彼岸へ飛び出した。




 力一番に男の体を押した。その後信じられない程の衝撃が私を襲った。


 体が押し曲がる。関節による湾曲ではなく、骨を割られて無理矢理関節を増やされる曲がり方をした。


 妙に景色が赤いのは、信号機のせいではない。万華鏡を覗いた風景なのはどうしてだろう。そこで、自分がかつてない速さで回転し続けていると気づいた。頭に血が上り、耳からも血が噴き出る感覚がある。


 駆け寄る幻覚。膝を着き発狂する夫。絶望に絶望を重ねた男。




 痛みは一定を越えると、何も感じなくなるのだろうか。何も痛くない。むしろ血が抜け落ちる感覚が心地良かった。


 『お母さん! お母さん!』


 駆け寄る息子があまりに可哀想で、悲しくなった。そしてこの子を殺したあの男を、どうして自分は助けたのだろうと後悔した。


 あぁ……どうして。あぁ! どうしてこんな男を!!


 先程より絶望する男の顔を見て、私は腹が立った。どうして、もう罰を受けた気になっているのか。この人が絶望するのは、私が罰を与えてからだ。どうして自罰する事で逃げるのか。どうして私が罰する権利を奪うのか。


 私は狂人に戻っていた。いや、狂人を選ぶ事にした。


 私は普通の波には流されない。この子を忘れてなるものか。狂人なりの憎しみを与えてやりたい。


 決して許さない。私は最後まで、あの男から目を離さなかった。


 残り少ない命を、憎しみの炎に焚べるのだ。





ご高覧ありがとうございます。

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