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097.お兄ちゃん、励まされる

 その日は、鬱陶しいくらいに気持ちの良い朝だった。

 陽光がカーテン越しに差し込み、無慈悲に僕の顔を照らす。

 結局ろくに眠ることもできないまま朝を迎えた僕は、眩しさに耐え切れず、けだるげに身体を起こした。

 一晩中、グルグルと回り続ける思考を続けたせいか、身体も頭も自分の物とは思えないほどに重い。

 それでも、部屋でダラダラ過ごしていれば、そのうちにアニエスがやってきてしまう。

 昨日は、フィンと一緒に僕の事を本気で心配してくれた彼女。

 でも、今は、なんとなく彼女に会うのが憚られた。

 「少し散歩してきます」とだけ書いた置手紙を部屋に残した僕は、外着に着替えると、そそくさと寮の外へと出た。

 牧場へと足が向かうわけもなく、手持無沙汰な気持ちであてもなく学園の敷地内を歩いた僕は、いつの間にか、ルイーザの管理する水田までやってきていた。


「ああっ、セレーネ様!! おはようございます!!」

「おはよう。ルイーザさん」


 まだ早朝だというのに、すでに水田の手入れに精を出していたらしいルイーザは、頬に泥をつけつつも、僕に向かって満面の笑みを浮かべた。


「どうしたのですか? 聖女試験があるから、しばらくは休日も一緒にいられないとおっしゃっていたのに」

「え、ええ、まあ……」


 どう答えようかと考えあぐねているうちに、すでにルイーザは嬉し気な顔で、僕のすぐ傍までやってきていた。


「まあ、理由なんてなんでも構いません! こんな朝からセレーネ様にお会いできるなんて、今日はついていますわ!!」


 そういって泥のついた顔でにっかりと笑うルイーザ。

 そんな彼女の姿を見ていると、心の中にある重たいものが、少しだけ軽くなったようだった。


「随分、育ちましたわね」

「ええ、良い調子ですわ!」


 水田には、徐々に黄金に色づき始めた稲の穂が、ところどころ垂れ始めている。

 植えた時期が時期だったので、上手く生育しないかと思っていたが、日当たりが良いこともあってか、思った以上に順調に育っているようだ。


「夏休み中も、寮母の方が世話を代行してくれたおかげで、すくすくと育ってくれました。少し遅いですが、あとひと月もすれば、収穫もできそうですわ。そうしたら、収穫祭をしなくちゃですわね」

「それは、素晴らしいですわね」


 収穫した新米で作った料理尽くしの収穫祭。

 それは、想像するだけで心躍るイベントだった。


「ルイーザさん、せっかくですので、何かお手伝いさせて下さいませ」

「セレーネ様……。わかりました! では、一緒に雑草抜きをお願いしますわ!」


 服の袖を捲り、スカートを短く結んだ僕。

 そのまま靴を脱いで、水を張った田へと足を踏み入れる。

 ひんやりとした泥の感触が気持ち良い。

 ルイーザと一緒になって、僕は無心に田に生えている雑草をひいた。

 元々、ルイーザが丁寧に手入れをしてくれているので、そこまで大量というわけではないが、やはり雑草というのは繁殖力が高い。

 稲と稲の隙間を縫うようにして生えたそれを僕は無言で抜き続けた。

 何も考えず、ただひたすら手を動かす。

 考えたくないことがある今の僕にとって、それは、ある種心地の良い活動だった。


「ふぅ、セレーネ様のおかげで、随分綺麗になりましたわ!」


 あらかたの雑草抜きを終えた僕とルイーザは、水田に水を引く水路で手足を綺麗に洗うと、休憩用に敷いてあるゴザの上で、足を伸ばして座った。


「いえ、いつもご相伴にあずかっているのですから、たまにはお手伝いさせていただかないと」

「セレーネ様のそういう心遣い。本当に嬉しく思いますわ」


 普段通り、僕を持ち上げるかのように、感謝を伝えてくれるルイーザ。

 でも、今日ばかりは、どうにも僕の胸にその姿は堪えた。

 僕は全然たいした人間じゃない。

 トラウマから背を向けて、別の事で気を紛らわせようとするような、そんな弱い人間なのに。

 なんだか、ルイーザに嘘をついているような気分になって、僕は彼女と目を合わせることができなかった。


「セレーネ様、どうかいたしました?」

「いえ、なんでもありません……」


 さっき作業をしていた時は、何も考えずに済んだんだけどな……。

 心臓に鎖が巻き付いているような、そんな重い気持ちを感じながらも、僕はただただ水田の水面を見つめた。

 すると、そこには、小さな波紋が伝播するかのようにいくつも広がっている。

 それは、アメンボ達が移動するときにできる波紋だった。

 よくよく見れば、アメンボだけじゃない。

 水中には小さなエビも泳いでいるし、突き出した穂先にはトンボの姿も見える。

 作業する時はあまり気にしていなかったが、こうやってジッと眺めていると、改めて生き物たちの営みが目に映る。


「……セレーネ様は、いつも視線が低くいらっしゃいますね」

「えっ?」


 僕の視線が、アメンボ達を捉えていることに気づいたのか、ルイーザはそんな風に言った。


「小さな生き物達の事なんて、ほとんどの上位貴族の方々は気にも止めませんが、セレーネ様はそういった些細な事にも気づける広い視野をお持ちです。そこが素敵なのですわ!」

「広い視野、ですか……」

「ええ! それに、泥まみれになっても田植えの手伝いまでして下さいますし!! 私、今でも、時々夢じゃないかと思うんですのよ。公爵令嬢であるセレーネ様が、辺境伯の娘である私なんかと仲良くして下さっているのが……」


 ルイーザは、自分の心の中の大切なものを抱きしめるかのように、両手を胸に添えた。


「いつも、どんな立場の人でも……ううん、たとえ、人ですらなくても、相手の事を慮り、大切にできるセレーネ様の事が、私は大好きですわ!!」


 まるで、告白するかのように幸せそうな顔でそう僕へと伝えるルイーザ。

 その姿は、今の僕にとっては、とてもまぶしく映った。

 もしかしたら、彼女は、僕が落ち込んでいるのに気づいて、こんな風な形で励ましてくれているのかもしれない。

 それを思うと、申し訳なくなる気持ちと同時に、彼女の方こそ僕なんかよりも、よほど他人の事を慮れる素晴らしい人だと感じている僕がいた。

 気づくと、僕は自然と彼女の手を取っていた。


「セ、セレーネ様……!?」

「ありがとう。ルイーザさん」


 真っすぐに彼女の方を見つめる。

 彼女の瞳に映る僕の姿。

 その顔には、もう迷いは見えなかった。


「あなたが素敵だと言ってくれた私であり続けられるよう、私、頑張ってみますわ」


 最後に、にっこりと微笑むと、僕は一礼と共に、その場から駆け出したのだった。

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