096.お兄ちゃん、騎乗する?
「それじゃあ、姉様。乗ってみようか」
「え、ええ……」
クレッセントを前に、ごくりと唾を飲み込む僕。
馬への乗り方は知っている。
それはもう何年も前に、父から教えられたことだった。
思い出すように、僕はゆっくりと馬の左側に立つと、手綱をグッと引いた。
そして、左足で鐙を踏み、勢いをつけて身体を馬上へと持ち上げた。
そのまま逆側の鐙を右足でしっかり踏み込み、膝を絞めて、状態を安定させる。
「なんだ、姉様。上手じゃない」
実際、ここまでは問題ない。
小さい頃に父の手を借りながらも、何度もやったことだ。
問題はここから。
「じゃあ、僕がロープを持っておくから、ぐるりと馬場を一周歩いてみようか」
「わ、わかりましたわ……」
緊張しつつも、やり方は身体が覚えている。
大丈夫。僕はできる。
あの頃は、それこそ特技だと胸を張れるくらい乗りこなせたんだから。
「い、いきます……!」
足でクレッセントの腹部を圧迫すると、それを合図に彼女はゆっくりと歩き出した。
緊張した僕に気を使ってくれてるのか、かなりゆっくりのペースだ。
身体の揺れも少なく、バランスを取るのも全く難しくない。
「いいよ。姉様。上手上手!!」
「は、ははっ……!」
なんだ、案外やれるじゃないか。
よし、これなら、もう少しスピードを上げても……。
そう思って、わずかに手綱を引いた瞬間だった。
──ドクン
「うっ……!?」
心臓に違和感を感じ、僕は思わず歯を食いしばる。
これは……。
「はぁはぁはぁはぁ……」
早鐘を打つように鼓動が早くなる。
流れていく周囲の景色。
それが"あの日"の光景へと変わる。
それは前世で見た最後の記憶。
寒風が吹きすさぶ冬の街を妹を後ろに乗せ、自転車で駆け抜ける僕。
目指すゲームショップが目前まで迫ったその時、凍結した路面にタイヤを滑らせた僕は──
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
その瞬間をフラッシュバックした僕は、馬上で意識を完全に手放していた。
「──様!! 姉様!!」
耳朶を打つ声。
ゆっくりと目を開くと、そこには心配そうに僕を覗き込むフィンの顔があった。
「あれ……私……?」
と、未だぼんやりとする思考を刺激するかの如く、フィンが僕の身体を力いっぱい抱きしめた。
「フィ、フィン……」
「良かった!! 姉様……目を覚ましてくれて、本当に……!!」
「え、えっと……」
わずかに視線をずらせば、すぐそばではクレッセントもこちらを何事かと伺っている。
そうだ。僕は確か、あの馬に乗って……。
「あっ……」
そっか、やっぱり僕、あの時と同じように……。
「と、とにかく、お医者様に診てもらおう。ほら!!」
「え、ええ、って、フィン……!?」
僕をお姫様抱っこしたフィンは、ふぬぬと苦悶の表情を浮かべつつも、必死に走り出したのだった。
「やっぱり、無理だったな……」
寮の部屋の中、僕は窓際から、2つの月を眺めていた。
悩み事があると、ついつい月を見てしまう。
特に、妹や前世の事を思い出している時は、なおさらだ。
あの後、フィンに病院へと連れられていった僕だったが、もちろん特に身体に異常はなかった。
当然だ。これは、身体的な病理ではなく、精神的外傷のようなものなのだから。
僕のトラウマ、それは、前世での"死"のビジョンそのものだった。
前世の僕は、自転車の二人乗りをした状態で、トラックに撥ねられて死んだ。
その時の光景は、僕の脳裏に……いや、魂にどうやら刻み込まれてしまっているらしい。
そのせいで、2年前のとある休日、僕が父と遠乗りに出かけた日にも、同じように意識を失った。
どうやら自転車のように、身体を外に晒して乗る乗り物に乗った時に、僕はこんな風になってしまうようだ。
馬車での移動など、自分が運転していなかったり、進行方向の景色を意識しなくて良い乗り物なら大丈夫なのだが、乗っている時の感覚がわずかでも自転車に似ているものは、ダメなようだった。
妹に試験の内容を聞いてから、克服しようと思ったことはあった。
でも、結局、僕は"死"のビジョンという恐怖から逃れることはできなかったのだ。
「こればっかりは……どうにも……」
心が完全に委縮していた。
おそらく、この世に、僕と同じようなトラウマを持っている人はいないだろう。
なぜなら、実際に死んだ人は、現世にいるはずがないからだ。
妹にも相談こそしてみたが、彼女自身は、後ろに乗っているだけだった影響か、まったくそんなフラッシュバックはないらしく、助言を貰う事はできなかった。
頼れる人もいない中で、まともに乗馬ができるようになれるはずもない。
なにより、すでに、心が再び馬に乗ることを全力で拒んでいた。
諦め……そんな言葉が、頭によぎる。
「そうだよな。別に、この勝負を落としたって、3つ目と4つ目の試験に勝利すれば良いだけだし」
厳しくはなるが、必ずしもこの勝負を勝たなくても良いわけじゃない。
不戦敗でもいいじゃないか。
その分、他の勝負を頑張れば。
ベッドに潜ってからも、自分に言い訳をするように、僕はずっと諦めても良い理由を並べ立て続けていた。
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