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086.お兄ちゃん、褐色王子に迫られる

「ふぅ、なんだか、魔法にかかった気分ですわ」


 踊り疲れて客席へと降りた僕らは、一つのテーブルを囲み、人心地ついていた。


「ははっ、お嬢様方にとっちゃ、初めての経験だろな」


 まさに、その通りだ。

 踊り子の衣装を着て踊るのも、こうやって劇場でテーブルを囲んでわいわい話すのも、何もかもが新鮮な経験だった。

 "パリピ"とはちょっと違うが、初めて出会う人達からも踊りを褒められたり、飲み物や食べ物を分けてもらったりと、貴族の令嬢としてはとても体験できなかったであろうことを今僕は体験していた。

 陽キャの優愛も部活の友達とよくどんちゃん騒ぎに行っていたが、こんな感じだったのかな。


「少し喉が渇きましたわ」

「お嬢様、今水をお持ちします」

「いえ、アニエスは座っていて。自分で取りに行きますので」


 妹は真逆の陰キャとしては、少し一人になりたい気持ちもあって、僕はそそくさと劇場のラウンジの方へと歩いて行った。

 酒類を振舞っている踊り子姿の女性から水の入ったコップを受け取ると、僕はラウンジの脇でそれをグイっと煽った。

 良く冷えている。

 喉を滑るひんやりとした感覚に、身体の火照りが少しずつ治まってくるようだ。


「少しは、落ち着けたか?」

「あっ、アミール様」


 壁に身を預けて、少しばかりまどろんでいると、やってきたのはアミールだった。


「どうかしましたの?」

「いや、お嬢様と二人っきりになりたかっただけさ」


 そう言って、アミールは僕の手を取った。


「えっ、ちょ……?」

「良い場所があるんだ。黙ってついてきな」


 そんな風に小走りで連れて来られた先は、劇場の裏手にある海辺の道だった。

 大河を挟んだ対岸にも街の灯りが見渡せるそこには、ポツンと一脚のベンチがあり、彼はそこに僕を座らせた。

 そして、自身もその隣に座る。


「え、えーと……」

「夜風が気持ち良いだろ?」

「あ、はい……」


 彼の言葉に、僕は目を細めると頬で風を感じる。

 少し塩気を含んだ港の風は、まだ熱を持った肌を優しく冷ましてくれる。

 夜空にはいつしか、紅と碧、2つの月が浮かんでいた。

 どことなく幻想的な雰囲気の中で、アミールはおもむろに笛を取り出した。

 そして、ゆっくりと音を奏でる。

 それは最初に会った時にも聴かせてくれた、この乙女ゲームのメインテーマ。

 この世界の中では、彼が作曲したということになっている、あの曲だった。

 心地よいメロディーが海風に溶けていく。

 いつしか目を瞑った僕は、波音と共に、そのメロディーにただただ耳を傾けていた。

 やがて、曲が終わる。

 ゆっくりと目を開いた僕の目の前で、アミールは月の浮かぶ夜空を見上げていた。


「夢が一つ叶ったな」

「えっ、夢……?」

「ああ」


 クルクルと笛を回し、腰にそれを納めたアミールは、ゆっくりと僕の方へその整った顔を向ける。


「いつかここで、好きな女に自分の作った曲を聴かせるって夢がな」

「好きな女って……誰にでも言ってそうですわね」


 でも、妹の話では、アミールは女好きで、学園でも女子のお尻ばっかり追いかけていたそうなのだが、ほとんどそんなそぶりないんだよな。

 もしかして、本当に僕の事好きだったりして。いや、まさかね。


「見た目ほど軽薄じゃないんだぜ、俺は」

「そういうことにしておきますわ」


 茶化すようにそう答えると、彼は「信じてねぇな」と嘯きながらも、うっすらと笑顔で息を吐いた。

 わずかばかり沈黙の時間が過ぎる。

 でも、なぜか、その沈黙は嫌な沈黙じゃなかった。

 ゆっくりと時が過ぎる。

 やがて、彼はおもむろに口を開いた。


「なあ、劇団の件、覚えてるか?」

「え? あ、はい……」


 彼が学内で作っている劇団。

 確か、その劇団で主演をやって欲しいとか言われていたんだっけ。

 いろんなことがありすぎて、正直、今の今まで忘れていた。


「夏休みが終わって、ふた月もあれば、ようやく体制が整う。そしたら、改めてお嬢様を誘いたい」

「え、その……」


 劇団へのお誘い。それは、本来、ルーナが受けるべきものだったはずだ。

 それがなぜだか、僕に置き換わっている。


「なんで、私ですの?」

「前も言っただろ? 俺は、お嬢様の見た目と歌声に惚れ込んでる」


 そうだ。ゲームの本筋からずれてしまったのは、あの2年前の夏の日。

 あの日アミールに出会い、僕の歌声が気に入られてしまったことで、彼はルーナへの関心を失ってしまった。


「私なんかよりも、ルーナちゃんの方がずっと素敵な声をしていますわよ。見た目だって、彼女の方が」

「はぁ、冗談だろ? あの娘も確かに可愛いかもしれねぇが、お前の方がよっぽど……」

「それは、ルーナちゃんの事をよく知らないからですわ。彼女は私なんかよりも、ずっと素敵な女の子なんですから」

「ああ、もう、本当にあんたは……」


 必死にルーナの良さをアピールしようとしていると、彼は乱暴に自分の頭を掻いた。


「もういい。めんどくせぇ」

「えっ?」


 気づけば、彼の指が僕の顎に触れていた。

 瞬間、あの夏の日を思い出す。

 あの時、アミールは僕の声を気に入り、身体が自然と動いたかのように僕の唇に触れていた。

 でも、今はどうだろう。

 あの頃よりも、随分と大人っぽくなった彼の視線は、どことなく熱を帯びているようにも見える。

 どこか心まで見透かすようなその漆黒の瞳を見ていると、なんだか吸い込まれそうな、そんな気さえしてくる。


「その……アミール様……?」

「俺が欲しいのはお前だ。でも、言ってわからねぇなら」


 乱暴にそう言い放つと、ゆっくりと彼の端正な顔が近づいてくる。

 男性とは思えないほどに整った唇が、妙に艶めかしく映る。

 明らかにキスしようとしている……いや、でも、あの2年前の時だって、それは勘違いで……。

 思考が纏まらないうちにも、彼の唇は、もうすぐ僕のそれと触れ合いそうなほどに近づいていた。

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