029.お兄ちゃん、歌を歌う
初めて唇を奪われるかもしれない。
そんな状況に、この少女の身体が反応してしまったのかもしれない。
ドキドキと胸を震わせるうちに、彼の指が唇に触れた。
ああ、ダメだ。
力が抜ける。
なんで……。
「お前……」
熱っぽい吐息と共に、彼はこう言った。
「……良い声してんな」
「…………はい?」
いつの間にか閉じていた瞳を開くと、彼は惚れ惚れするように僕の口元を見つめていた。
「見た目も綺麗だが、声が良い。好きな声だ」
「え、えっと……ありがとう……」
なんとなくホッとしつつ、そう返す。
いや、そうだよな。
初対面の少女に、いきなりキスする男なんているわけないだろ。
完全に頭少女漫画になってた。
ちょっと自分の感覚に不安を覚える。
精神が身体に引っ張られてきている気がする。
いかんいかん、僕は男。双子のお兄ちゃんだ。しっかりしないと。
「なあ、お前、歌は得意か?」
「いえ、声楽はあまり嗜んだ覚えが……」
「手毬唄くらいなら歌えるだろう?」
そういうと、彼は再び、笛をクルクルと回して構えた。
「俺が伴奏する。ほら」
「え、えっ!?」
有無を言わさぬ勢いで、笛を奏で始めるハンス少年。
それは、さっきまでのゲームのメインタイトルとは違う、碧の国では至極一般的な手毬唄だった。
幼少期に口ずさんだ記憶のあるそれならば、確かに歌うことはできる。
躊躇する僕を促すように、彼はウインクをしてみせた。
えーい、ままよ。
「ラララ~♪」
彼のメロディーに合わせて、歌を歌う。
ところどころ忘れているところはあったが、その辺りは、雰囲気で誤魔化す。
ひとしきり歌い終わった頃には、気恥ずかしさもあってか、顔が火照っていた。
「やっぱり、良い声だな」
演奏を終えたハンスは、にっこりと微笑むと、僕の頬に再び触れた。
「それに歌も上手い。なあ、セリィ。お前、将来うちに嫁に来いよ」
「は、はいっ!?」
いきなりのプロポーズに、自然と口から驚きの声が漏れた。
「ははっ、冗談だって。でも、お前を気に入ったのは本当だ」
再び熱っぽい視線。
「だから、また、俺と──」
「姉様!!」
突然背後から声が聞こえた。フィンだ。
「おっと、どうやら、そろそろおいとました方が良さそうだな」
「え、ハンス」
「それじゃあな。セリィ……いや、セレーネお嬢様」
えっ、この人、僕の事を……?
「はぁはぁ、姉様。さっきの人は?」
「えっと、彼は、たまたまここで会って、笛の演奏を聴かせてもらっていたの」
「そうなの? やけに距離が近かったから、僕、てっきり……」
てっきりどう思ったのだろうか。
なんとなく、聞けず仕舞いのまま、僕らは屋敷へと戻ることになった。
屋敷へと帰る道中も、僕の頭は、あのハンスと名乗った少年の事でいっぱいだった。
彼は、僕の事を知っていた。
いったい彼は何者なのだろうか。
悶々とする思考の中、いつしか僕はフィンの肩に頭を預けて、眠りについていたのだった。
まさか、こんなところで、公爵家のお嬢様に出会うとは思わなかった。
セレーネ・ファンネル。
去年の茶会で、遠目に少しだけ見たことがあるが、今日会った彼女はグッと大人っぽくなっていた。
正直、好みの見た目だ。
その上、声が良い。
溌溂とした中にも、愁いのようなものを帯びた不思議と響く声。
舞台役者のように、耳に残る声だ。
素直に、欲しいと思った。
彼女には才能がある。
「身分が高すぎるのが問題だがな」
だが、それも、近しい間柄になれば、越えられない壁ではないはずだ。
そして、そういう間柄になるのに、まったく抵抗を感じないほどに、彼女は魅力的な女性だった。
「俺の女にしてぇ」
頬に触れた指先を眺めつつ、そのきめ細かな感触を思い出す。
俺は、欲しいものは何でも手に入れる主義だ。
障害は大きいだろうが、一度決めてしまったことを折るつもりはない。
だから、育て親の元へと戻った俺は、開口一番にこう言った。
「アルビオンの学園に入学したい」
白の国、アルビオン。
大陸のバランスを取っているこの国には、全ての国の高貴な者が集まって学ぶ学園が存在する。
公爵令嬢であるセレーネは、必ずその学園に通うはずだ。
「どうしたんだ。お前、芸事の邪魔になるから、学園には入学しないと言っていたじゃないか」
「ちょっと心境の変化があってね」
学園には4年間在学できる。
4年もあれば、セレーネと親しくなるには十分な時間だ。
「欲しいものがあるんだ」
グッと拳を握る。
こんなに胸が高鳴ったのはいつぶりだろうか。
彼女が演じるべき役割は、王妃でも、ましてや聖女なんかでもない。
「"歌姫"セレーネ・ファンネル。悪くない響きだ」
望む未来を手に入れるため、俺は、その愛しき歌声を頭の中に響かせるのだった。
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