178.お兄ちゃん、安堵する
正直、もうダメかと思っていた。
まるで少しずつ命を削り取るかのように魔力を吸っていく腕輪。
それに加えて、僕の女性としての大切なものを奪おうとしてくるカードの男。
2つの恐怖心から、僕のストレスはもはや限界を超えようとしていた。
逃げたくても、身体は動かず、叫びたくても、声すら出ない。
なまじ護身術を学んでいたがゆえに、どんな状況になっても大丈夫だと、根拠のない自信を持っていた。
だが、こういう状況になって、僕は初めて思い知らされた。
自分がただの非力な少女だということに。
「セレーネ!!」
レオンハルトの声が聞こえた瞬間、どれだけ安堵したかわからない。
その姿を見た時は、それこそすぐに彼の元へと走っていきたいくらいだった。
けれど、魔力を吸われ続け、ろくに動くことすらできない僕に対して、カードの男はあろうことか大切なものを奪おうとしてきた。
僕の唇を。
キスくらいなんてことない。
前世の僕であれば、それくらいの感覚だったのかもしれない。
でも、今は違った。
まだ、誰にも捧げていない僕の大切なファーストキス。
それをこんな奴に奪われるのが、嫌で嫌で仕方なく感じていたのだ。
身を捩り、必死に顔を逸らそうとするけど、強引に顔を男の方へと向けられた僕。
欲望を丸出しにしたようなその顔に、僕はこれまでで一番の恐怖を抱いた。
同時に、頭の中に、まるで走馬灯のように色々な思い出が浮かんだ。
フィンと、アミールと、エリアスと。
これまでも、誰かと唇を重ねてしまうのではないかと思える時はあった。
でも、その時は、今感じているような嫌悪感や恐怖を感じることはなかった。
胸がドキドキして、全てを委ねてしまうような、そんな気持ちさえした。
それは、この世界の強制力なのかもしれなかったが、少なくとも、彼らには、僕を大切に扱おうという心遣いがあった。
だから、僕は強制力なんて関係なくても、彼らを受け入れていたのかもしれない。
それくらい、僕の本質は、もう……。
ほんのあとわずかの距離で、重なってしまいそうな唇。
それを意識した瞬間、僕は最後の力で抵抗した。
動かない身体を必死で逸らし、少しでも顔を離そうと首をひねる。
それは、男の腕力からしてみれば、ほんの些細な抵抗だったかもしれない。
それでも、そのわずかばかり稼いだ時間は、レオンハルトにとって攻撃するに足る一瞬だった。
剣を投げるという方法で、男のこめかみを打ち抜いた彼に、僕は抱きしめられた。
温かく、逞しい感触。
彼の優しさそのものに包まれているような感覚に安堵した僕の瞳から、自然と涙があふれた。
嗚咽混じりに、彼の名を呼び、泣きじゃくる僕。
元男だとは思えないほど、とても情けない姿だったように思う。
でも、それをわかっていながら、それでも、僕は助けに来てくれた彼の前で、そうふるまうことしかできなかった。
やがて、少し落ち着いた頃、彼は僕の身体を優しく持ち上げた。
いわゆるお姫様だっこというやつ。
軽々と僕を持ち上げた彼は、小屋を後にする。
「帰ろう、セレーネ。アニエスも待っている」
「アニエス……」
そうだ。アニエスは……。
「大丈夫。あいつは勝ったよ。そして、俺にお前の救出を託してくれた」
それを聞いて、僕はホッとした。
もし彼女に何かあったらと思うと、僕は……。
アニエスの無事を喜ぶ僕の元へと、クレッセントがやってくる。
そうだ。彼女のおかげで、僕は今こうやって無事でいられる。
「ありがとう。クレッセント」
心からの感謝を込めて頭を撫でると、彼女は嬉しそうに喉を鳴らした。
でも、そう言えば……。
「レオンハルト様。剣戦は……」
「ああ、別にいい」
「もしかして……」
彼は、決勝戦を投げ出してまで、僕を助けに来てくれたということ。
「わ、わた……ごめ……」
言葉にならず、僕は彼へと泣きそうな視線を向けてしまった。
レオンハルトは、剣戦に賭けていた。
あの騎士団長にも勝利した彼は、この決勝で勝てば、名実ともに最強の称号を得られるはずだった。
そして、彼がそれを得るために、これまでにどれだけの努力を積んできたのかも、僕は知っている。
そんな彼の晴れの舞台を、僕の不用意な行動が台無しにしてしまった。
謝罪の方法も見つからず、ただただ目を伏せる僕に、彼はあまりにも優しい声色で語り掛ける。
「いいんだ。俺にとって、お前が笑顔でいてくれる事こそが、剣戦で勝つことよりもずっと大切な事だ」
そして、彼は僕へと笑いかけた。
「だから、謝らないでくれ。それよりも、笑顔を見せてくれないか。お前の笑顔を」
何でもないようにそう言うレオンハルト。
そんな彼の心遣いに、自然と僕は彼の首元へと回した腕にわずかに力を籠めた。
そして……。
「ありがとう。レオンハルト様」
今できる精一杯の笑顔で、僕は彼へと感謝の言葉を伝えたのだった。
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