146.お兄ちゃん、狼に出会う
それは、宿場町まであともう半刻ほどまで来ていた森の中での出来事だった。
「止まって下さい!」
「えっ!?」
先頭を走るアニエスが馬を止めた。
それに倣って、僕とレオンハルトもストップする。
「何かいます」
その言葉の通り、前方に目を凝らすと、何か黒い塊のようなものが道の真ん中で蠢いていた。
遠くてよくわからないが、そいつはギラリと目を光らせ、こちらへと向かって来る。
「もしかして、魔物……?」
「お嬢様はそのままで、私が……」
「いや、アニエス。ここは俺に任せろ」
そう言った時には、すでにレオンハルトはシルバーから降り、僕らの馬の前に立っていた。
「はぐれ魔物だろう。以前相手にしたことがある」
「……わかりました。私は、セレーネ様のお傍に」
「ああ」
振り返らず、そのままカツカツと靴を鳴らしながら、レオンハルトは魔物へと真っすぐに歩いていく。
彼我の距離が狭まってくると、魔物がその身を低く構えた。
どうやら、狼のような姿をしているようだ。
そいつは、天に向かって一度咆哮すると、大地を強く蹴った。
俊敏な動きで、レオンハルトの側面へと回り込んだ魔物。
そのまま首根っこを噛み切ろうと、そのギラギラと光る牙を生やした口を大きく開いた。
だが……。
「やはり雑魚か」
飛び掛かって来るその攻撃を紙一重で避ける。
瞳は閉じられ、まるで余裕の表情だ。
今の攻撃、僕だったら、あんな風に避けるなんてとても出来なさそうだけど……。
攻撃を外した魔物は、それでも強引に地面を蹴って身体を反転させ、またレオンハルトへと飛び掛かる。
そんな魔物をレオンハルトは、剣で一閃……するまでもなく、拳で殴り飛ばした。
アッパーカットの要領で繰り出された拳。
魔物は高々と空中へと吹き飛ばされると、やがて、ゴミのように地面に叩きつけられた。
「お見事です。レオンハルト様」
「この程度では修練にもならんな」
軽く手首を振るレオンハルト。
剣を振るうまでもなく、魔物を一蹴……いや、一殴したその姿に、冬場だというのに額から汗がタラリと流れた。
やっぱこの人規格外すぎるのでは……。
ストイックな人に安易に筋トレ勧めるとこんなことになるんだなぁ。
ってか、もう剣戦優勝間違いなし?
僕はぼろ雑巾のようになった魔物に目を向ける。
すると、その身体は黒い瘴気となって朽ちていった。
どうやら、もぐぴーのように動物が魔物化したものではなく、元々からして魔物だったようだ。
うーん、しかし、やっぱりいるもんなんだなぁ、魔物って。
「無駄な時間を使ってしまったな。もう宿場町は近い。さっさと行くとしよう」
「はい」
そうして、魔物退治を終えた僕達は、ほどなく宿場町へと辿り着いた。
小さな町だが、街道の途中にあるだけあって、必要な設備はほぼほぼ揃っている。
レオンハルトは慣れたものらしく、町中の厩舎にシルバー達を預けると、そのまま一番大きな宿へと直行し、自分用と僕&アニエス用の2部屋を無事確保した。
「なんだか、随分手慣れていらっしゃいますわね」
「王族とはいえ、紅の国では武者修行なんかも普通にするからな。俺もこれまでに何度かな」
はぁ、なんというか、本当に武の国なんだなぁ。
しかし、予想以上に頼りがいのあるレオンハルトを尊敬の目で見てしまうな。
「お前はこんな風に旅をするのは初めてだろう?」
「ええ」
今までは、旅と言っても御者付きの馬車か、あるいは父に連れられての船旅ばかりだったからなぁ。
「初めてついでに、どうだ? もうすぐ夜だしな」
「えっ……?」
陽はすでに落ちてきており、間もなく時刻は夜を告げる。
夜……初めて……いや、まさか……。
想像した瞬間、頭が完全に茹った。
え、え、マジで言ってる……?
「レオンハルト様、それはさすがに……」
アニエスが、少しだけ慌てた様子で止めに入った。
その反応が僕の考えを確信に変える。
いや、たしかにレオンハルトと僕は、正式に婚約を結んでいる仲ではあるが、それは僕が聖女になった場合は解消される不確実なものだ。
それに、彼の性格上、婚前にそんなこと言い出すなんてあり得ないと思っていたのだが……。
ど、どう断ろうか……!?
「別にいいだろう? 何事も経験だ」
「確かに、紅の国では一般的かもしれませんが……」
えっ? そうなの!?
いや、でも、アニエスもいるんだぞ。
もしかして、従者に見られながらとか、そういう……。
「レ、レオンハルト様!! わ、私は、その……!!」
「緊張する必要はない」
僕の肩に手を置いたレオンハルトは、あまりにも落ち着いた表情で僕の瞳を見つめた。
そして、ウィスパーボイスで呟く。
「俺が、優しく教えてやる」
ああ、前世のお母さん、お父さん。
そして、今世のお父様。
僕は今日、本当の意味で、女性になってしまうかもしれません。
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