117.お兄ちゃん、寝顔に動揺する
「ルカード様……」
僕の膝の上で眠るルカード様。
あまりにも無防備なその寝顔に、不意打ちのように僕の中にあった母性のようなものがキュンと高鳴った。
えっ、何、この安心しきった表情……。
普段の温和で大人びた表情とはまるで違って、さながら母親と一緒に眠る小さな子どものようだ。
なんだか保護者になった気分で、僕はルカード様の頭を優しく梳いた。
髪色こそ緑だが、以前と変わらぬサラサラとした感触が手に心地よい。
その瞬間、わずかに身動ぎしたルカード様が、何かが遠くに行くのを拒むように僕の制服の裾を掴んだ。
「……ママ」
「!?」
余りにも舌ったらずなその言葉。
え、え、本当にルカード様が言ったの、今?
信じられず愕然としていると、ルカード様は子どものように身を縮こまらせた。
安らかだった顔が不安げにゆがむ。
どこにも行かないと意思表示するように、彼の髪を撫でると、ルカード様は安心したように再び表情を緩めた。
「…………」
もしかしたら、この寝顔がルカード様の本当の姿なのかもしれない。
張り詰めた環境で、ずっと大人の仮面をかぶってきたルカード様だけど、心の中には誰かに甘えたい気持ちがあったのだろう。
両親がおらず、誰かに甘えたくても、甘えられなかったルカード様。
そんな彼の心の内を垣間見てしまったような気がして、少し申し訳ない気持ちになると同時に、その心の隙間をわずかでも埋めてあげられないかと僕は思い始めていた。
「……んっ……」
わずかに目を開いた時、そこに映ったのは美しい人だった。
暗闇の中、天から降り注ぐ柔らかな光に包まれた桃色の髪の麗人。
穏やかな表情で私を見るその瞳を見ていると、幼い頃に母にそうしてもらった時の事を思い出す。
孤児になる前、ほんのわずかだけの母親との記憶。
くたびれた小さなベッドの上で、母の腕の中で眠るのが私は大好きだった。
あまりにもあっけなく失われてしまったその安らかな時間。
もう二度とあの時の安らかな気持ちを感じることはできないと思っていた。
でも、それは違った。
1度目は、2年前のあの日。
聖女候補となったまだ年端もいかない少女が与えてくれたほんのひと時の安らぎ。
そして2度目は──
「……セレーネ様」
半分だけ覚醒した頭でそこまで考えた時、ようやく私は目の前の美しい女性の事を認識できた。
セレーネ・ファンネル。
件の聖女候補であり、私に久方ぶりの安らぎを与えてくれた女の子。
どうやら、私は、またこの年下の少女の膝で眠りに落ちてしまっていたらしい。
慌てて頭を持ち上げ、身体を起こす。
周囲を見回すと、辺りはもうすっかり夜で、魔力灯の光だけが僕らの座る小さなベンチを照らしていた。
「すみません。どうやら、また……」
「全然構いませんよ。ルカード様」
本当になんでもないことのようにニッコリと笑う彼女。
陽が落ち、周りに人の姿もなくなったためか、髪色が普段の牡丹色に戻っている。
暖色系の魔力灯の光に照らされた彼女の姿は、はじまりの聖女に神託を授けたとされる女神様のように美しかった。
ドキリと、心臓が高鳴る。
2年前はまだ幼いと言って差し支えないくらいだった彼女。
それが、ほんの2年の間にすっかり成長してしまった。
はじめて彼女と出会った、あの魔力解放の儀の時から美しい少女だとは思っていた。
しかし、今はただ美しいだけではない"何か"が彼女の内からあふれ出ているようにさえ感じる。
「少しは疲れが取れましたか?」
「はい、それはもう」
言われて、本当に身体の疲れがすっかり取れていることに気づく。
ここ数日は次の聖女試験の準備の件もあって、かなりバタバタと忙しくしており、心安まる暇もなかった。
肉体的な疲れもそうだが、精神的な疲れも知らず知らずのうちに随分溜まっていたのだろう。
それがすっかりと溶かされ、驚くほどに心も身体も軽くなっている。
白の魔力の持つ、癒しの力が働いたのだろうか……?
「驚くほど快調です」
「それは良かったですわ。でも、だからといって、また無理はなさらないでくださいませ」
メッと指を出してそう言うセレーネ様の姿に苦笑する。
「まるで母親のようですね」
「えっ? それはその……。こ、こんな若い娘に言う台詞ではありませんわよ」
なぜだか、何かを誤魔化すようにそう言う彼女。
不快な気持ちにさせてしまっただろうか。
謝罪をしようとしたが、その前に彼女がフッと視線を湖の方へと向けた。
湖面には2つの月の姿が落ち、紅く、碧く煌いている。
それを見つめる彼女の表情があまりに大人びていて、私は謝罪の言葉を述べようとした口を開いたまま、思わずぽかんと彼女の横顔を見つめてしまった。
そして、彼女は口を開く。
「でも、ルカード様がお望みでしたら、学友でも、母親でも、どんな役割でもやってみせますわよ」
「それは、その……」
半分は冗談めかした言葉だったが、一瞬真剣に捉えてしまった私は、広がった妄想と共に、自分の中にある不思議な感情に気づいた。
それに気づくにつけ、頬が自然と熱くなっていく。
自分は彼女に対して、2つの感情を抱いていた。
そのどちらともが、5つも年下の少女……ましてや、聖女候補でもある彼女に抱くには、あまりにもふさわしくないものだ。
心の中で、ブンブンと頭を振り、甘美な想像を霧散させる。
ダメだ。何を考えているんだ、自分は。
いつもしてきたように、笑顔で……笑顔で……。
「と言っても、毎日というわけにはいきませんけど。たまにでしたら、今日みたいにこうやって……ルカード様?」
言葉を切った彼女。
こちらを見つめるその美しい瞳には、私の顔が映っている。
そして、そのどこかいびつな笑みを浮かべた口が、ゆっくりと開いた。
「……ぜ、是非、お願いします」
ああ、女神様。
私は、聖職者失格かもしれません。
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