連載第八回
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僕の家があるこの市は、県庁所在地の南隣という地の利もあり、**台という名の新興住宅地が数多くあった。どちらかと言うと東西に長いこの市は、前にも言ったけど、市の中では東方向にある2両編成コトコト電車が走るJRの駅と、そこからやや離れてその駅が終点になっているある私鉄の駅を中心として文化遺産がたくさんあり、そして市役所をはじめとする公共の施設もたいていはそっちの駅の方が近い。歴史的に見れば、JRはそういう需要の多いところをつなぐようにして作られているのだから、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
例の塾長をはじめとして、受講生の連中もまるでその路線を使えるのは特権階級の証とでも言いたげに使っていたあの私鉄は、もともとこの県の県庁所在地と南の県の県庁所在地を結ぶのに特化していて、間は田んぼの真ん中を突っ切っているので速いのは当たり前だ。だから僕の住むこの市にも駅はいくつかあったが、その駅の周辺は開けたのもごく最近で、沿線にはいかにもブルーカラーの働く場です、というような会社が多くて、住人もどこか柄が悪かった。まぁ、父の会社はその辺なんだけど。この市は東西の移動手段が極めて乏しく、1時間に2本ぐらい来るはずの、細い道を無理矢理通っているのでダイヤが全く当てにならないバスが2路線程度あるだけだった。だから父は雨でも風でも原付で通勤していた。
僕が中学生のころ一緒だった野川とか黒崎が住んでいる住宅地に文化センターがあるんだけど、その住宅地も名前は**台だ。広いけど、バス通りの片側に広がっていて、そのバス通りにあるバス停ひとつだけが公共交通機関、自家用車がないと暮らせないようなものだから、住宅地としての人気は今ひとつらしい。
僕が住んでいるこの住宅地も**台、という名前だけど、開発を主導したのは私鉄の子会社だ。JRの駅からちょっと離れたところにあると言ったその終着駅を持っている私鉄だ。この市の中を走る路線バスもほとんどグループ会社になるので、僕の住んでいる住宅地の中はバスが一周する。うちの両親とつながりができてこの住宅地を勧めてくれた親会社のエライさんというのは実はこの私鉄の経営陣のひとりだ。引っ越しに向けてうちの両親の背中を押したひとりということになるのだろうけど、この人は詐欺師ではない。親切なだけだ。バスが一周し、幹線道路2路線へのアクセスがよく、ショッピングできる場所へも黒崎たちが住んでいるあっちより行きやすいこの住宅地は人気が高く値段は順調に上がってるらしい。
実は近くに、もうひとつ**台の名を持つ住宅地がある。ここは狭いし、専用のバス停もない。住宅地としてはすごく不人気で、建っている住宅もなんとなく狭くて安っぽく、せっかくの新興住宅地なのに贅沢感がない。道路らしい道路が真ん中を突っ切っているけど、その通り沿いには職安があるのが目立つぐらいで、店のたぐいも公共施設のたぐいも何もないに等しい。
その道路を行けるところまで行ってみると、突然ブツッと道が終わっていて、そこからは眼下に2両編成の電車が走る線路が見え、ちょっと離れたところに目をやるとこの市の中央郵便局が見える。その道路を挟んで向かい側に不人気なアメリカの大学の日本校があり、キャンパスだけはやたらに広くてきれいだ。
そのキャンパスが見えるところからは、そこまで来ている太い道を戻る以外の行き先があるとすれば、僕が出所したあの中学のちょうど裏手くらいに出る細い道があるだけだ。そこから先はふたつに分かれて、中学の正門の方に行く道があり、もう1本はさらに細い道になって線路の方へ続いている。ここに小さい踏切がある。狭いこの踏切を通ったら中央郵便局の横手ぐらいに出るので、必要なときには僕はその道を通って中央郵便局に行くようになった。
それにしても、この幅の道がブツッと途切れているのは全く趣旨が不明だ。延長するにしても郵便局前を通る割と幅の広い通りに合流できることぐらいが関の山だ。仮にそれをするにしても、かなり大規模な陸橋工事が必要だろう。そこまでして郵便局前の道路に接続させても利益はないので、壮大な計画だけがあって、頓挫した夢の残骸がこの状態なんだろうな。
そのころ、その大学日本支部校は不人気が祟って廃校するんじゃないかという噂が流れ始めていた。度々、その途中でちょん切られたような道路からキャンパスを眺めていたが、広いことは広い。全体的に白い大理石作りで、きれいと言えばきれいだ。多分偽物の大理石だとは思うが。それにしても、贅沢に土地を使ってる。高い建物がなくほぼ真っ平らだ。
一応、日本ではよく名前を知られた会社で、会社で制作する毎年のカレンダーに起用されるモデルが話題になるいくつかの会社の中のひとつレベルには大会社である会社が主力工場を置いていた場所だからそりゃまぁ広大な敷地だけど、それだけの土地をまるごと買い取ってこんな贅沢な土地の使い方をしたキャンパスにして、日本では大学を出た扱いにならない大学を作ろうなんて、ビジネスに厳しいアメリカ人にしては甘い見通しのビジネスをやったもんだ。このころにはもう水面下で土地の買い主を探しているなんていう情報も流れ始めていた。
不便だが街の中心駅であるJRの駅と、そこからちょっと離れた私鉄の駅は、街の中心駅でありながらどちらにもバスロータリーがない。バスの通り道で言うとこのふたつの駅は同じ路線のバスが通るんだが、僕の家からバスに乗るとまずJRの駅に停まり、ふたつほどのバス停を挟んで私鉄の駅前に停まる。そこからさらにバス停4個か5個を挟んでバスは終着になる。そこにあるバス会社の車庫がこの辺を運行するバスの起終点だ。
この大学の土地を持っていた会社は、JRの駅から分岐する貨物の引き込み線を持っていた。工場が移転した以上、引き込み線の必要はない。この引き込み線や関係設備を取り去ることができたので、JRの駅はいくらか土地に余裕ができた。そこで若干ホームを移動させた上で駅舎を橋上に移して、窓口機能をそこに集中する計画を立てた。この駅は島が2つありそれぞれの両側に線路を持つ4線の駅に拡大されることになった。将来的には、この路線自体を普通電車以外に快速も走る路線に改良して使いやすくするという壮大な構想が発表された。
ここまでJRがやる気になったきっかけになったんじゃないか、と噂されている出来事がある。僕の住むこの県に負けず劣らず歴史があり名所古跡が多い南隣の県は、ハッキリ言って田舎だ。遠くからこの県の名所巡りをしに来る人は、まず間違いなく僕の住む県の中心駅に新幹線で到着してから電車を乗り換えて行く。まさに僕が高校生の時だったが、この南隣の県で名所古跡をテーマにした博覧会が実施された。このとき新幹線を持つ会社が新幹線の切符と博覧会の入場券をセットにして発売した。だけど新幹線の駅から博覧会場への移動は、同じJRグループのこの2両編成電車の切符ではなく田んぼの真ん中を突っ切っている私鉄の方の特急券だったのだ。同じJRグループから受けたこの扱いには危機感を覚えたらしい。確かに、このころからこの近辺の鉄道事情はずいぶん改善されていくことになったのは間違いない。
だが、それだけではこの市内の交通状況の改良工事は説明できない。JRの駅は、そこまで拡張工事をやっても十分土地はあるとして、駅前にタクシー乗り場を兼ねたバスロータリーを作ると発表した。ほとんどの人が電車を降りたら乗る必要があるバスに乗るには、駅から信号を渡って50メートルほど道路沿いを歩いたらそこに存在する若干道路が広がっただけの場所で待つ必要があった。一応屋根らしきものはあったものの夏はギラギラと照りつけられるし冬は寒風吹きすさぶし雨が降ったらびしょ濡れということで極めて評判が悪かった。ロータリーを作ると、どっち方面に行くにも駅から出てきたらバスに乗るのに道路を渡る必要がない。
こうなったら黙ってないのが私鉄の方だ。その鉄道会社にとっては支線に当たる路線の終着駅という事情もあり、そのころのこの駅は凹の字型のホームの中に2線の線路が入っていて、普段使われているホームは1面だけ、周りを簡単な柵で囲んで、その柵が開くところが改札口。券売機だけは改札口のすぐ横にあったが、定期券などは道路を渡ったところにある2メートル四方ほどのプレハブ小屋の中にある窓口で買う必要があり、その小屋はバスの待合室も兼ねていて、この辺りは道路が狭いこともあって常に渋滞していてこっちも評判悪かった。
そもそも、このふたつの駅の間には僕とネリーが剣道をフケていたときに最初に利用した中州の公園がある川が流れていて、その川を渡る橋は狭く、しかも車の通行に当たってはその橋のすぐ脇でクランク型に曲がる必要があり2重に信号を待たねばならず、人にとっても車にとっても優しくない道だった。
だから、僕の住む市はいろんなところの交通を改善するために本気を出し始めたということだ。新しく住む人が次々に引っ越してきていくらか財政事情が良くなってきたことも確かなんだろうが、このころ僕がよく聞いたこの人の名前とこの交通事情の改善との関係は、全て終わってからかなり長い間考えてわかったことだ。風が吹けば桶屋が儲かる的な話ではあるけど、この地でその名前が有名になったことと、本来の市街であるこの辺りの開発は間違いなく同じ出来事の異なる断面だ。その人の名前だ。
「朝日勇太郎」
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例の裁判は続いている。
時々、弁護士からの電話が入る。うちは両親とも働いているし、土日は弁護士だって休みだから、連絡を取り合うのもままならないようだ。弁護士にはかなり無理してもらっている様子が、間で電話を取り次いでいるだけの僕にも伝わってくる。
それだけではない。裁判としてもかなり苦戦を強いられているのがわかる。そりゃそうだ。親子になったんだから安心、と油断しきっていた僕の両親は、それを守るために何が必要かを考えて実行する努力を怠っていた。後に僕が学ぶことになる言葉だが、法律の世界に「権利の上に眠る者を保護しない」という言葉があるそうだ。どんなことでも自分たちが既に持っていることを当たり前に思わずに、維持する努力を常にする者だけが、その利益を享受できる。
法律とか、銀行の口座を開くときだとか生命保険の契約をするときにもらう約款とか、そういう細かい決まりを定めたものは、普通の人は細部まで読み込むことはしないだろう。それは、普通の暮らし方、利用の仕方をしているのならば、まずトラブルにはならないからだ。逆に言えば、普通じゃないのならば、思わぬ方法で足下をすくわれないようにするためにそういう決まりに精通しておくことは必須の条件だ。そして、養子縁組というのは、親子のあり方としてあまりにも普通でなさ過ぎる。
実の親子を「一体」だとするならば、養親子関係というのは「接着剤で貼り合わせたふたつの物体」だ。いつ剥がれるかわかったものではない。だから、剥がれないようにする日ごろの努力が大切だ。法律的にだけではなく、人間関係でもお互いに関係を維持しようという意思を持っていることを見せ合う必要があると思う。
どう考えてもそういう努力をしてこなかった父は相変わらず間抜けで無能だと言わざるを得ないが、この件については母も悪いと思う。家族というつながりを絶対至高、何ものも侵すことのできない不可分のものだと普段考えているから、それを維持する努力などというものを想定することすらできなかった。実の兄弟姉妹たちとの間には、お互いに「ドンを突かれる」ことのないように過干渉というぐらい関わろうとするくせに、接着剤で貼り合わせて無理矢理作った親子関係は本当にそれと同じくらい強いつながりなのかということを検討すらしなかった。離婚というものを犬畜生がやる行為と考えていたが、同じ考えでこの親子関係を見ていたから、祖母の方から「三行半」を突きつける方法があるのではなんて考えもしなかった。
法律、約款、契約書。約束事を書いたそういう書面を、誰よりも細かく読み込む職業とは詐欺師だと言われる。そりゃそうだ。裏の掻き方は全部そこに書いてある。これも例の漫画の主人公が言うことだが、社会構造の死角を突くからこそ詐欺とはウツクシイのだ。
だから、裁判は苦戦になるのは当たり前だろう。完全にありもしない権利の上でグースカピー状態だったのだから、全額奪還はもちろん遺留分の請求すら苦しい。我々もこの人のためにこれだけやったんです何とかひとつお願いしますと泣き落として、あとはそれがどこまで通るか様子見するしかないだろう。大したことをやってないからあまり期待はできないけど。
実際に社会問題になる犯罪の中で、詐欺というのはもっとも犯人を法的な罪に問うことが難しいそうだ。それは簡単に言うなら、騙された方が騙した方を罪に問いたければ、騙した人間が最初から騙すつもりだったことを騙された方が立証しなければいけない、この一点につきる。
僕の両親が戦っているこの裁判では、実際に騙された当事者である祖母はもうこの世にはおらず、本当に騙しだったかどうか検討しようにも知っているのは相手だけだ。この人は最初から騙すつもりで実際騙しましたと言うのはとんでもなく難しい。
こういう不利な状況だから、民事としての裁判でもあまり強硬な要求はできない。そんなに納得いかないなら刑事裁判で白黒つけましょうか、そう言われたらうちの両親はバンザイだ。殴られることを想定すらしていなかったから、何の対抗手段も打てず好き勝手に殴られてしまい、手遅れなのに慌てて対抗策を探しているという、そういう間抜けが僕の両親だ。
まぁ、そんなことはハッキリ言って僕には関係ないと思う。両親、特に母は、子供に家を遺すため、というのをモチベーションにしていたらしいが、僕がいつ家を遺して欲しいとお願いした? 家なんか欲しくないから、楽しかった中学時代と、それから引き続いて楽しかったであろう高校生活を、耳を揃えて返してくれ。
弁護士との話し合いはかなり遅い時間になることも多かった。当然だろう。そう度々仕事を抜けるわけにはいかないだろうから、弁護士と話し合いができるとすれば夜だ。
そんなわけで僕は「あり合わせのもんでご飯作って食べといて」という立場に度々なったのだが、以前は毎日その状態だったのだから困るはずはない。むしろいつも喧嘩している夫婦がいないところで、自分が好きなものを自由に食べられるのは楽しかった。
たまには、自分の小遣いで外食した。この市はどういうわけか外食不毛の地で、店が少ないしたまにできても不人気ですぐに潰れてしまう。そんな中、1軒だけ長い間続いている店がある。長崎ちゃんぽんの店なのだが、ちゃんぽんとしては邪道? と思うが味噌味のちゃんぽんが魚介と味噌の味が合っていてとても美味しい。サイドメニューの鶏唐揚げも美味しい。
中学生の時は、ある意味自分の食以上にネリーの食をどうするかは大問題だった。あの日ゴルフボールに扮してネリーが帰ってきてくれてから、僕の前で「食べる」という行為を一度もしていない。悩みがないという意味では楽なのだが、気になるのも確かだ。
そんなわけでひとりで外食して満足して帰ってきたときの話だ。家が見えたかな、というタイミングで、ネリーが天井裏への通り道になる通気口から中に入る姿を一瞬見たような気がした。だが、それはネリーなのかどうか、僕には自信がなかった。光っているように見えたからだ。ネリーは光る生き物だったか? そもそも生き物なのか問題すらまだ片付いていないのは承知の上だ。光っているところを見たことはないのは確かだったし、蛾か何かが街灯の明かりをはね返したのが偶然見えただけだろう、僕はその程度でこの件を片付けてしまった。
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僕は剣道が大して強くなかった。運動神経が鈍いから、前の中学にそのままいて続けていたとしても、段には届かなかったかもしれない。実は、僕が向こうの中学校を去るのと同時に、厳しくも親しみやすかった剣道部顧問が異動になることになっていた。剣道部が存続しているのは友達から聞いて知っていたが、もし向こうの剣道部に居続けることができたとしても、僕のモチベーションが続いたかどうかはわからない。
だけど、やっていて良かったとはいまでも思う。剣道には「放心」という言葉がある。普通「放心状態」と言うとぼんやり、ぽかーんという状態のことを言うが、剣道の世界では逆にあらゆる方向に対して隙がないように油断なく整えた万全の体勢のことを放心という。達人の型演武などを見ることが少なくなかった僕は、そういう状態で動いている人の動きを「美しい」と感じ取れる一種の鑑識眼が身についた。これが最大の財産だろう。
そんな僕の武道魂が、自分でもすっかり忘れていたのに思わぬところで反応したときには、僕自身少々びっくりした。
ヒマでテレビをザッピングしていた日曜日の昼下がりのことだ。ザッピングだからチャンネルひとつにつき見ていたのは5秒あるかないか。そのわずかの時間だけで、その人の放っている空気に全く隙のない「放心」を感じた。
偶然目に入ったそれは、武道でもなければ格闘技でもない。もし僕がそういう感想を持ったことを本人に伝えたら、その人はそういう見方をされたことが意外だと言うのではないだろうか。そう、武道では全くないにせよ、その人は体の細部にわたってまで全く隙がなく、周囲を圧倒するような空気を放っていた。
その人の名はラリサ・クルィレンコ。あとで調べてわかったことだが、当時ソ連の新体操界を引っ張っていた人だった。黒髪に黒い瞳は、欧州文化圏では逆に異国情緒を漂わせていた。身長は170センチなのにもかかわらず、股下は90センチあるらしい。細くてコンパスのようなその体は、この競技のために神が作り賜うたと言いたくなるくらい、この競技的に美しかった。
だが、この人の前ではそういう外見的な美しさなどどうでもいいように思えた。リボンだとか輪だとかボールだとか棍棒だとか、とにかく何を持って競技場に現れても、フロアに立ちすっと構えただけで見ている者すべてが思わず居住まいを正したくなるくらいに緊張し、そして彼女に対して注目の視線を向けざるを得ない空気を作っているのが、テレビを通して見ているだけでもわかった。この競技において選手が手に持つそういう道具のことを「手具」と呼ぶことを僕は後に学ぶわけだが、この選手の前ではそれらの手具は自ら意思を持ってこの人の命じるところに従っているように見えるくらい、彼女は全く隙なく手具を扱ってみせた。
我ながら異常なまでの雑食性を持っていたこのころの僕の心は、クルィレンコにもっと威圧されたいと動き出した。とりあえず、やり始めたのは当時刊行されていたアマチュアスポーツ専門誌を買って大会の予定をチェックして、テレビ放送があればそれを録画することぐらいしかできなかったけど。
この手の競技は、オリンピックの時に見るだけ、という人の方が多いだろう。増して外国人選手を応援するなんて、相当変わった人間だ。でまた、女性のスポーツであるこの競技を好んで見るなんて、男としては相当な変人扱いだった。いかがわしい目的と判断される場合も多かった。でも僕は変人だ。今さら人の目なんて気にしない。元から白人好きだったあいつが、また変な方向性を見いだした、友達の間でそう扱われることも、何の苦にもならなかった。
このころ、新体操界はソ連とブルガリアだけが強国で、他は2線級と言っても良かった。で、クルィレンコにとってライバルだったと言えるのが、ブルガリアのニナ・ストエヴァだった。この人はこの人で、クルィレンコとはまた違った意味で観客に息をのませる力の持ち主だった。身長と体重の数値を見たら一般人よりははるかに細いのだが、それにしては女性らしいふくよかさのある体つきで、いかにもという感じのスラブ系美女だった。落ち着いてひとつひとつの動きを検討したら高度な技術と体の柔軟性を誇るのだが、それを「とんでもないこと」と思えない自然さでやってのける選手で、技術を見せつけるというよりは誰にでもとれる自然なポーズの中に美しい表情をつける技術の持ち主だった。たとえれば達人の生け花が何気ないようで素人の仕事とはまるで違う美しい表情を見せるような美しさだった。見ている者の心を落ち着かせる感じだが、そのためにこの選手はありとあらゆる方向に「放心」していた。
とりあえずこのころの僕は、白人女性のまた別の類型を知ったということだ。東欧や北欧に多い気がするが、本当に人形のような、華奢で壊れやすい芸術作品のような人たち。ダイナマイトボディだけが白人の魅力じゃないということか。
というようなわけで、僕が行きたい場所は必ずしもイギリスだけではなくなっていた。何もかも捨てて巨大なバックパックひとつ背負って世界を流浪するようなことができたらいいだろうな。だけどそのころの僕にはそんなこと夢物語に思えたし、実際世の中でも、いい高校からいい大学へ入って好景気のうちにいい会社に就職するのが「賢い生き方」であってそれ以外の道を選ぶのはそういう流れに乗れない能力の低い人間のやることという風潮があった。世界を放浪したいなら「いい」会社に入って高い給料もらって、ボーナスか何かで休み毎に行けばいい。贅沢旅行で女も買い放題だ。そういう風潮だった。実際このころ「旅行先別女の買い方」的な本が本屋に並んでいたんだ。
だから僕には立場を捨て去ってバックパック持って日本を飛び出すような行動力も度胸もなかった。やっぱり、人形のような美少女が当たり前にいる国に1回は行ってみたいというのは僕にとっては夢でしかなかった。そこまで行くところまではないにしても、実際にそういう少女を間近で見てみたいというのはある。見てどうするというものではないけれど、きれいなものを見るのはそれだけで心が洗われるじゃないか。
実際僕は、きれいなものを見ることには結構貪欲で、近所で美術展なんかがあったらまめに足を運ぶ方だった。東ヨーロッパのとある国の国立美術館が所蔵する品の展覧会があったときのことだ。特に美術の本場というわけでもないし、出品物に有名な画家の作品もない。ただ、チケットに印刷されている女性の絵が売りといえば売りなんだろう、ぐらいの期待しか持たずにそれを見に行った。しかし、実際にその絵を見たときには息をのんだ。女性らしい優しさ、あたたかさがその絵からありありと伝わってきた。
このとおり、美しいものを写真やテレビで見るというのは良し悪しなのだ。息をのむほど美しいものがそこにあるのに、写真やテレビであらかじめ見てしまうと「あ、これ知ってる」で終わってしまうことがしばしばある。本当に美しいものには、自分も全力で対峙しないとその美しさはわからない。そして、写真やテレビでは往々にして「これはこういうものです」という「情報」だけが伝わってしまい、その「価値」はごっそり削り取られてしまう。
だから、実際に新体操の大会を見に行きたいというのはこのころ考えていたことではあるんだが、たいていの場合大会は東京で開かれていたし、チケットも決して安くはなかった。僕も覚悟が足りないなと思うところだが、ほとんどが女性であろう観客に混ざるのに恥ずかしさもあった。だからやっぱり僕は何もできなかったわけだが、美術品のような少女に面と向かうということは将来あるのかどうか、僕にもさっぱりわかっていなかった。
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何だか、この県全体が、騒然としているように思えた。
誰もが話題にしていたその人の名前は、いつかも聞いた「朝日勇太郎」だった。一部の人たちには長い間待ちわびられていた救世主らしい。このころの好景気で、マイナースポーツからメジャープロスポーツに脱皮した競技がサッカーだ。世界では一番競技人口が多いスポーツではあるが、日本では変わり者が見るスポーツだった。
日本では、プロスポーツの中では野球だけが「不当に」と言うレベルで地位が高い。定期開催されていてゴールデンタイムに生中継されるスポーツと言えば野球だけ。スポーツニュース、と名をつけられている情報番組も、やるのはひたすら野球・野球・野球……。そこにサッカーが割って入った。
だからサッカーがメジャースポーツにテイクオフしたこのころ、様々なマイナースポーツがサッカーに続けとプロスポーツとしての飛躍を模索していたらしい。だけど、スポーツの中には「アマチュア精神こそがこの競技の真髄」という競技もあった。それが顕著だった競技のひとつがバスケットボールだそうだ。アメリカでは超メジャースポーツだ。だが、日本人は身長に恵まれないため世界との距離がありすぎるせいもあり「見る」スポーツとしてはほとんど誰も振り向かない状態だった。「体育の授業でやったことはある」程度の人が大半だっただろう。
新体操情報を得るために買っていたアマチュアスポーツ専門誌は別に新体操限定ではない。アマチュアスポーツ全体を扱っていた。よ~く考えたら矛盾する気もするんだが、日本で初めてのバスケットボールプロ選手というのが特集されていたことがある。アジアでも、フィリピンやモンゴルなんかでは人気が高くてプロリーグもあるくらいのスポーツなんだが、日本ではまだ「企業の部活動」を超えるものではなかった。昼間サラリーマンをやっている人たちが、仕事が終わったあとや土日祝日に練習や試合をする。頂点を決めるリーグ戦が毎年一応開かれていたが、そんな情報、スポーツ新聞を隅々まで読んでも載っているようなものではなかった。
そんな中、日本初のプロバスケット選手が誕生したというのだ。ふたりいたが、そのうちのひとり。アメリカのプロチームと契約したわけではない。企業の部活動でしかないバスケットボールチームの中で、サラリーマンの立場ではなくバスケットボール専門の要員として、従って月給制ではなく年俸制で契約したという、それだけの話だった。特集されていたのは内山英輝という選手。だけどこの内山さんらのプロ契約は、それまでの日本バスケ界を考えると画期的なことだったらしい。これを契機にプロ契約を結ぶ選手が続々と出てきて、その中には日本バスケ界の革命児と言われた佐山健志という人もいたそうだ。が、この佐山さんでさえ、日本バスケ界を変えるには至らなかった。
そして、それが可能なんではないか、その期待を早くから受けていたのが、朝日勇太郎だった。だから、数少ないバスケットボールファンはもちろん、テレビ番組のコンテンツとしてサッカーに続く目玉を待っていたマスコミもこの高校生のことを追いかけていて、僕が住んでいるこの県にある独立UHFテレビ局ではあるが、この朝日という選手のことを追ったドキュメンタリーを流していた。
日本には、何度も言うようだがプロ選手はパラパラしかいなかったし、社会人リーグはあくまでサラリーマンの部活動、大学もドングリの背比べではあるが、高校だけはバスケットボールでどうしようもなく強い高校というのがある。日本唯一の強豪校と言っていいこの高校に、上手い中学生は挙って進学する。その高校は青森県にあったが、どんな都会の子供でもバスケで生きていきたければその青森の田舎に嫌がることなく進学した。そして朝日という選手も例外ではなく、横浜からそこに行っていた。
子供のころから、才能は抜きん出ていたらしい。僕には全く覚えがないのだが、子供用の学習教材のCMに出たそうだ。アメリカのプロバスケット界のスター選手を呼び物にしたCMだった。日本人少年がドリブルしているボールを、この選手が奪う。そういうシーンを監督は撮りたかった。だがこの少年は、反射的に体をロールさせて、このトップ選手からマイボールを守ってしまった。そして周囲の大人の度肝を抜いた……この少年が、朝日勇太郎だ。
それにしても、なぜ神奈川県出身で青森の高校に通うこの選手のことを、僕の地元の独立U局が特集するのか? それは、とにかくこの選手への期待が大きかったこと。高校生がとれるメジャータイトルと言えば国体・高校総体・全国高校選抜の3つがある。高校3年間にわたってこの3つのタイトルを毎年取って「9冠」を達成した選手は漫画の中にしかいなかった。この選手がその9冠への通り道を、この県で開催される大会でまた通過するかどうかに注目が集まっていたことが理由としてあると思う。
あらゆる競技を各県が持ち回りで開催する大会がこの県で開かれることになっていて、開催地は県内全域に分散している。そしてバスケットボールの会場は、僕が住んでいる市だった。しかも、駅からバスが上がってきて、僕が住んでいる住宅地を一周したその先にある運動公園の体育館だった。この運動公園は、公式大会にも使える陸上競技場や野球場、サッカー場にテニスコート、競技用・レジャー用のプール、さらに冬期も使える室内温水プールもあり、競技場は割とちゃんとしたものが複数ある。そして体育館も全部でいくつフロアがあるかわからないぐらい立派なものだ。バスケをやるには競技場自体は適切だったと思う。
だが、近くには宿泊施設がほとんどない。皆無ってわけじゃないんだが、名所古跡の近くに料理旅館が数軒あるだけだ。眠るのもコンディション作りのひとつで朝起きたらもう生活のすべてがトレーニングというようなトップアスリートの要望に応えられるような施設はない。だからバスケットボール出場チームはみんな北隣の県庁所在地に宿を取っていた。そこから電車とバスで会場入りするわけだが、朝日さんはこの市が終点になっているというあの駅からバスに乗って会場入りしたそうだ。周囲にほとんどスペースの余裕がないあの小さな駅がマスコミとファンと野次馬でごった返した。
朝日さんは青森の田舎で高校生活を送っている人だからそう気にも留めなかったと思うが、凹の字型のホームを簡単な柵で囲い、そこを降りたらプレハブ小屋の中でいつ来るかわからないバスを待つあの風景が、全国に流れてしまった。日本人なら誰もが知る名所があり、誰もが知る名産品があり、この地を詠った有名な歌も百人一首に複数含まれているから知名度はある。にもかかわらず、代表駅があれなの? ショボい! 日本中の人にそう印象づける契機を、結果的には朝日さんが作ってしまった。
この私鉄にとってもかなり危機感を覚えさせられる出来事だったんだろうが、市のエライさんたちにもかなり衝撃的な出来事であったことは間違いないようだ。以前にも話したように相前後してJRがかなり本気で「このままじゃヤバい」と思い始めていたし、この街が大きく動き出す伏線は着々と布かれつつあった。
そんなことは全く知らない僕は、時々ショルダーバッグにネリーを詰めて、途中で途切れたあの郵便局への途中の道へ足を運んでいた。あの途切れた部分から、真っ白で平坦なアメリカの大学キャンパスを眺めるのは、景色としては悪くなかった。
「あの白い一帯があるだろ、あれがアメリカの大学だよ、ネリー」
僕はショルダーバッグから小型犬のように顔だけ出したネリーに話しかけた。
「アメリカの大統領が住む官邸も、まああんな感じみたいだね。ニュースなんかで見る限り、あんな殺風景じゃなくて周囲にほどよく緑が配置されていて、だいたい街全体がそんな感じみたいだ。そういう感じって、ネリーにとってはどうなの?」
ネリーはなんの反応も示さなかった。ただじっとその一帯を見ていた。見ているように見えた。なぜなんの反応もしないのだろう? 僕と同じものが見えているはずなのに。
「日本の大学ってのはだいたい狭っ苦しいところに作られてるけどさ。ヨーロッパやアメリカじゃ広いのが当たり前なんだよね。分散してなくて広いって言ったら、日本では北大か筑波大かな。北大なんかいいかもね。ネリーの大好きな森がいっぱいある北海道だ。もし行けたら迷いなくネリーを連れて行くな」
そう言うと、ネリーは本当に仔犬が喜ぶみたいにカバンの中でもそもそとはしゃいだ。やっぱりネリーは森と聞くとなんとなく気分が浮き立つみたいだ。ネリーの反応はそんなだったけど、僕はやっぱりそこへ大学を見に行った。周囲をトリミングしてそこだけ見ていれば、なんとなく外国に行った気になったから。
そんな折、いよいよその大学が潰れたという情報が入った。潰れてからわかったことだが、本当はその大学も撤退したくてしょうがなかったんだそうだ。だが、撤退するにもただ撤退したんじゃ丸々赤字になってしまうので、土地の買い主を待ってからの撤退ということだったんだと。このときに大笑いの種になったのはその土地を丸々買い取った会社のこと。冠婚葬祭をやってるその会社は、このキャンパスをかなりそのまま結婚式場に転用するらしい。
僕は腹筋が攣りそうになるまで笑うと同時に、そのアイデアを出した人を心の底から讃えたい気分になった。どこの誰だか知らないが。あれだろ、パチモンのチャペルで「神の前で永遠の愛を誓」ったらそのあと披露宴で、丸いテーブルが並んでて白いクロスが掛けてあって来賓がそのテーブルを囲んでて、ステージにスポットライトが当たると新郎新婦がゴンドラに乗って降りてきて、ライターの親玉みたいなものを新郎新婦が持ってテーブルを回って、各テーブルに置いてある♡型の燭台に火を点けて回るんだろ。
まったく、そういう「欧米ごっこ」をやるには最適な場所だ。ほとんどの施設が使い回せるというのもコストパフォーマンス抜群だ。ごっこで自己満足するだけの欧米っぽさを僕は心底馬鹿にしていたから、ネリーを例によってバッグに詰めて連れて行ってまでその建物群を見てあれが教会になるのかとか想像しながら笑いこけた。自分の中のヨーロッパへの憧れだって大差ないんだけどな。
こんな商売、流行ると思う人はいるだろうか? ひとりもいないんじゃないか? 実際流行らなかったわけで、この土地はこのあといろんな変遷をしていくことになるが、それがこのあとの僕らの運命に無関係とは言えないとは、このときには全く想像することすらできなかったよ。




