連載第七回
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そんな生活の中、生きるために「カゴの中の鳥」を演じている僕の中で、外の世界への憧れはどんどん募っていったことは言うまでもないだろう。繰り返すがそれは僕にとってイギリスへの憧れと同じ意味で、僕は留学に憧れるようになっていた。留学のパンフレットをもらい、それが現実のものにならないかと画策してみたりもしたのだが、結局は母が立ちはだかった。
前も言ったけど母は「これが当たり前」という感覚が時代ズレしている上に極めて狭い。口では「好きに生きていい」と言いながら、中学出たら高校に行き、高校に出たら大学に、それもなるべくいい大学に行き、大学出たらなるべくいい会社に就職、という「当たり前」の人生から外れた方に足を進めようとしたら強硬に反対するのが母のやり方だ。母は僕がやろうとしていることをちゃんと調べた上で賛成なり反対なりしたことは1回もない。このときは白人というのがどれだけ凶暴で狡猾で傍若無人かをまるで見てきたかのように延々語り出した。
まぁ、実際母は白人を見たことはあるそうだ。戦後、進駐軍の兵士が酔っ払って、巨体の白人が上半身裸でしかも酒を飲んでいるので真っ赤で、まるで赤鬼のように見えたという経験があると。だから母にとっては酔っ払った赤鬼こそが白人なのだ。僕は「この人に何を話しても埒はあかないな」と思ってしまって途中で話をやめたが、母は白人の浅ましさを語る口調に次第に熱が入り、そのうち「鬼畜米英」と叫び出すんじゃないかと思った。
早い話、僕は母の「当たり前」の中で生きていくしか生きる道はないわけだ。大学に入って、ある程度アルバイトでもするようになったら、そのお金でいくらか母の当たり前ワールドから出て外を覗くことはできるようになるかもしれない。このころ既に僕は転校前のあの中学から順調に進学していったら当然選ぶような大学を選ぼうと心に決めていた。だけどその日までは、親がその気になれば僕を干物にでもできるんだから言うことを聞く他ない。毎日毎日残飯処理のような食事をさせられていたが、親に言わせれば「嫌なら食うな」だろう。実際、母は嫌いな食べ物を嫌いと言ったら「食わんでええ。頼んでまで食べていらんのじゃ」と親に言われて育っているそうなのでそれが「当たり前」だと思っている。それにしても、このおかずは好きじゃないというのと主食であるご飯がすえた臭いがしてしかも水気を失ってカラカラだからなんとかならないかというのではわがままの度合いは格段に違うと思うのだが。
こういうとき正直な気持ちを話せる相手は、僕にはやっぱりネリーしかいなかった。
「親ってなんのためにいるんだろうね、ネリー」
僕はそう話し始めた。
「一切束縛しない、自由にしていいよ、って口では言っておきながら、自分が気に入らない選択肢を子供が選ぼうとしたらあらゆる否定要素を並べ立てて諦めさせようとするって、それって結局『私の気に入る道以外選ぶな』って言ってるのと同じじゃんね。そう思わないか?」
このとき小型犬ほどの大きさになっていたネリーは、やっぱり僕のデスクの上が定位置で、何か難しいことを考えてる、を表現するように頭に手をやった姿勢でデスクの上を往復した。
「あぁ~あ、僕はいつまで親の檻の中で生きればいいのかねぇ」
ネリーに語りかけると言うよりは、僕は独りごちた。しばらくしてふと思った。
「そういえばネリー、お前に親って言うべき存在っているのか?」
僕はそうたずねた。なんで今までこれを考えなかったんだろう? 彼女がいるかどうかより生き物としてはこっちの方がはるかに重大問題じゃないか? でも、やっぱりネリーは自身よくわからないように首をひねるばかりだった。いつか、ネリー自身と僕にとってネリーがどういう生き物なのかという疑問に対する納得できる答えにたどり着くことはできるんだろうか。
嫌なやつはどこにでもいよるから我慢する。そんな母に嫌なやつが近づいていた。それは、入院先の病院からうちには何の連絡もなく祖母が忽然と消えるという形で、我々の前に現れた。
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ずーっとあとの話だが、僕は詐欺をテーマにした漫画に夢中になることになる。その漫画の主人公は当然詐欺師だ。そして、その主人公の台詞にこういうのがある「気づいたときには終わってる。それが詐欺ってもんだ」。実際そうだと思う。だって本当に、僕の両親が気づいたときにはあちらさんは全て仕事を終えていたんだから。
祖母は、名目上父を保証人として入院していたはずだった。その病院から父の足が遠のいていたのは確かだけど、その父の配偶者たる僕の母は、いわば父の名代として病院へ赴き、でき得る限りの時間を祖母の介護に充てていたはずだ。
しかし、その母はある日突然祖母が退院していたこと、そして自分の立場はその祖母の養子ではなく、時々見舞いに来ていた知り合いのひとりにまで後退させられていたことを知る。慌てて弁護士に相談した僕の両親は、そこで初めて祖母が「死後離婚」していたこと、旧姓に戻っていたこと、あの上品そうなおばあさんから紹介される形で、病院に複数の強面の連中が度々訪れていたこと、自分の遺産を全部その強面たちに譲るという遺言を残していたことなどを知ることになる。まさに、気づいたときには終わっていたのだ。
手続きを踏めば配偶者死後に姻族関係を終了させることができる。同時に「復氏届」というのを出せば、婚姻のとき姓を変えていれば元に戻ることができる。離婚したのと同じ状態になるわけだ。父を捨てようとした祖母は、逆に自分が離れることでうちの「血筋」に反逆した。
祖母がいなくなってからも、この先どう転ぶかわからないという理由で母はひとりで夕方以降だけの飲食店を続けていた。店を守るつもりで行っていたその母の行為は、気がつけば土地と建物の不法占拠ということになっていた。このころは日本が異常な好景気に沸いていたころであり、その根底にあるのは土地の価値の暴騰だ。店は日本でも有数の観光名所の門前商店街の中にあり、その中でも祖母の店は来た人が必ず前を通る絶好の立地だ。狙われて当然だ。
いずれにせよ、これは本当に大変なことになったとやっと僕の両親が認識したのは、土地と建物の所有権者が正当な権利を行使したときだった。権利者本人か雇われかよく知らないが、とにかくその権利を伝達しに来た人たちが居並んだときだ。裏地に金ラメの糸で昇り龍の刺繍がしてあるスーツを見せ「法的に正当な手続きで」不法占拠者の排除をしに来たのだった。
この件に、僕の父は激怒したそうだ。「そうだ」というのも全てが決着してから母に聞いた話だから。父は昔から、僕にお金の問題について話すのを嫌った。父の言い分では、父自身が自分の実父にも養父にもお金では困らないように育ててもらったことにだけは感謝しており、だから自分もお金の問題で子供を悩ませたくないということだったらしい。だけどこの理由は後付けで思いついたことだと僕は思う。父の実父も養父も名士だ。でも父はそれまで人並みの収入すら夢のまた夢というような収入しかなくて、しかも母が生保レディで多額の収入を得るようになって生活の余裕ができたときにも将来設計を見つめ直すでもなく考えたのは酒と女遊びだ。だから父が僕にお金の問題を話したがらないのは逃げだったとしか、僕には思えない。
そういうわけで、僕の両親は「遺産相続をめぐる裁判」という究極に面倒くさい出来事に巻き込まれることになる。父は「全額取り返してやる!」と息巻いていたらしい。これもあとから母に聞かされた話なので伝聞調で話すしかないのだが、こんなことを言っている時点で父の負けだと思う。父の言うとおり全額取り返すようなことができるんだとすれば、父と母が祖母に対してやって来たことは人道的にも法律的にも一点の傷もないと主張するしかない。だが、そうならばそもそも取られていないわけで、まずいことだらけだったからこそ「法的に正当な手続きで」金ラメスーツの連中のところに行ってしまったわけだ。
僕の記憶に残るこの期間は、とにかく家にひとりでいることが多かった期間だ。寂しかったわけではない。むしろ楽しかった。ネリーと思いっきり遊べたし、好きなものを飲み食いできた。僕はこのころ、ビールとは別に日本酒より飲みやすいアルコール飲料の存在を知っていた。ワインだ。
表面上、奨学金の中から2千円だけを自分の小遣いに充て、あとは将来に備えて貯金しておくことには変わりなかったが、僕名義の口座にしか奨学金は振り込まれない以上、その管理は親がどう思おうと僕がやるしかなかった。だから僕は時々そこから引き出して自分の楽しみに使っていた。家から自転車で行ける範囲で酒のディスカウントショップも見つけていたので、僕は時々手ごろなワインを買っては家で飲んでいた。ビールと違い途中でやめても蓋をしておけばあとでまた飲める。なにより美味しそうなワインを選んでワクワクしながら封を切って、これはこんな味だったな、とあれこれ感想を持つことはオシャレなことをしている気分だ。
僕の元を離れる前すごくでっかくなったネリーは、僕がビールを買って飲もうとしたら強硬に止めたことがあるのを、僕は忘れていなかった。だからワインを飲み始めたとき、グラスをネリーに差し出して感想をたずねたことがある。ネリーは飲みこそしなかったものの、特に危険なものだとも感じなかったらしい。僕は後ろ暗い思いをせずにネリーの前でグラスを傾けた。
ある日もワインを飲んでいた。たまには景色のいい部屋で飲むかな、そう思った僕は、ワインと肴を持って、ネリーとの再会の場になった部屋に行った。少しアルコールが体に回った状態で、まだほんのわずかだけ赤みを残した空と、それをバックに浮かび上がる山の稜線を見ていると、とても幻想的な風景に見えた。
もっときれいな風景を見ながら飲みたい、なんとなくそう思った僕は、ワインの野外飲みという暴挙に出た。水筒にワインを入れ、チーズを切ってラップで包みポケットに入れた。そうしてネリーの森に行って、星空や街の明かりを肴に飲もうと。
ネリーの森に来るのはいつ以来だろう? この森はいい。まだ入り口に近いところでは眼下に街の明かりが広がる。奥に行って人工的な明かりと縁が薄くなるに従い、空にある天然の光が際立つ。もしかしたら、この世とあの世ってハッキリした境界があるものなんじゃなくて、こんな感じでグラデーションになっているんじゃないか、そんな感覚を覚える場所だ。あの満天の星空の中に、ネリーに連れて行ってもらうことができないのは、ちょっと残念だけど。
だけどふと気がついたら、周りにずいぶん虫が寄っていた。季節的に大した虫はいないはずだったが、それでもこれだけ寄られるとワインの味を楽しんでいるわけにはいかなかった。
「何だろうねネリー、この虫の数。何かわかる?」
僕はそうネリーにたずねた。そうしたらネリーは宙を舞って木の幹を指し示した。何かがベットリついているように見えた。樹液? どうやらそうらしい。もしかしたらワインを樹液的な何かだとこの虫たちは思っているのかも知れない。
酔いも手伝って若干判断力をなくした僕は、ワインを木の幹にぶちまけて、明日朝早く見に来ようとか、出来もしないことを考えてしまった。だけど、それだけでもいくらか虫は集まり始めているように見えた。ほとんどは集まっても嬉しくないタイプの虫だったけど、蛍とかもいたような気がした。あくまでも、このときは。
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裁判というのは大変な事態だったと思うが、一方でそれは母が事務員のあとの仕事として店を手伝いに行くということを正式に免ぜられたことでもあった。普通の「共働きの主婦」になれたことは、かなり気分的には母にとって嬉しいことであるように、僕には見えた。店を手伝いに行っていたころは毎日の疲労は相当なものだったと思うし、その疲労を察することができない父に対する苛立ちも共感するかしないかという問題はさておいて理解できなくもない。
だから、このころ母は裁判問題を抱え込む前より、むしろ全体的に機嫌は良かった。会社の事務員同士でしている雑談なんか、他愛もないことを話題にして自分で喜んでいた。テレビの話になって、他の事務員からこう言われたんだそうだ。
「息子ちゃん、東・大♪」
その根拠というのが、東大生を対象に番組が取った統計で、東大生に一番多いパターンというのが割り出されたということだった。
その1・お父さんが4年制大学卒
その2・お母さんが30歳の時の子供
その3・塾には行ったことがない
「だから息子ちゃん東大やけど、東京は物価高いからこっちにしときや」
そんな会話をしてきたんだそうだ。
勝手だと思わないか? 自分が無理矢理塾に行かせた過去はきれいさっぱりなかったことになってるんだ。意図的に「うちは塾には行かせなかったんだ」と言ってるのなら完全な嘘つき、違うなら記憶を中心とした脳の機能が何か損傷されているとしか言いようがないだろう。
確かに僕は、受験まで塾を勤め上げて塾の先生にありがとうございましたとお礼して、仰げば尊しを歌って塾を去った人間ではないさ。自分の意思で「こんな塾にいても得るものはない」と判断して勝手に行かないことにしたんだ。全て僕の判断が正しかったってことじゃないか。あの時どんな汚い言葉で僕を罵倒した? それで、塾に行くのは正しくないという事実が明らかになったら、その判断をしたという功績すら僕から盗むのか?
こんなことを母に言ってもしょうがない。僕の成功は教育した私の成功、僕の失敗は正しい教えに従わなかった僕の失敗、母は本気でそう考えている。そしてその考えに合わない、都合の悪い事実は母の中で消されたりねじ曲げられたりしているわけだ。
いきなり何だと思うかもしれないが、ビタミンBに関する体質的問題を母は抱えていると思う。これだけのビタミンB群が必要というのは、人によってかなりばらつきがあり、大量に必要とする人はそうでない人と同じ栄養素を摂取していても慢性的な不足状態に陥るんではないかという気がする。そういう人は、サプリメントなどを使い意図的にビタミンB群を多く摂らないと不足から来る色々な症状に悩まされることになる。
ビタミンB群の不足により発症する有名な病気がある。ウェルニッケ・コルサコフ症候群というやつだ。重篤な場合もあるが、ちょっとした原因で軽い症状を発症することもままある病気だ。この病気の主な症状は記憶障害。認知症と似通っている面もあるが、認知症では絶対に出ない症状が、このウェルニッケ・コルサコフ症候群にはある。作話と言われる症状だ。認知症の人に「昨日は何をしていましたか?」と訊いたら多分「わからない」という言葉が返ってくるだろう。が、ウェルニッケ・コルサコフの患者に同じことを訊いたら、覚えていなくても「わからない」とは絶対に言わない。実際とは全く違うことを、あたかも実際に経験したかのようにありありと話すのだ。そしてその作話には自分の夢や理想が投影されるため、自分や家族についての誇大広告を伴う。僕は真剣に思うが、母はこの病気ではないだろうか? 実際、そうとでも考えなければ都合の悪い記憶は消し去って「こうだったらいいな」で過去の記憶を埋め尽くす母の幸せ回路は説明がつかない気がする。
まぁ、母の事を語るのはこのくらいにしておこう。とりあえず、晩ご飯を作る人ができたことにより、酒の肴には不自由しなくなった父も満足げではあった。引っ越す前からそうだったが、父は自分の仕事のこともほとんど語りたがらない。父が僕に対して今の仕事について語ったのは「パイプを使って、完全な直角ではなく角を45度の角度で切り取ったようなエルボーを作りたい。このとき材料になるパイプを切る角度を何度にしたら全部同じ角度で切ることになるだろうか」という質問をしたときだけだ。4年制大学卒ねえ……。値打ちの乏しい4大卒だな。
実は、父は1回大学に入り、そこを中退して別の大学に入り直している。卒業したのは法学部だが、中退したのは理工学部だ。母はそのことを「りこう学部に入ったけど遊び呆けたから別の大学に入るときにはあほう学部になった」と揶揄した。父には返す言葉もないよな。大学時代は親に学費を倍額で申告して受け取って、半分を遊びで使ったのが武勇伝なんだから。
そしていまも、パイプを接合してエルボーを作るなんて、とても名門大学の卒業生様がする仕事とは思えないようなことをやっている。学歴はなくても、子供のころから親が経営する町工場を手伝っていてパイプでエルボーを作ることぐらい目を瞑っていてもできる人だって少なくないだろう。こんなの、4大卒と言っていいものか?
親が4大卒だと子供が高学歴になりがちだ、というのは、親が高学歴→親の職業がステータスの高い仕事→親の給料が高い→子供の教育に金をかけられる、というのが理由だと思う。こんな貧乏生活を送っていて、しかも子供が学校や塾でどういう立場に置かれているのか全く関心のない親である時点で、東大生の条件から外れているだろうと僕は思う。
そんな感じで、機嫌がいいときにはいい時なりに僕にとってムカつきの種になる両親ではある。でも表面だけでも和やかな家庭に育つ子供を演じなければいけないのは、子供というものが持つ宿命的な悲哀だろうか。でも、僕はちゃんと知っている。僕のいないところでは、相変わらず喧嘩ばっかりしていたことを。おそらく裁判の問題だと思うが、本当のところは知らないし知りたいとも思わない。
子供の時から、ちゃんと話し合わないといけない事柄があるときにも父の目はテレビに向いていて、下らないギャグに半笑いを浮かべながら「いるだけ」であることに母は腹を立てていた。だから、裁判に当たっての作戦を話し合うのも一苦労だったろうと思う。ただ、そういう母も逃避先が違うだけで自分の気に入らない話をしたがらないのは同じだと思うのだが。
そして何より、こういう勝ち目の薄い裁判を完全成功報酬で請け負ってくれる弁護士なんていないだろう。着手金・調査実費みたいな名目でいくらか払っていたはずだ。だから、祖母の入院費負担がなくなっても家には相変わらずお金はなかった。牛丼と言って母が出すのは「手違いで牛肉が少し入ってしまったちくわ丼」だった。
あのころみたいにネリーが大食らいだったら、僕は今ごろ大変なことになっていただろうと思う。なんとかしてネリーに食わさなきゃ、という悩みはないが、だとしたらネリーが何をエネルギー源に動き、何を栄養として成長しているのか気になると言えば言える。だけど、僕はこのころから、ネリーは人知を超えた何かで僕の常識でネリーの活動や成長を説明してはいけないんじゃないかという気も持ち始めていたんじゃないかと思う。あとから考えれば。
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僕が行っている高校の実質的な運営主体はある仏教のとある宗派だ。だから校長というのはその宗派に属する大きな寺院の住職が持ち回りで務めることになっていた。新入生の親を対象とした学校説明会に出た母が言っていたが、校長がしきりに「ネズミはありません」と言うので何のことかと思っていたら「虐めはありません」と言っていたということらしい。このときの校長は東北のかなり田舎の寺の住職だったそうだ。
だが、校長から末端教員まで、学校関係者がこんなことを言っているなら、嘘をついているかとんでもない無能だと自白しているかのどちらかだと思う。だって、程度の差こそあれ虐めのない組織なんてないと思うから。思い出したくないから詳細は言わないが、中学の時に教師の目の前で虐められていたのに「和気藹々と遊んでた」ことにされたことが僕にはあった。
教師にとって、自分が関わる生徒の間で虐め問題があるというのは失点以外の何ものでもないから、本質的に教師というのは虐め問題から必死で目をそらすのがもう習慣づいているんだろう。僕は教師というのはそういうものだと思っていた。
高校での僕の担任は厳しめの先生で、生徒から好かれてはいなかった。ただでさえ好かれていないその担任が、ある日「自分が抱えているクラスに問題があるのなら、教師は強権を振るう」と強い言葉で宣言した。ホームルームが済んだら、クラス中がその担任の発言に対して反発や嘲笑をしたが、僕にはなぜ突然そこまで強い言葉を使ったのか疑問に思えた。
そのときクラス委員長だった僕を、その日担任は放課後に職員室に呼んだ。そこで初めて、クラスに虐めがあることを知った。言われてみれば、クラスの「ちょい悪」な感じの連中があるクラスメイトのことをボロカスに言っているのを何回か聞いた。裏で何か、もっと陰湿で直接的な行為があるのかもしれないな。
高校に入ってすぐの身体検査の時だ。身長と座高を測るから、隠すこともできず如実に脚の短さが表れる。お互いにまだ顔と名前が一致してないから、虐めの対象になっていたそのクラスメイトは「純日本人体型」である同級生の話をしていて、何名か挙げた名前の中には僕自身が入っていた。別に嫌だとは思わなかった。変に気を遣われるより、明るくネタにしてもらった方が救われる。だから僕は「それ俺だって!」と突っ込んで終わったのだ。
そういう彼の性格が鼻につくように思うやつには思えたのが原因かもしれないが、その虐められていた彼は担任に相談して、結果担任は名指しはせずにそうやって虐めている連中に圧力をかけたわけだ。そして、そのことについてどう思うか、クラス委員の僕に意見を求めるために僕を残した。僕はその問題をどうするか、何か解決策をすぐに思いつくことはできなかった。
あとから考えればだけど、4名ほどが虐めていたらしいそのクラスメイトの他に、特にひとりがイビってネタにされていたおとなしいクラスメイトがひとりいた。問題の4名がやっていたのは明確に虐めだったと思う。だけどもうひとりの方は、ただやんちゃが暴走しただけだと思う。ちょっと血気盛んな男兄弟なんかだったらままあることだが、おとなしいその彼にとっては苦痛だったと思う。そっちの件について僕が「やんちゃが暴走しただけ」と評価するには理由がある。やっているやつが、納得がいかないことがあったら平気で教師とも喧嘩するという、ある意味まっすぐなやつだったからだ。良くも悪くも「やりすぎる」やつなんだろう。
このイビられていた彼は、ただ「いい大学」を目指してこのシルバークラスに来たわけではなかった。確かサックスだったと思うが何か楽器をやっていて、芸術大学で音楽を勉強したかったらしい。別の人から聞いた話だが、美術でも音楽でもそうだが実技の方で飛び抜けていい成績を出す生徒というのは滅多に現れない。ド下手ってのは結構いるらしいけど。だから芸術系に進みたいと考えている高校生の進学は、結局ライバルとどこで差をつけることができるかというとお勉強でしかないそうだ。ずいぶん理不尽な話のような気がするが、そういうわけだから彼は、ここに来たのだ。
こんなクラスメイトたちをなんとなく気にかけながら、僕が正直思っていたことは「虐められるのが僕でなくてよかった」だ。剣道の話をしたときにも言ったが僕は運動神経が悪い。世に言う「優等生」はたいていスポーツもできるという事実を考えれば、僕は欠陥を抱えていると言える。だけどそれをネタにイビられることが、中学のころと違って僕にはなかったのは、勉強の方の成績がとても伸びたことで、僕の運動音痴をいじる方も「おまえも、結構ダメだよな」的な冗談ですむようになり、僕は僕でそれを冗談で返せる余裕ができたことが大きい。
あんまり言いたくない事実ではあるが「虐めはよくない」という正論は、虐められる心配がない安全圏にいる人だからこそ言えることだと思う。現在虐められる立場にない人でも、虐められている人を庇うことによって虐められる側に転落する可能性があるんだったら手を差し伸べる必要はないと思う。我ながら嫌な性格に育ってしまったなと思うが、誰しもが自分の無事を何より大事に生きるべきで、自分の無事のために誰かを犠牲にすれば確実に一番安全な道を行けるのならば、その誰かを犠牲にするべきだと思う。そこで犠牲になった人は「犠牲にした人が自分の安全のために取る行動」という災いから身を守る力がなかったから犠牲になったんだ。蟻を踏み潰すことにいちいち心の痛みを感じていては、歩くことすらできはしない。
僕だって、そのときはまだ家に帰れば僕の両親という他人が、自分たちにとって一番安全で楽な道を行くために踏み潰される蟻だった。子供というのは、いつの世も親によって踏み潰されるために存在する蟻なのだろう。後に僕はある心理学者のエッセイを集中的に読むことになるんだけど、そういう書籍に出会って改めて思った。子供は親に踏み潰されるために存在する蟻なのだから、子供が一人前の大人になる第一歩は逆に親を蟻として踏み潰す事から始まらざるを得ないのだ。容赦なく叩き続ける親の攻撃から身を守りながら子供がすべきことは、安易な反抗ではなく自分の力を溜めながら虎視眈々とチャンスを待ち、チャンスがやってきたときには全力で親を叩き返せる力を黙々と磨き続けることだ。
このとき、僕は誇りに思っていた。ただの「踏み潰される蟻」と違い、僕は重要な事実をひとつ知っている。それは、自分より弱いものを守ろうとするとき、蟻は蟻なりにより強い攻撃にも耐えることができるという強さを持つということだ。言うまでもなく、これは親に内緒でネリーと一緒に暮らして学んだことだ。
相変わらずネリーが何ものかはさっぱりわからないけど、いろんな意味で僕の心の支えだったしいろんなことを教えてくれた先生だったことは間違いない。




