連載第十回
33
僕にしては珍しく日曜の朝早くに目を覚ました。僕は寝起きはかなり悪い。悪いどころか、特にしなきゃいけないことがなければだいたい2度寝して昼過ぎ起きるのが僕の日曜日だ。何の偶然か、早く目が覚めたのはまた翌日の月曜日が祝日で連休という日曜日でもあった。
「ネリー、おはよう」
クローゼットを開けて、僕は天井に向かって声をかけた。天板のわずかな隙間から、いつものようにネリーは現れてくれた。挨拶代わりに、片手を挙げた。
「起こしちゃったか?」
ネリーは首を横に振った。そう言えば眠っているところというのも一度も見てない。そもそも、眠るのだろうか? だけど、僕はこのころネリーに関する様々な疑問を追求するのはやめにすることにしていた。来るべき時が来たら全部わかるだろうし、下手に探ってネリーが嫌がることになったら困るなという気分も正直あった。
「珍しく早起きしちゃったよ。どうしよう? 家にはいたくないね」
ネリーは床に降りた。飛んでる方が疲れるとかそういうことはネリーにはあるのだろうか。それにしても、また少し大きくなったような気がするな。
「そうだ、森探検に行こうか。今日はあっちの、剣道サボってたころに行ってた集落の方にどんどん行ってみよう。で、明日は逆の、一緒にグミ食べた森をずっと奥に。どう?」
ネリーは嬉しそうにバンザイをしながら何度も飛び跳ねた。空を飛ぼうと思えば飛べるネリーにとってジャンプとはどういう行為なんだろう? 疑問はいくらでも湧いてくる。だけど僕はそのたびに、好奇心を意識の奥底に押し込んだ。
何はともあれ、僕はネリーをバッグに入れて「ちょっと出かけてくる」とだけ言って外に出た。もし仮に、どこに行くのかとか訊かれても答える気はなかった。友達の家に遊びに行くのだとでも思っているのだろう。
自転車にしようかとも思ったが、歩いて行くことにした。急坂があったら歩きより大変なことになるし、歩きの方が色々と小回りも効く気がした。何より、一目散に行くよりも歩いた方がいろんな景色が見えて楽しいだろう。
少し遠回りだけど剣道のとき時間を潰した中州の公園に渡り、そこから向こう岸にかかっている橋を通って2段階で川を渡ることにした。これなら、両方歩行者専用だから車に気兼ねせずにすむ。
川を渡って、川沿いをしばらく川上に向かって歩いたら、道は川から離れて森の中へ入っていく。駅と、その前を通るメインストリートからそう離れてはいないのに、この辺りは本当に静かだ。崩落してくる瞬間に居合わせたら確実に死ねる岩がせり出した崖がこの世とあの世を隔てる門のようだ。くぐって過ぎると、そこはもう昔話の世界。田んぼが広がり、鳥よけの役目は期待できなさそうな案山子が「の」の字の目でアサッテの方向を見ている。匂いにでも勘づいたのだろうか、ネリーの動きがせわしなくなった。周りを見回しても人っ子ひとりいないし、僕はバッグからネリーを出した。
ネリーは久しぶりの空気を楽しむように、いつも僕の前で見せるよりはるかに高く飛んでいって上空を何回も旋回した。空中散歩のころほどではないけどね。それにしても、ずいぶん楽しそうだ。犬を飼っていて、邪魔なものがない広いところでリードから離してやったら、多分こんな風に嬉しそうに駆け回って、飼い主はいまの僕みたいな気分になるんだろう。
「気分はいいか? ネリー」
僕は上空のネリーに向かって大きな声で訊いてみた。誰にもその声を聞かれそうにはなかったし、こんなのどかすぎる場所ではトンビか何かを飼っている酔狂な人と思われて終わるだろう、多分。ネリーは旋回を続けながら、僕の方を向いて両腕両脚をバタバタと振って見せた。嬉しい気分の表現だろうけど、進行方向を向いてなきゃ飛べないというわけではないんだな。
あの川と水源は同じなんであろう用水路が至る所にあった。だから街中の側溝なんかとは比べものにならないくらい水はきれいだ。一応慣れない場所を普段あまりない長距離歩くことを覚悟していたから、今日はスニーカーを履いてきた。時々休憩で、靴も靴下も脱いで用水路の縁に座り、足を水の中に浸けてみた。なんとも気持ちがいい。僕が足をバシャバシャと動かすとネリーは「あ、ズルい、僕もやる!」とでも言わんばかりに降りてきて用水路の水の中ではしゃぎ回った。なんか本当に、行動が犬っぽいな。
そんな感じで気ままにふらふら歩くこと数時間。なんか本当に人里離れてきた。家はまばらになるし道は細くなる。一応、出かけるにあたり地図を軽く見るぐらいのことはしていた。方面的には、こっちへ行くと隣の町へ出てしまうという道は避けた。「市」じゃない本当の「町」で、鉄道が通っていなくて路線バスも数が限られているという、隠遁生活を送るには良さそうなところだ。そっちに行ったら本当に遭難してしまいそうだったので、夜はやっぱり布団で寝たい僕はやめておいた。
「と、いうわけでこっちへ行くよ、ネリー」
行く方面を決めた。バスがずーっと走っていって車庫に入るところがあるが、道はそこからもなお続いている。広い道とはとても言えないが、僕が公立に入っていたとしたら行くことになっていた高校へはそっち方面にずっと走って行く。その道をどっかで折れてその高校に行くバスが、朝だけ僕の家のすぐ前にあるバス停からも出ていた。公共交通機関はそれだけだから、たまに見ることがあったらいつも超満員だ。だからもし行くことになったら僕は自転車通学を選んでいただろうな。
見当としては、僕たちが取る道はある程度の距離を保ちながらそのバス通りと並行に行くはずなんだが、なんだか行けば行くほど登り坂がきつくなってきて周りは木ばっかりになってきて、もしかして遭難コースを選んでしまったかと不安になった。道はますます狭くなってきて、自動車が両方からやってきたらドライバー同士がアイコンタクトで息を合わせて行き違いをする必要がある上級者向けコースという雰囲気が漂い始めた。ようやく登り坂が終わったところはトンネルになっていた。山に穴を空けてコンクリートで固めただけのトンネルで、中には明かりらしきものはない。しかも幅は狭いと来ているから、万が一ここで自動車を運転していて対向車とぶつかってしまったら、熟練ドライバー同士でない限り難しい事態になりそうだ。
そのトンネルを抜けたら、少し道が下りはじめた。登り坂よりはるかに緩いその勾配をようやく脚の力を抜いて歩いたら、目の前の景色も少し開けだした。そして突然、大きな建物が目に飛び込んできた。その建物のちょうど裏手に僕らは出たことになるらしい。
「何だぁ……? この建物……」
なかなか大きくて、しかも見る限り新しそうだ。道はその建物の表側に回り込む道しかなかったので、来た道を延々戻るのが嫌ならそっちに行くしかない。
「マジかよ……」
僕はそうつぶやかざるを得なかった。これは、その公立高校だ。比較的新設の部類には入ると聞いていたが、まさかこんな山奥にあるとは。来た道を戻る以外はバスがその高校にアプローチする道路を行くしかなかったから否応なく僕らはそこを歩き始めた。さすがに、道路沿いはある程度整備されてはいる。だが、そのアプローチ道路は大した急傾斜ではないものの延々下り坂として続いていた。僕は一瞬忘れていたが、このままネリーを外に出しておくのはまずい。高校生たちは、ネリーをトンビと間違えてくれるほど田舎の風景に慣れてはいないだろう。
「ネリー、見られたらまずいから、ここに入って」
そう言うとネリーはおとなしくバッグに収まった。もし犬だったら、しっぽは下に巻いていたに違いない。
結局、高校行きのバスがたどる道を逆にたどって、歩いていて楽しいとは言えない道をテクテク歩いて、バスの車庫前乗り場からバスに乗って家に帰ることになってしまった。
その日の夜、僕はネリーと語り合っていた。
「今日は前半は面白かったけど、後半は尻すぼみだったね」
ネリーもなんだか、疲れているような、がっかりしているような、そんな風に見えた。
「しかし、僕が考慮に入れていた公立があんなところにあるとはね。良かったよ、選ばなくて。自転車通学だったらあの長い登り坂を毎日上らなきゃいけないところだったんだ。朝からそれはキツすぎるよね。しかも雨でも降ったら否応なくあのバスだ。遠いけどほとんどが列車移動だから、今の高校の方が通学はずっとマシだな」
実際、朝の混雑時に2両編成のディーゼルカーを使うというダイヤはJRの人も反省したらしく、2ヶ月ほどで長い編成になった。
「じゃあ明日は、あっちの森に分け入ってみよう。道なき道になるけど、方角さえ間違えなければ私鉄の沿線の方には出るはずだ」
そう言うと、ネリーがやっぱりちょっとだけ元気を取り戻したように見えた。本当に森が好きなんだな。
翌日も、僕にしては早い時間に起きて、行き先を告げずに家を出た。道が途切れ、それをいいことに不法投棄天国になっている20メートルほどを過ぎると、そこはもう完全に獣道。分け入っても分け入ってもどこまで続くか見当もつかない。
こうなってくるともう頼りは森のエキスパートであるネリーだけだ。ネリーはスイスイと木の間を飛び回っているようにちょっと見ると見えるが、その実ちゃんと僕が歩くにも楽なコースを選んでくれていた。ちょっと一息入れたくなったタイミングで少し開けた場所に導いてくれたし、食べられる実があったら教えてくれた。
「いやぁ、昨日の登り坂もしんどかったけど、森の中はまたちょっと別のしんどさがあるもんだね」
実際、道さえあればワンツー・ワンツーのリズムで歩いて行けるが、森の中を歩くには地面の凹凸や傾斜を常に意識して体のバランスを取らないといけないし、場所が場所だけに有毒の害虫とかそういうものにもある程度意識を払わないといけない。
ただ、ここは森である割にはそういう意味では妙にさわやかだった。毒虫であるかどうかは別にして、気持ちの悪い虫がいることも覚悟していたが、意外にもそういうものはほとんど見当たらない。羽虫はいるんだけど、音もなく漂っている感じでなんだか現実感がないとすら言える。身近なところに、こんな不思議な生き物がいるとは思わなかった。
道なき道を行くこと数時間。僕はお腹が減ってきた。手っ取り早くエネルギーになるお菓子みたいなものをなぜ持ってこなかったのだろう? 泣き言を言ってもしょうがない。とりあえずネリーの案内で森を抜けきるしか生還する道はない。大げさか。でもまぁ、ちゃんとした食べ物にありつくには森を抜けるしかないことは確かだ。
さらにいくらかの時間が過ぎた。その長さはもう僕には曖昧だ。疲れのあまりネリーにかける言葉も口数が少なくなって、ちょっと森を見くびっていたことを後悔しはじめたころ、やっぱり木々がちょっと少なくなって空が見え、雑然と不法投棄された家電やバッテリーが広がる場所があり、狭い道が延びていた。抜けたらしい。
細い道から、センターラインがある程度には広い道に出た。どこなのかしばらくわからなかったが、少し歩いたらうちの最寄り駅と行かされていた塾の最寄り駅の間の駅に着いた。なるほど、地図で確認してなんとなく把握はしてたつもりだったが、この2駅の間は線路がものすごく曲がっていて、地図で見るとその曲がっている中に森がめり込んだように見える場所だ。この辺が、この路線と、塾の連中が使っている私鉄が一番近づいている場所ということになる。だから、そこから少し歩いただけで私鉄駅前に出た。この駅は多分この市内最大の駅だろうな。特急も停まる駅だし、駅のガード下や周りには店がいろいろあった。確かにJRの駅は見劣りするだろう。こんだけ近接してあれば2両編成で単線で30分に1本の電車を選ぶ物好きはいないな。終点は同じターミナル駅なんだから。
いま来たこの道を、バスは走ってくる。JRの踏切を越えたらすぐに信号のある交差点がふたつある。そしてこの私鉄駅前のバスロータリーに来る。踏切・信号・信号でふさがれてるから、朝なんか特にバスがダイヤどおりに動かないのは当然だな。そしてこのロータリーはいろんなバス路線の起終点になっていて、バスだけでいろんな方面に行き来できる。確かにこれは便利だ。
うちのある辺りからこの駅までのバスを便利にしすぎたらこの私鉄路線のひとり勝ち状態になるかも知れない。狭くてストップしなきゃいけない場所も多いこの道路は、JRの線路がうねってそれにへばりつくように森がこぶのように盛り上がっているところを回り込むから、直線距離で言うと大したことない1駅の距離をかなり損しながら走っていることになる。
1駅間の距離としてはずいぶん長いことも確かなんだが、これだけの時間を行軍して移動できた時間が電車で言うと1駅というのもなんだか若干虚しい気分になった。でもまぁ、今日の目的は森を楽しむことだしな。
「森は楽しかったかい? ネリー」
そう声をかけると、ネリーはいつもの仕草でコクコクと頷いた。
「そうか。それが何よりだ。だけど僕はもう正直疲れた。帰りは電車で帰らせてくれるかな。バッグに入ってくれるか?」
少し残念そうに、ネリーは僕のバッグに収まった。
2両編成の列車を待って、僕は家の最寄り駅へと向かった。電車に乗ってさえしまえば数分のこの距離を移動するバスを便利にしないのは、便利にしすぎたら人は全部私鉄の方に集まって市としての機能がまるごと引っ越しということにもなりかねないからかな、などと僕は考えをめぐらせた。
自宅の最寄り駅に着いたときには僕の空腹はもう限界で、家に帰るまでの時間が我慢できなかったから例の長崎ちゃんぽんの店に入り、僕の定番の味噌ちゃんぽんと唐揚げを頼んで食べた。なんだか久しぶりに、心底「旨い」と思って食べ物を食べた気がした。本当は、今日はお金を使うつもりはなかったんだけど。
でも、超インドア派な僕もこうやってたまに外で時間を過ごすとそれなりに楽しいこともあるもんだな。なによりネリーが活き活きしている。これから先ずっと一緒に過ごすためには、やっぱりネリーの好みに付き合うことも必要になってくるだろう。となると、大学に進学したらどの辺に住めばいいのか? 大学のレベルや校風も重要だけど、どこにあるかというのも大学選びのポイントのひとつには確実になるな。悩みの種でもあるけど楽しみでもある。
家に帰ったら自覚したが珍しいことをして疲れてしまっていた僕は、食べるものも食べたし眠たくなっていた。だからシャワーだけしたら寝てしまった。親ふたりと顔を合わせても面白いことはないし、それで良かったと思う。
34
中学の最後の1年間は、やたらに模擬テストが多かったっけ。高校に入ればしばらくそれもお休みなのかなと思っていたけど、少し甘かったな。進学を目指すクラスなんだからもう入ったときから入試直前ってことだろうな。
僕は模擬テストではクラスの最上位を取り続けた。何と言っても英語が完全に得点源だった。英語に限れば偏差値は80に近かった。その他、国語の中でも現代文はクラス2位のダブルスコアも珍しくなかった。数学は壊滅的だったけど、それはクラスのほとんどがそうだったから僕が英語で稼いだ点数を相殺するものではなかった。
学校で受けるもの以外に、僕は予備校が行っている模擬テストも受験した。このころから大学入試に「小論文」を課すところが増えてきたからだ。小論文に関しても僕はかなり成績が良くて、英語と小論文しか受験生に課してない大学を志望校にしておいたら予備校が発表する全国トップ30ぐらいには入っていることもしばしばあった。
僕は、年齢的には「団塊ジュニア」の中でもど真ん中ぐらいには入る年に生まれていると思う。両親は団塊とは言えない。僕の両親は団塊より世代的には上だ。だけど結婚も遅かったし、子供がなかなかできなかったから僕が生まれたのは父が38歳の時だ。僕が小学校の5年生か6年生だったとき、理由はなんだったか忘れたがいずれにせよクラス全員の両親の名前と生年が一覧にされたことがあった。僕の父より年上の父親を持つクラスメイトはひとりだけだった。それが前の中学で隣のクラスだった友達のあの男なんだが、類友ってやつだろうか。当時としては珍しい高齢親であった結果、子供である僕は団塊ジュニアど真ん中に生まれることになった。
団塊の世代というのは、戦後の復興のためにも子供を作ることが奨励されて突出して人口が多かった世代だ。その人たちは、生まれたときから労働力として期待されていたと言えると思う。中学あるいは高校を卒業したら、一刻も早く働いてくれ。社会全体がそう思っている時代だった。高度経済成長期の大量生産大量消費時代に入り、単純労働者を求める企業は多かったし、家族経営の店なんかが業務拡大で補助的労働力を求めている時代でもあった。
ここからは僕の想像だけど、そうやって都会へ出て大企業の工場みたいなところで単純労働に就いた、あるいは家族経営から「企業」への転換を図ったところで小間使いみたいな仕事をしていた人たちは「大卒」という名前があるかないかで給料も社会的ステータスも如実に違うということを肌で感じたんではなかろうか。大卒のエリートに顎で使われて悔しい思いをたくさんしたんだと思う。そして思ったんだろう。自分の子供にはこんな思いはさせない。絶対に大学を出させてやりたい、と。
だから、団塊ジュニアである僕たちの世代が高校を出るときというのは、史上空前の人数が大学という教育機関になだれ込む時期でもあった。この大学はこういう校風を持つとか、入ったらこういう勉強をするとか、課外活動としてこういうことが盛んとか、こういう人材をどの方面に多く輩出しているとか、大学にもそれぞれ個性があるだろう。
だけど、高校が進学希望の生徒にやりたい勉強や将来就きたい職業など、いろんな話を聞いた上で「君にはこの大学が向いていると思う」なんて悠長なことをやっている余裕は僕らの時期にはなかった。だから偏差値というものが考え出されたんだと思う。大学の個性も生徒の個性も一切無視して、偏差値という数直線上に生徒を並べて、いい大学から先に上位を刈り取っていく。それが大学入試という儀式だった。国公立なんかは、一次試験とか二次試験とかある程度日付は決まっているけど、私立大学はものの見事に「いい」大学から入試が始まって、年度末に試験が近いほど偏差値が低い大学だったんだから実にわかりやすい。いい大学に落ちた人がその下のランクの大学を受けるというのがもうシステムになってたわけだ。
別にこれを批判しようとは思わない。空前の大量受験生を捌くにはこの方法しかなかったはずだ。だが、僕は後に統計学の初歩の初歩を学ぶことになり、この偏差値という数値の、統計処理としてのチャチ臭さを知って驚いた。幾何学の勉強をするために、まず長さを測ることを覚えましょう、たとえればそのレベルでしかない。
だけどこのチャチ臭い数字のお遊びで出た偏差値という数値に、このころは早い人なら小学生レベルから振り回された。高校生レベルでも、偏差値とは何かをちゃんとわかってたのはほとんどいなかったんじゃないかと思う。特に大学を希望する高校生にとって、偏差値とは「人間としてのレベル」そのものだった。そしてまた、高校でもちゃんと「偏差値とはこういうものだ」と説明して進路指導してた高校はほとんどなかったんじゃないか?
実は、統計というのは嘘をつくのにとても便利なツールだ。ちゃんと調べた信用できるデータですよ、を騙りたいときに統計というのは実に使い勝手がいい。だいたいおかしいと思わないだろうか。たとえば現代国語の問題で「以下の文章を読み設問に答えなさい」というよくある問題だったとする。それが法学部の問題なら「以下の文章」は最近出た興味深い判決の判決文からの一部抜粋だったりするだろう。社会学部なら、社会評論文か新聞記事辺りか。文学部なら誰か著名な文学者の小説からの引用だろう。生徒が受けたいと思うのはこういうバラエティがあるはずなのに、その生徒全員に同じ問題を出して「あなたが受かる可能性はこのぐらいです」と言っているわけだ。そういうことを全く考慮に入れずに偏差値でああだこうだ言ってるのだから、今から考えたら馬鹿馬鹿しい限りだと思う。
だけどこの当時の僕はそんなこと知りもしなかったし、他の多くの高校生と同じように偏差値が上がった下がったで一喜一憂していた。その偏差値に基づいて「お前の数字だったらこのランクだな」と指導されることにも何の疑問も持っていなかった。理系科目が低いから国公立は無理だな、私立で、と言われたら受け入れた。
そんなわけで、僕はこのころから進学希望の大学を私立に絞った。国公立に行けるように理系科目を頑張ろう、とは思わなかった。どこの大学に行っても、奨学金とアルバイトでなんとかするしかないと思っていたし、お金のかかる私立に行って親を苦しめてやりたいという気分も正直あった。
相変わらず、小学生のときに担任だった教師の影響で歴史を学ぶ意義を見いだせなかったから、僕は歴史の時間は寝てばかりいた。だから基本的に、英語と小論文だけで受験できる大学ばかりを選んだ。そして、ヨーロッパ文化への憧れは全く変わっていなかったから、語学教育が盛んで留学制度の充実しているところをターゲットにした。中でも、日本でもトップの私大が新しく作ったふたつの学部は、当時画期的とも言える教育内容だったので僕はそのふたつの学部を第1、第2志望にした。そこは、数学または英語から1科目と、あとは小論文というのが入試だった。また、このころいろんな大学が作っていた新設学部にありがちだったが、そこは都心からかなり距離があって、ネリーの住環境としても悪くないんではないかと思えたところも魅力だった。
実はこのころ、こうやっていろんな大学で新しい学部を作ることが盛んだった。それは多くの場合、なんとなくかっこいいけど結局何を勉強するのかわからないような名前で、そして実際教育内容も結局学生をどこに導きたいのかわからないような学部が多かった。文系なのか理系なのかすら判然としないのだが「文理の枠を超えて知を結集して新時代の学問を創造する」みたいな売り文句が人気を集めてしまった。学問の境を超えるということで一般的に「学際学部」と言われたが、あとから思えばこれは大学が学生数を増やすための言い訳だったと思う。
いわゆる「滑り止め」で社会系の科目が必要なところに関しては、選択肢は少なくなるが「政治経済」を選択できるところを受けることにして、これは直前の数ヶ月で詰め込める科目なので模擬テストの成績が悪くても気にもしなかった。
こんな僕でも模擬テストではシルバートップでゴールドを入れても10位台には入るという状況だったのは偏に英語ができたからだ。だけど定期テストの成績は振るわなかった。一夜漬けすらしないのだから当たり前の話だ。シルバーの中でも成績優秀者として授業料が全額免除になっていたけど、教員会議では僕の定期テストの成績が悪すぎると問題視されていたらしい。担任が頑張ってくれたおかげで僕のその扱いは変わらなかったわけだが、僕は担任に呼び出されて事情を聞かれることになった。僕は詳しい事情を説明しなかった。自分でもやる気にならない理由を明確にわかってなかったんだと思う。だから僕は「免除がなくなっても構いません」とふて腐れることしかできなかった。
だけど思う。僕が普段どんなことを考え、どんなことに悩み、どうなりたいと思っているのか、ちゃんと知ろうとしてくれている大人が僕の周りには誰もいなかった。学校の先生はテストの成績を見て評価するのが仕事だ。点数ばっかり追っかけている教師に当時は反感を抱いたけど、それで役割は果たしてる。親戚が僕のことを気にかけるのは嫌になることも多々あったが、制服をお世話になった伯父さんみたいな人もいるから無碍に拒否するわけにはいかない。そしてやっぱり、親戚に「僕のことをちゃんと見てくれ」と要求するのは筋違いだろう。
結局のところ、親だよな。相変わらず、僕に対しては「エサはやってるんだから飼い主として文句言われる筋合いはない」的な接し方しかしていなかった。僕が何を考え、何に悩み、何になりたくて、いま関心があることは何で、というようなことに全く関心を持っていなかった。英語と小論文の成績は良かったから、第1、第2志望の2学部に関してはいつも模擬テストで合格可能性80%という数字が出ていた。それを見て、僕の親は何と言ったと思う? 「いつも80%ちょうどやな」だ。毎回小数点以下まで合格可能性を計算しているわけではなく、ぼんやりとの指標として80・65・50・40とかなんかそんな感じの何段階かの数字、なんなら可能性ABCDEでもいいものを出すのが模擬テストだということすら知らなかったのが僕の親だ。口先だけの「お前が一番大事」に全然実質を伴っていなかったのはひしひしと感じる。
だいたい、僕がネリーと一緒に毎日を過ごしていることにまるで気がついてない。このころ僕の考えを一番よく知っていたのは多分ネリーだろう。ネリーはしゃべらないからどこまで知っていたか全部はわからないけど、なにせ僕の好みのタイプすら正確に把握していたぐらいだからな。僕という「人間」に、関心を持っていた「人間」はひとりもいなかった。
このころの経験が結局尾を引いているんだと思うけど、親というのは子供の考えてることを理解することはあり得ないと僕は思う。だってそうだろう? 自分の考えていることを完璧にこの人はわかってる、という人が、あなたにはいるだろうか? いないだろう? 相手のことが本当はわからないから、僕はこう感じこう考えます、ということを伝えて、あるいはそれを相手から受け取るために言葉というものは存在する。相手をわかろうとする努力は、相手のことがわからないということを認めることから始まる。そういう意味で、親というのは単なる「一番そばにいる他人」だ。だけど、親子であるということを何か特別なことだと思っている僕の親は、僕の親であるというだけで僕のことはすべてわかってる気になってるのは明らかだった。親子だから家と土地を遺してくれるはず、と信じていて裏切られたことからなんにも学んでいない。
親であるというだけで僕に対して特別であるつもりでいるこの親は、子であるというだけで特別なことをしてくれるものだと思って僕を育てているだろう。そういう将来のことを思うと、僕は気が重かった。
35
高校は、明らかに親の役割を重視していた。家庭における学習・生活態度というものを、学校での授業以上に重視していたと思う。なぜそれがわかるかというと、親を交えての3者面談が頻繁に行われたからだ。
1学期の期末テストが終わったあと、予定どおり3者面談が行われた。クラスは34人であることは前にも話したけど、僕らの年代としては、1クラスの人数は少ない方だったと思う。だけどその少ない人数を、3日か4日かけて行うというかなり時間を取っての面談だった。
理由はもう忘れた。だが、そのとき母はどうしても面談に出る時間を取ることができなかった。だから父が3者面談に来た。面談の内容なんかももう忘れた。とりあえず強く印象に残っているのは、それはこの日がお祭りの日だったということだ。日本三大祭りのひとつに数えられるこのお祭りの一番の見物。様々な美術品で飾られた山車が市内を行列になって行進する。
僕はその日、朝一番の面談が設定されていた。長い面談だと言っても、午前中早くには用事は済んでしまう。だから、せっかくだからお祭りを見に行こうということになったわけだ。
世界中に名前を轟かせるこのお祭りを見に行くことができる絶好のチャンスを得た僕が内心考えていたのは「ブロンドのきれいなお姉さんが挙って見に来ているに違いない」だった。おそらく、年間通して一番外国人観光客が集まるのがこの日だろう。だから僕はワクワクしながら路線バスに乗って市の中心まで出たわけだ。
多くの人が見に来るので、広い通りのいいポイントにはパイプ椅子が並べられて有料観覧席が作られている。当然だがそういう観覧席を買う余裕はないし、そもそもそういう席は有力旅行代理店が何ヶ月も前から席を確保してて当日券なんかあるはずない。だから僕たち父子は有料席の後ろに立ち見で陣取り、祭りのクライマックスを見ることにした。
僕の目論見どおり、町中は至る所ブロンドの美女ばかりで、僕はこの幸運に感謝した。しかも暑い時期だからみんな薄着で、健全な男子高校生として僕はもうウハウハ状態だった。
だが、この日の幸運はむしろこのあとの方が本題だった。目の前のパイプ椅子に座っている団体さんは、まだいくらも祭りが進行していないうちにその場を立ち去ってしまったのだ。有料席は時間貸しではない。その日1日分の料金を取って確保してあるものだ。そこにあとから誰か来る心配はない。ということで、僕らは祭りのほとんどを、本来なら高いお金を出さなければ座れない特等席で見ることができたわけだ。
本当に「いい」と思ったもの、たとえばそれが絵画であったり、放心を感じさせる隙のない動きであったり、圧倒的な説得力を持つ文章であったり、視覚以外でもこっちの感情など粉砕してしまうような迫力のある歌声であったり、何にせよこちらが予想すらしていなかったレベルで「いい」と思った対象に対しては、人間というのは沈黙することしかできないと思う。
で、何が言いたいかというと、僕は沈黙してしまったということだ。目の前に現れた山車が飾られるために使われている、世界中から集めた宝物の数々の前に。毎年全国規模のニュースになるし、地元の独立U局では一日中生中継だ。だからテレビで見たことはたびたびあった。でもやっぱりテレビは見たうちに入らないのだな。僕は露出度の高いブロンド美女のことなどもうすっかり忘れていて、目の前を流れていく美術品の数々にひたすらに魅入られていた。
地元の人間は地元の伝統行事などにあまり関心を持たないのは全国どこでもそうだと思うのである程度は仕方ないとは思うのだが、それにしてもこれほどに華麗にして荘厳なイベントに対して、地元の人間は少し無関心すぎやしないだろうか。絶句するほど美しいものを、こうやって誰もが見える公道上に走らせるという、世界でも類例を見ないかもしれない行事なのに。
何も行事に限らない。僕はふらっと、中心からは外れたところにある小さい寺に入ったことがある。日本で剣豪と言えば誰もが最初に思い浮かべる人が、初めて自分の剣のヒントをつかんだとされる場所だ。昔は松の木が1本あるだけの寂しい場所だったそうで、だからその松がいまでも地名になっている。そこであったという果たし合いは国民的歴史作家の代表作の中でクライマックスのひとつで、果たし合い自体がその松の木の名前で呼ばれる。そういうゆかりのある松の木ではあるが、いまは住宅街の中にひっそりと立つ何代目かの松であり、ハッキリ言っていくらか立派な盆栽程度のものでネリーの森にある松の方がはるかに立派だった。
だからこれだけ見て帰るのでは何か損をした気がして、僕は周囲を歩き回って見つけた小さな寺に入ってみたのだ。こぢんまりとしていたが庭がとてもきれいで、庭を見渡せる部屋の畳の上に正座していると、なぜか居住まいを正さざるを得ない何かを感じると同時にすごく心安まるものも感じた。あれもひとつの美しさだと思う。
人工物に限らない。僕が前に住んでいた街は、日本最大の平野の中にあったから景色はどこまでも家・家・家だった。だけど、僕がいま住む市にしても、県庁所在地にしても、周囲を山で囲まれていて周囲の景色は必ず山の稜線というのを背景に伴う。中学生のときは、とにかく周りがみんな敵だったから山の稜線を眺めて「これは僕の景色じゃない」と思ったものだが、それは我ながら「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」が行き過ぎた形だったと思う。冷静に見てみれば、中学校のときに行かされたスキー旅行の時に見た山々と違って切り立ってなくてなだらかな稜線は、朝焼け夕焼けのときなど特にきれいだ。昔の貴族が褒め称えたのも気分はわかる。
何もかもが憎かった中学生時代は美しさに気づくことすら内心で拒否していたんだと思うが、とりあえず一息つけるようになったいまだからこそ僕は認めようと思う。以前住んでいたところは、街自体が新興住宅地だったと言っていい。どこまで行っても、同じような家が建ち並んでいた。どこまで行っても似たような家が並んでいる割には、一軒一軒の家は何だか無用な自己主張をしていて、整然としているという感じではなかった。ゴチャゴチャしていた。
それに比べると、歴史に裏打ちされていて本当に昔ながらの町屋が並ぶ区域もあり、そこここに歴史的な建造物が建ち並び、周囲はなだらかな稜線を持つ山を背負った景色がほぼどの方向を向いても見えるこの街は、確かにきれいだ。歴史と文化では、以前住んでいたあの街はこの街に逆立ちしても勝ることはないだろう。しかしこの街の人間は、そういう重厚な歴史と文化に裏打ちされた都市に住むことができている幸せについて自覚しているのだろうか?
僕が特に反感を覚えるのが、この街の人間が使っている言葉だ。母方の祖母は生粋のこの街生まれこの街育ちだったから、この街本来の言葉を使っていた。丸メガネをかけていて、受けを狙うわけではないが何気なくつぶやく冗談がとても面白い、そしてときには真理をズバリと突く鋭さもあるおばあちゃんだった。その祖母の、上品で可愛らしく、それでいて一本筋の通った話しっぷりが懐かしい。いまのこの街の人間が使う、ガチャガチャとうるさいだけで品性も知性も感じさせない、それでいて親しみやすさとか面白さとかを無理矢理押し売りしてくるような言葉をどうしても好きになれない。これはテレビの三文芸人が「オモロイ自分」をごり押しするためにテレビの普及とともにごくごく最近作られた俗語だと思う。
世間的なイメージは歴史に裏打ちされた部分によっていて、上品な言葉というイメージが全国的には強いらしい。だけどいまは日本の中でも最下位を争うぐらい汚い言語だと思う。その雑音のような会話から逃げたいと思う意味でも僕はこの街を離れることをやっぱり考えてしまうわけだが、それを全く覆す存在にこのあとまもなく出会うことになるとは、僕自身全く予想もしていなかった。