生きてくれて、ありがとう
つらいことが重なった。男は死のうと思った。
死に方についてはいろいろ考えたが、飛び降りや電車への飛び込みは嫌だった。練炭のような、死までがだらだらと長いのも嫌だし、かといって血が滴るような死に方も嫌だ。
首を吊るのがいいだろう。台所の床下収納に、なぜか荒縄があるのを思い出した。二階の一室がちょうどあつらえたように天井が高いからそこがいい。幸い、今日は家族もすべて外出していた。
床下収納はもう何年も開けられた形跡はなく、黴のように繁殖している埃と、なにかがこぼれているのだろうか、べっとりとした地面には干からびた虫の死骸が一匹、仰向けになっている。
あるいは縄にそんな虫が無数にたかっていたら、男はこの時点でここを閉めたかもしれない。しかしそれは男が数年前に見たままの場所に、見たままになっていた。
上半身を床下に沈めて腕を伸ばす。……と、荒縄を持ち上げた手になにかが触る。
封書であった。荒縄を持ち上げると引っかかっていたそれが落ちてくるという、明らかに意図的なつくりがされていた。
いぶかしげな表情を浮かべつつ、それを荒縄よりも先に拾い上げ、表に裏にひっくり返してみる。宛名も何もない、ただ白くて四角い封筒。煤けたこの収納室にそぐわないほどに小奇麗な代物だ。
男はためらいもなく封を切ることにした。今から死ぬのだ。これが誰宛でも、好奇心を優先するくらいは許されるだろう。
数枚の手紙……その字には見覚えがあった。それだけに、男は呆気に取られることになる。
『拝啓、死ぬ直前の僕へ』
……そう、自分自身の字だ。まぎれもない。日本人をすべて集めたら、似たような文字を書ける者もいるかもしれないが、そのような偶然を探すよりも自分の字であることを信じるほうがよっぽど簡単だった。
男は、どう思いを巡らせても書いたことのない自分への手紙を読むために、思わず座りなおしてしまう。
『僕は、君にこれから起きることを書き綴りたいと思う』
書き口がまるで未来から俯瞰しているようだ。
『……大学を中退した君はイラストレーターを目指しながらスポーツジムに通い始めるんだ。駅前、デパートが潰れてるだろ? あそこにテナントが入る』
ありえない。イラストレーター?スポーツジム?……まったく発想にない。
それにしてもへたくそな字だ。それなのにワープロではなく手書きにされていることが意味不明だが、しかし彼には、その理由が分かる気がした。自分に自分が書いていることを信じさせるためだろう。自分ならそうする。
『君はそのスポーツジムで、ステキな出会いをする。中学の同級だった幸恵さんを覚えているか? いや、覚えてるね。彼女がそのジムに入会してきたんだ。しかもなんと彼女から声をかけてきてくれたんだぞ』
幸恵は、月並みかもしれないが中学の頃、ひそかに想いを馳せていた同級生だ。明るく気立てもよかった。ただ、あまり話す機会はなく、同じ委員会にいたころに事務的な会話を多少しただけの仲だった。それだけに自分のことなど覚えているはずもなかったと思えたが、事実なら少しうれしい。
『僕らは懐かしい話で盛り上がって……毎週一度はかならずジムで会うようになった。彼女はあいかわらず魅力的だったよ』
「"だった"ねぇ……」
過去形であるところから彼女との結末を知った男は「フン」と鼻を鳴らした。もう旦那がいたとか、大方そんなところで関係は断ち切られたのだろう。
『……そういえば僕、ここ読んでるとき彼女に旦那がいるからうまくいかなかったと思ったナァ……』
「ぶっ」
思わずふきだした。
『ところがそうじゃない。彼女の親父さんが急逝してしまって、島根の実家に戻らなきゃならなくなってしまったんだ。結局あの時も告白どころか連絡先一つ聞けなくて……本当にそんな自分が今でも嫌いだ』
男はそろそろこの手紙の信憑性について疑うことをやめることにした。文面から伝わってくる表情がまったく自分のものだし、考えていることを先読みされてもいる。
不思議だが、不思議なことが起きてると思うほうがこの際面倒がなかった。
だが……それを踏まえても不可解がある。
『君は……僕はその後も何も変われず、そんなふうに終始うじうじしてうまくいかず、イラストも泣かず飛ばずで、毎日の生活も楽じゃない』
これが本当に未来からの手紙だったとして、意図がわからない。……何のために書いた?……未来の自分はそれを悔やんでいて、彼女に告白をしてくれという気持ちを込めてこれをしたためたのだろうか。それとも、このような薄っぺらい未来を告げて、迷いなく死ねるように後押しをするための手紙なのだろうか。
『でも……僕は君に感謝しているんだ』
「感謝?」
疑問符の消えない男の脳裏が、"感謝"という文字を音読させた。
少しだけ読むのをやめてその言葉の意味を探ってみる。が、どうにも思いつかず、結局真っ白なまま読み進めるしかない。
『感謝というか…………いや、やっぱり感謝なんだろうな。つまり君は今そこで死ぬことをやめた。だから今、僕はこれを書いている』
「なんだ……」
男はまた鼻を鳴らす。思った以上に当たり前のことを書かれてうなだれた。死ななかったから手紙が書けるのは道理だ。
しかし、おかげで別の疑問に気付かされる。
自分はなぜ、死ぬのをやめたのか……。
手紙は死のうと決心した理由を消化するような内容ではない。さらにこの手紙が語っている未来は、決して希望に満ちたものでもなかった。
なぜなのだろう。その秘密を手紙が今から明かしてくれるのだろうか。
男の、手紙を握る手は心なしか力が入った。知りたい。未来の自分が何を考えたのかを。今の自分が何を考えているかを。
……不思議な矛盾を抱えながら、彼の目はさらに文字を追おうと躍起になる。
しかし……手紙は後一文を残して、筆が断たれていた。
『僕の気持ち、今は分かるまい。でも一言だけ言いたい。
生きてくれて、ありがとう
十五年後の僕より 』
……彼は最後の一文を五度ほど読み返した。そして眠たそうな顔をして手紙を封筒へ戻す。床下収納のフタを閉じ、彼は立ち上がって自室に戻っていった。
手紙を送ったのは自分なのだから、彼の気持ちは、生きていればいつか分かるのだろう。釈然としない今の気持ちのまま死ぬことはできない。




