1話 朝の喧騒
世界が暗転する。
空には雲がかかり、地面へと影を落としている。破砕され、陥没している地面に倒れる人影。その下では、水たまりが如く赤黒い液体が滞留している。
とめどなく溢れる異形の者たち。世界を、人々を蹂躙するそれは、けたたましい咆哮を上げている。
それらの中心に、まるで守られているかのように囲われている人物がいた。
その顔に表情は無く、その仕草に気迫は無く。
……カ……君! ……君が、……界を…………んだ!!
それは全てを託す願いの言葉。叫びとして受け取った。彼の者は向かう、いつかの場所へ。
……君に…………でき……んだ……
チュンチュン。チュンチュン。小鳥の囀りが朝を彩る。
「……んっ……ふぁぁ……」
お目覚めである。
陽気すぎる小鳥の囀りで目を覚ましたのである。実に良い気分だ。気持ちのいい目覚めとはまさにこの事だな。
だが少し……何か違和感を感じる。何だ? いまいち覚醒しきってないから思考が纏まらない……何か長い夢でも見ていたのだろうか?
ま、考えていても分からないし大人しく起きるか。
ベッドから上半身だけを起こし、目をこすり欠伸をする。
眠気眼のままボリボリと頭をかき、暫くぼーっとする。
やはり駄目だ。なんかこう、目覚めが良いはずなのに目覚めが悪い。いや、目覚めとしては本当に良い。ここ数年でもこんなにも気持ち良く目が覚めたことはないくらいにだ。
確かに眠い。だけどそれも少し経てば気にならなくなる程度のものでしかない。
じゃあこの目覚めの悪さは何なんだ。良いはずなのに悪い。意識が若干はっきりとしない……? 靄がかかったような、そんな感じだ。
とは言え次第に眠気が取れてくるから不思議なもんで。とりあえず朝の支度を済ませよう。
そう思った俺は部屋から出ようとするが、その途中で勉強机の角に腰をぶつけてしまった。痛え。
部屋を出てすぐ右を曲がると、右手に妹の部屋が見えてくる。そこを当然素通りし、階段を下──ろうとした俺の足に、バンッ! っと勢い良く扉が開き、足の小指が爆発した。
「ッッ!?──くっ──」
しばし悶絶。
覚醒しかかっていた俺の頭は、突然な訪れた強烈な痛みによって完全に目が覚めた。
声にならない叫びをあげ抗議しようにも、足を抑えるので精一杯だった。何故さっきからこうもぶつけるのか、こりゃなんか憑いててもおかしくねえな。
「!?……ごめんねお兄ちゃん!! 大丈夫……?」
すでに着替えを済ませたのか、白の肩出しトップスに紺のショートパンツ、綿素材の黒いニーソックスというなんとも言い難い格好の、6月で11歳になる小学五年生、我が妹である小鳥はドアノブに手を掛けたまま上目遣いで言ってくる。
「大丈夫だ! うん! 右足の小指をちょっと勢い良くぶつけただけで、全っ然これっぽっちも問題ないぞ!!」
「痛かったんだね……ごめんね本当に」
虚勢を張って痛みを紛らわそうとしたが痛いものは痛い。だけどそこは兄として譲れないもの(?)があるってもんで、心配をかけないためにも「大丈夫」と言うしかない。
「本当に大丈夫だから気にするなって、それよりも随分と今日は早く着替えてるのな」
「……え?」
「え?」
俺の言う事が分からないです、って顔をしながら小鳥は大きな目をぱちくりしている。数瞬考える素振りをし、あぁ~と何か納得の息を漏らす。
「お兄ちゃん今何時か知ってる?」
「何時って、いつも通り7時だろう?」
そう言うや小鳥は深く息をついて俺の顔を哀れみの表情で見てくる。そんな表情いつの間に覚えた。
やがて、やれやれと言いそうな空気感で肩を竦めていた。
おい何だ? どうしたと言うのだ一体。
「それのもう40分は過ぎてるよ、お兄ちゃん」
え? よ、40分!? 何語だそれは!?
「てこは今は7時40分なのか!?」
「だからそうだって言ってるじゃん。時間ぐらいちゃんと確認しなよ……」
ツーッと頬を嫌な汗が伝う。口をすぼめて、目をぱちくりさせている俺の顔を見て、妹はふっと鼻で笑う。
いつも7時に起きている俺にとって、この40分というロスは非常に痛い。
くそう朝ごはんを食べている暇も無いではないか。これは早急に身支度を済ませなければ間に合わないぞ。
「小鳥、教えてくれてありがとうな! クラスの男子の目線に気を付けて学校行ってくるんだぞ!」
そう捨て台詞を残して、俺は一気に階段を駆け降りる。
「う、うん……どういたしまして……?」
トイレへ用を済まし、バシャバシャと顔を洗い改めて目を覚ます。歯を磨き寝癖を直し着替えを済ます。ここまで10分。かなり時間を使っているがまだやる事が残っている。
「あら雷架おはよう、線香はもうあげた?」
「おはよう母さん、今からやるよ」
居間の端にある仏壇の前へ行き正座をし、線香を手に取り火をつけて消す。
白い煙が独特な匂いとともに広がるのを見て、もう煙なんか見たくないんだろうけどなと思いながら手と手を合わせて合掌──
「父さんおはよう。今日は何故か何時もより40分も起きるの遅かったんだ……おかげで母さんの美味しい朝ご飯が食べれなかったぜ。今日1日乗り切れる気がしねぇや……まぁでも今日は健康診断だけで終わるらしいから男たるものなんとか耐え忍ぶぜ」
この場では暗い顔はしない。極めて笑顔で報告をする。
俺の父、扶來学徒は5年前である2023年12月24日に爆発事故で亡くなった。
父さんの研究所はこの町、夢咲町にある。10年近く前からは二駅先の叶訪という町に貸し与えられていた研究所に入り浸っていたそうで、そこで起きた爆発事故に巻き込まれた……原因は何だったのか詳しく聞かされていない。設備不良によるガス漏れ程度しか報道されていない。何故自分の研究所ではなく、他人の研究所にいたのか。一体何の研究をしていたのか。その真実はもう、爆炎と一緒に燃え消されている。
いつも通りの、朝の日課。
普段ならば朝ごはんを食べてゆっくりするだけの余裕があるのだが今日は忙しない。なんせ40分の寝坊だからな。
「それじゃぁ母さん、行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃい」
用は無いだろうが手持ち無沙汰になるのが嫌だから鞄を肩にかけて家を出る。
そしてヘッドホンを取り出し耳に当てる。騒がしかった朝の喧騒も穏やかな丘陵にいるような爽やかで清々しくてそして神聖なものと変わる。感覚が研ぎ澄まされる。
そしてゆっくりと空を見上げて深呼吸。
「「雲ひとつない綺麗な青空だ(ね)」」
と呟く。小っ恥ずかしいセリフが綺麗に同調した。声の方向へ顔を向けるとそこには、俺と同じ学校の制服に身を包んだ者がいた。いや、正確に言うと、下半身に身につけているものが違うな。俺がズボンなら、今目の前にいる奴はプリーツスカートだ。
「ライ君おはよう!」
肩まである栗色の髪をふわふわと揺らしながら笑顔で挨拶をしてくるこの女子の名は、舞園桜。
第一印象としては明るい女子。
およそ出会った数秒で嫌いになる人はいないだろう人懐っこい笑顔をする奴だ。
いざ口を開けばただのアホっていう奴なんだけどな。
そんな桜は今年の3月15日、春休み中に隣に引っ越してきた。
なんとも、舞園家は日本舞踊の名家らしく、何処で知り合ったのかは知らないが(興味ないが)桜の父は日舞の先生で桜の母である舞園瑠歌に一目惚れして、日舞の教室に通い詰めたらしい……そして結婚するまでに至り生まれたのがこの桜である。聞いても無いのに話されたから知ってるだけだぞ。
その舞園家はこちらに越してきた後、小学校の近くに小さい教室を開いてるらしく、その年代層はまさに子供から年寄りまでと、名家といわれるだけあってたかだか一カ月程度でそれはもう十分すぎるくらいの人気だそうだ。因みに桜もそこに通っており、その実力は本物らしい……本物ってなんだろうな。よくわかんねえや。
「おはよう舞園さん」
今しがた耳に当ててたヘッドホンをとりながら挨拶。
因みに念のために言っておくと「ライ君」というのはこいつが勝手に呼んでいる俺のあだ名だ。まぁあのひどいあだ名と比べれば月とスッポンだがな。
にしてもこいつとの出会いは越してきた次の日、3月16日の朝のことだった。
珍しいことに先ほどと全く同じ状況だった。唯一つ服装を除いてな。
それ以来会うのは高校の始業式、つまり4月5日で今日会うのはそれらを含めてまだ4回目だというのにこの馴れ馴れしさはきっと人のよい性格からきているのだとは思うのだが、ライ君呼ばわりにはびっくりだ。
なんとも「ふらいらいか君? んーっとそうだねぇ~言いにくいからライ君でいいよね!! よろしくね!! だから私のことは──
「っもう~私のことは桜でいいって言ったじゃん~」
ぷくーっと頬を含まらせて口を尖らし抗議の声を上げる桜。ぷんぷんという擬音が聞こえてきそうだ。
「そんないきなり呼べるかとも言ったぜ俺は」
「じゃぁゆっくり呼んでみてよ、はいっ! さ~く~」
「そういう問題じゃねぇ」
遮るようにぴしゃりと言い放つ。急にしゃがみこんだと思ったらガーンという疑問が聞こえてきそうなほど分かりやすくショックを受けている。
「そんなことよりはやく行かないと遅刻するぞ?」
「ハッ! そうだった、えへへ~それじゃぁ……一緒に行こ?」
しゅぴーんという疑問が聞こえてきそうなほど分かりやすく元気に立ち上がり、聞く人が聞いたら勘違いしそうな雰囲気を醸し出しながら言ってくる。
家から学校までは歩いて20分弱と遠くも近くもない微妙な距離である。学校へ行くためには急な坂を登る必要があるため自転車では行かない。勿論自転車の人もいるが正気の沙汰とは思えないね。
因みに今の時間は7時50分、学校は8時20分に出席をとるためまだ30分の猶予はあるが──
「あぁ~ここの踏切ホント長いんだよね~忘れてたよ」
がっくりと肩を落とし独白する桜。
そう、家から約5分商店街を抜けた先には、やたらめったに長いと地元で有名な踏切がある。
そこを渡りまた5分行くと急な坂が現われる。そこから約10分登り学校へ到着するため正味20分弱ということだ。しかし、ここの踏切に足止めされるとそれもうまくいかない。
「そういえば、今日の健康診断ってMRIを使ったものらしいな」
ふと昨日担任の先生が言ってた事を思い出す。
「えむあーるあい?ってなーに」
桜は小首を傾げて聞いてきた。小動物のようによく動くやつだ。
「ほら、よくテレビとかでみるやつだよ。寝そべって変な輪っかみたいなのに頭とか体とか通してレントゲンみたいに断面をみるやつ」
こんな説明で伝わるのか分からないが一般高校生の認識なんてそんなものじゃないか?
言ってる間にガタンゴトンと音を立て電車が通過する。風が吹き、俺は髪の毛を抑えながら嘆息する。
本来なら電車が通過すれば踏切は開く。しかし、ここの踏切の場合はそうじゃない。いや、通過すれば開くと言うことは当然としてそうなのだが、電車と言うのはなにも一方通行なわけではない。右から来るのもあれば、左から来るのもある。更に言えば快速だってある。
そのため、此処の踏切がまだ開かないことは長年の(地元民なら小、中学時代もここにはお世話になる)経験で分かる。ほら、またカンカンと鳴りだした。
「あ~あれね~! 変な所にお金かけてるんだね。でもそれってすごい時間かかるんじゃない?」
言われてみればそうじゃないか、何故今まで気づかなかったのか……お腹の調子を思い出す。
――父さん、俺今日乗りきれないかも……。
決して心地のいい音ではない踏切の警報音を聞きながら辺りを見回すと、いつのまにか人が集まっていた。皆同じ思いを抱えてここにいる。ただその先へ行かせてくれと蜘蛛の糸に群がる地獄の罪人のよう。
思い報われやっと踏切が開くと、小学校の登校班、仲良くはしゃぐ中学生、朝からいちゃつくカップル、時間に追われているサラリーマン、腐敗臭を撒き散らすゴミ収集車など様々な「朝」がごった返していた。さながらそれはこれから向かう戦場への行軍だった。
「ふはぁ~やっぱすごいね~これ」
「まぁな、毎朝毎朝これなもんだから慣れるけどな」
「そんなものなの?」
「そんなものさ」
「じゃぁ毎朝毎朝私の名前を呼べば慣れる?」
「毎朝毎朝呼びたくねーよ」
「ひどい……」
先ほどまでの元気は何処へやら、しゅんと潮らしくなる。全くやりにくいったらありゃしない。
そんな会話とも呼べぬような会話をひとしきり終えていよいよ急な坂を登る、こればっかしは毎朝毎朝だろうと慣れない。
周りにいた人たちとは自然と道を分かれて、気づいたら自分と同じ制服を着た高校生で溢れていた。流石にまだ見慣れた顔はいないなと周りを見回しながら思う。
「よっ! イカフライ君」
と、そこでいきなり後ろからバシっと肩を叩かれる。
誰だ痛ってえな。
俺は眉間に皺を寄せ目を細めながら後ろを振り返る。
「おっおいおい、そんな怖い顔しなくたっていいだろうが」
切れ長の双眸を細め、おどけた調子で言う。まるでアメリカのコメディアンのように両手をひらひらとさせたそいつは、ニィッと口角を上げている。
こういった仕草が似合うのはあれか? イケメンだからか?
「人の事を揚げ物呼ばわりしといてそれはないだろ三浦」
「でもさー『ふらいらいか』ってどう考えても言いにくいし噛みそうじゃん? 入れ替えれば見事に『イカフライ』だし! あだ名だよあだ名、ダメか?」
と、舞台俳優のような仕草で言ってくる。高校生活3日目で随分堂々とした態度じゃないか。あれか? イケメンだからか? ん?
三浦風人。こいつとの出会いは一昨日、そう一昨日である。始業式に長い前髪を指ではじきながら、「扶來雷架くん……って言うんだね面白い名前だな!」とか言ってきたのである。
クラスが違うから名前なんか知らないはずだが……少々不気味な奴でもある。
「いやいやわざわざフルネームで呼ぶ必要はないということに気づけよ皆!! 雷架ならそんなにいいにくくはないだろ!」
実は小学校も中学校もこのあだ名で呼ばれていた。
ことあることにイカフライイカフライって……。給食などでエビフライが出ると、イカフライがエビフライ食べてるぞーってからかわれたりなんてのはもう呆れるほどだ。
まぁ世の中いろんな人がいるから、あだ名が奇妙な人だってそりゃいるだろうさ。いるだろうけどさ……イカフライはなくね? 長いうえに食べ物だぞ? 人様の名前を呼ぶ上で食べ物を引き合いに出すとは何事だ。
「桜さん」
と、そんな俺を無視して、三浦は桜へと話しかける。不意に名前を呼ばれた桜は肩をビクッとさせて「はいっ!……?」と返事する。
「そんな緊張することないっての。桜さんは、『扶來雷架』どう思う?」
ん? 何だその抽象的な質問は。まるで珍獣とっ捕まえて意見を伺っているようじゃないか。
桜も流石に意図を理解出来なかったか、んー? と唸りながら俺の顔を見ている。そして沈黙のまま歩く時間が続く。
頼む、何でもいいから言ってくれ、この時間割としんどいぞ。
「ライ君は、ライ君かな」
ようやっと絞り出した答えがそれだった。まるで長年の付き合いある親友のような妙な説得力と安心感を持っていて俺も三浦も固まってしまった。
「ぷっはははは! そうだね、よく分からないけどきっとそうなんだろうね」
何か釈然としないが楽しそうだからまぁいいか。
そんなこんなしてるうちに我らが高校夢咲高等学校に着いた。




