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歌いたくなかった。
こんなわけのわからない者達に向けてなど、歌いたくなかった。
まったく歌い出す気配のないルファに、会場がざわつく。
客達は、なんだ、どうしたと囁き合い、司会者は困惑した様子でルファを急かす。
「ほら、早く歌え! 歌えってば!」
舞台袖に控えたバセット夫人に視線を向けると、彼女は顔を怒りで真っ赤に染めていた。
バセット夫人はそばにいた男になにかを伝えた。
ホールが本格的にざわつきだした時──ルファに近づいてきた仮面を被った男が、手に持ったそれを振るう。
空気を斬り、ルファの背中が鋭く叩かれる。
歌わないと鞭で打つつもりだったのだろう。
悲鳴が上がり、痛みに涙が浮かぶ。
だが、客達はこれも余興の一つと考えているらしく、愉快そうに笑っているだけだ。
歌え、と男は低い声で命じ、もう一度鞭を振るう。背中のドレスの装飾の生地が破れる音がした。
なんて酷い男だろうと悔しく思う。これでは、ルファは歌うしかない。ルファのわがままなど許されない。
胸の前で手を握りしめて自分を勇気づけ、ゆっくりと深呼吸をして震える唇から声を絞り出そうとした──その時。
ホールの二階にある扉が、いきなり乱暴に放たれた。
「全員動くな! 逃げようとした者は即刻首をはねる!」
勇ましくそう宣言して剣を掲げたのは、騎士服を纏ったティセルカだった。
ティセルカの背後からは続々と兵士達が現れ、サルークの姿もある。
「全員捕縛しろ!」
兵士達がなだれ込み、仮面で素顔を隠していた貴族達を次々と捕らえていく。
中には逃亡を試みる者もいたが、首をはねると言う言葉がきいたのか、躓いたりして、結局すぐに捕らえられた。
「ルファ、逃げるよ!」
バセット夫人が仮面を付けて舞台袖からこちらに来て、ルファの腕を掴む。
「ほら! 早く立ちな!」
バセット夫人が強引に立たせようとした時──バン、と大きな音を立てて放たれたそれは、夫人の仮面の頬を掠った。
「止まれ、動くな。……次は当てるよ」
舞台の方へとゆっくり歩いてくるのは、全身をいつものように黒く包んだロジェだった。
彼の手に握られた銃。その銃口は寸分も狂わずバセット夫人に向けられている。
「その手を離せ」
低い声でバセット夫人に命じ、彼女の手が離れた途端、ルファはロジェの元へ駆けた。
「ロジェ!」
ルファは伸ばされた彼の手を握り、背中に隠れる。
ロジェは近くにいたサルークにバセット夫人を捕らえるように言い、逃げる気も失せてその場に立ち尽くす彼女を捕縛した。
「どうしてこんなことに……おかしい。どうして、どうして……」
壊れたようにそれだけを繰り返すバセット夫人は、ふと視線を上げて、入口でこちらを見 下ろすエリーチェを見つけ、顔を歪めた。
「お前か! お前が仕組んだのか。すべてお前の……っ、この疫病神!! お前なんて産まなければっ! 産まなければ良かったんだ!!」
産まなければ、とひたすらエリーチェに向けてバセット夫人は叫ぶ。
エリーチェは少しだけ俯いて、踵を返してホールを去って行った。血は繋がっていないとエリーチェは言っていたが、本当は実の母娘だったのではないだろうか。
それを思うとルファまで気分が暗くなる。思わず床を見てしまい、顔を上げようとした瞬間、ロジェに抱きしめられた。
なにが起こっているかわからず、ただ呆然としていると、サルークが冷やかしの口笛を鳴らし、すぐに我に返った。
「ロジェ! 離してください!」
大勢に見られていることが恥ずかしくて、彼の胸板を叩くがびくともしない。
ぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめるのは父親そっくりだと呆れてしまう。
「いい加減にしてください。 痛いです!」
「僕の娘ぇええ!」
なにやら聞き覚えのある声がし、ロジェごとさらに抱きしめられた。二人ごとまとめて抱きしめるレグランは、ぼろぼろと涙と鼻水を流してルファに頬擦りしてきた。
「ちょ、ちょっと、旦那様! 鼻水が! 鼻水がつきますっ!」
「旦那様なんて他人行儀な! パパって呼んでよぉ」
じょりじょりとした顎髭の感触に全身が悪寒で震える。いつもなら助けてくれるはずのロジェは、なぜか黙ってルファを抱えたままレグランに抱きしめられていた。
不思議に思ってロジェの方に顔を向けようとするが、ルファの肩に頭を乗せられて、見れない。
「ロジェ、ロジェってば! あなたのお父様をどうにかしてください! 鼻水がっ! 鼻水がすぐそこに迫っているんです!」
目の前にあるやや緑色のそれを、あまり直視はしたくない。それも、四十路の鼻水などもってのほかだ。




