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いつもは終業のチャイムなんて気にならないが、今日だけはみんな待ち構えている。
いつも気を揉んでいる係長でさえ、カバンを抱えたままじっと時計を見つめている。
まるで新年のカウントダウンを待つように、時計の秒針が重なるまで、じっと息を殺していた。
カチ…カチ…カチッ。
終業のチャイムも聞こえないくらい、いっせいに立ち上がり口々に『お疲れさまー、また来年』と言葉が飛び交う。
俺も森野と挨拶を交わし、右手をクイッと傾けるサラリーマンのジェスチャーを、右手をパタパタと振って断った。
『…なんだよ、付き合い悪いなあ。せっかく慰めてやろうと思ったのに』
「気持ちだけもらっとくよ。慰めてもらうのに割り勘じゃ寂しいしな。じゃ、また来年」
軽く苦笑いする森野を横目に、次々と流れていく列に俺も並んだ。
ごった返す駅のホーム。喧騒をかき分け、家路に着く。
少しだけ感傷的になった。もう二人で待ち合わせして、帰ることもないんだな…。忘れるにはやっぱり、日常に食い込みすぎているよ。
家までの道すがら、次々に襲ってくる思い出に耐えきれず…俺は携帯を開いた。
【ごめん。ワガママかもしれないけど、会いたい。寂しさが消えないんだ】
弱音。それを吐くときは、本当に信用している人か、全くなにも知らない人がいい。
余計な勘繰りもなく、ただ話を聞いてもらえるから。
ちょうど玄関で靴を脱いだ瞬間に、ポケットが震えた。
【本当に?嬉しいよ。あたしも…会いたい】
相思相愛。
そうだったらいいのに。ビジネスと気持ちの間で揺れ動く。
川にそっと浮かぶ笹舟みたいにくるくると。
【…でも昨日の金額じゃキツいな…。半額でどう?】
駆け引き。伸るか反るか。難しいなら2で割り切ればいい。
俺は服を脱ぎもせず、テーブルの上の携帯をただ見つめていた。
一度暗くなった画面に、明かりが灯る。
着信を告げる振動が来る前に、画面を確認した。
【半額は無理だよ…。2割引でどう?】
すぐさま返信をする。
【…いや、半額で。そうでなければ…会わない】
俺自身も無理なことを言っているとわかってる。けれども…俺はそれが見たい。
無理を超える瞬間を。それは奇跡みたいな可能性だろうけど。
もし…それが通ったら、全面的に彼女を信用しよう。
そうでなければ…いっそ忘れてしまおう。
俺はドキドキしながら、次の返事を待っていた。