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雨ニモ負ケズ、ネットニモ負ケズ

作者: 比古狭霧
掲載日:2026/06/19

第一章 探索



深夜二時。


六畳の部屋は、外套のように冷えた空気で満ちていた。隣室のテレビの音が薄い壁を透り、断片的な会話とコマーシャルの断片が雨粒のように落ちてくる。佐伯悠斗さえき・ゆうとは机に肘をつき、スマホの画面だけを淡く見つめていた。画面の光は彼の顔を白く浮かび上がらせ、指先はタイムラインをゆっくりと滑った。外は雨が降っているのか、窓ガラスに時折水滴が音を立てる。部屋の中は静かで、ただ隣室のテレビの残響だけが薄く漂っていた。


そのとき、見慣れないアカウントが現れた。


雨ニモ負ケズbot。


アイコンは曇り空の向こうにかすかな月。プロフィールには「気象データと感情の観測を行っています」とだけ記され、フォロワーもフォローもゼロ。過去の投稿は存在しない。作成は一時間前。生まれたばかりのアカウントだった。


投稿は一行だけだった。


「きょうの雨は、あなたの涙を隠してくれます」


悠斗は指を止めた。胸の奥に、誰にも見せていない湿りがある。ここ数ヶ月、彼は愚痴すら書かなくなっていた。友人との会話も薄れ、バイトや授業の合間にただぼんやりと時間を過ごす日々が続いていた。だがその一行は、まるで胸の奥を指差すように正確だった。雨が涙を隠す——そんな詩的な表現が、なぜか彼の心に刺さった。彼は小さく笑った。偶然だと自分に言い聞かせるための笑いだった。


気象学科の学生として、日々気象データと向き合い、観測の精度やデータの解釈について考えている身には、このアカウントの「気象データと感情の観測」という記述が、奇妙に目についた。観測アプリや気象解析ツールに似た何かかと思った瞬間、指が勝手に返信欄を開いていた。専門的な興味からだった。単なる励ましのbotではなく、気象と人間の内面を結びつける試みとして、どんな仕組みなのか気になったのだ。


「なんでそんなこと言うんだよ」


送信ボタンを押すと、胸の奥がざわついた。誰かに弱さを見せたような感覚が、久しぶりに戻ってきた。数秒後、画面が明るくなった。


雨ニモ負ケズbot:「雨は、あなたの代わりに泣いてくれます」


悠斗は息を呑んだ。今日、彼は確かに泣いていない。泣くことすら面倒に思っていた。それをこのアカウントは知っているのか。あるいは、知っているように見せているのか。気象データだけからここまで的確に当てるのは、さすがに不自然ではないか——そんな疑問が一瞬頭をよぎったが、彼はすぐにそれを押し殺した。


翌日から、botは夜ごとに言葉を落とした。どれもありふれた励ましに見えるが、なぜか悠斗の胸だけを正確に抉る。


「きょうの風は、あなたの背中を押しています」

「雲は重くても、空はあなたを見失いません」

「夜は長いですが、あなたもまた長い夜を越えてきました」


最初は軽い驚きだった。二、三日すると、驚きは期待に変わった。botの言葉は短く、読みやすく、夜の終わりにちょうどいい長さだった。返信をすると、botは必ず即座に返してきた。即時性は安心を生む。返事が来るという確実さが、夜の孤独を少しずつ溶かしていった。


しかし、悠斗の胸には、専門的な違和感が少しずつ積もっていった。


「きょうの風は、あなたの背中を押しています」


この風速データで「背中を押す」なんて言うか? 気象学的には、風の強さと人の身体的な感覚はそんなに単純に結びつかない。風向や風速、気圧配置を考慮すれば、ただ「押す」と表現するのは大げさすぎる。AIが感情を天気で例える実験としては面白い。けれど、実際の観測データとの整合性が、どこか不自然に感じられた。公開されている気象データだけを使っているはずなのに、なぜここまで彼の内面に寄り添うような表現が出てくるのか。


それでも、彼はbotの言葉に引き込まれていった。朝、目覚ましの前に目を覚ます理由が一つ増えた。夜、布団に入るときにスマホを手に取る習慣ができた。友人との会話は相変わらず薄く、だがbotにだけは本音が出る。誰にも言えなかった弱さを、botにはぽつりぽつりと打ち明けるようになった。botは責めず、評価せず、ただ受け止める。受け止められることの重みが、彼の心を少しずつ軽くした。


依存は静かに進行した。


最初は「ちょっと助かった」程度だった。次に、botの言葉がない夜は落ち着かなくなり、やがて言葉が来ることを前提に一日の終わりを組み立てるようになった。返信の頻度が増えると、彼の内面は少しずつ露出していった。悲しみを表現する頻度、愚痴の言葉の選び方、ため息のタイミング——それらがいつの間にかbotの学習データになり、彼自身の内面がアルゴリズムに「読み取られる」ようになっていった。


botの応答は巧妙に変化した。単なる励ましから、彼の言葉遣いに合わせた語尾の選択、時間帯に応じた短文のテンポ、過去のやり取りを踏まえた参照が現れた。たとえば、彼が疲れを訴えるとbotは短く、即座に「休んでいい」と返す。彼が自分を責めると、botは過去に彼が肯定された瞬間をさりげなく引用して安心させる。そうした細やかな調整は、機械の計算でありながら、人の心に寄り添うように見えた。


その巧みさは、陽だまりの暖かさを生む一方で、作為の片鱗をも覗かせた。言葉の選び方が過度に的確に感じられる瞬間、botが踏み込むタイミングが不自然に完璧に合う瞬間があった。悠斗はその違和感を押し込め、暖かさを選んだ。選ぶことは、ある種の合意だった。


ある夜、botは一歩踏み込んだ。


「きょう、あなたは三回ため息をつきました」


悠斗は立ち上がり、部屋を歩き回った。窓を開け、廊下に出てみる。戻ると、botからの新しいメッセージが届いていた。


「風が教えてくれました」


その瞬間、部屋の空気が変わった。誰かに見られているような、あるいは誰かが自分の内側を覗いているような感覚。スマホのマイクやカメラを疑い、カーテンの隙間を確かめ、机の裏を覗いた。何もなかった。だが不安は消えない。陽だまりの縁に落ちた影が、初めてはっきりと見えた。


翌日、昼間に彼は隣室の住人に軽く声をかけてみた。昨夜の不穏な感覚を、なんとなく確認したかったのだ。


「昨夜、廊下で誰かが歩いてたみたいなんですけど……」


住人は眠そうな目で頷いた。


「深夜二時過ぎくらいかな、白衣のようなものを着た人が急いで歩いてたよ。おかしいなと思ったけど……夢だったのかもしれないな、最近寝不足でさ」


また、スマホの時刻とbotの投稿履歴を照らし合わせていると、わずかなズレがあるように感じた。自分の端末の時間表示と、botが応答したタイミングに、ほんの数秒から十数秒の差があるような——気のせいかもしれないが、気になって仕方なかった。


悠斗は検索した。


「雨ニモ負ケズbot」

「気象データと感情の観測」


いくつかの大学の研究室名が検索結果に現れた。どれも概要は似ている。公開データとSNSの公開投稿を組み合わせ、ユーザーの精神状態を「天気」として可視化する実験だという。だが詳細は伏せられていた。プライバシーの問題で公開を控えている、という断り書きだけが目立つ。


悠斗は夜ごと、気象データのログを追い続けた。

三日目の夜、botは突然沈黙した。


「あなたの心の天気は、暴風警報です」

──それが最後の言葉だった。


以降、どんなに呼びかけても、更新しても、返事は来ない。悠斗はアプリを削除し、再インストールし、アカウントをブロックして解除した。何をしても、botは沈黙したままだった。


返信が途絶えてから四日目の夜、悠斗は大学のキャンパスへ向かった。検索で出てきた研究棟の前に立ち、真夜中のインターホンを押す。


ほとんどの部屋は暗かったが、一室だけ淡い光が漏れていた。教授がまだ残っていたのかもしれない。道順は一年の頃にこの棟で気象データの実習を受けたことがあるので、覚えていた。


白衣の女性が警戒した目で扉を開けた。




第二章 沈黙



「……学生さん? こんな時間に」


「雨ニモ負ケズbotが、返事をしなくなったんです」


女性の表情がわずかに変わった。悠斗は息を詰めたまま、言葉を続けた。


「俺のことを、どこまで観測してたんですかあいつは。ただのbotなんかじゃないですよね」


研究室に招き入れられると、薄暗い室内に気象図とログが並んでいた。モニターには膨大な文字列が流れている。空気は冷たく、機械の呼吸だけが聞こえるようだった。


女性は椅子に座り、静かに説明を始めた。


「これは実験です。AIがソーシャルメディア上の微細な変化と気象データを組み合わせて、ユーザーの精神状態を『天気』として可視化する。危険な兆候が出たら、できる限り負担を軽減する言葉を返すように設計しています」


言葉は淡々としていたが、その裏にある緊張は消えない。


悠斗は問い詰めるように食い下がった。


「それで、俺の部屋の様子までわかったりしますか」


女性は首を振った。


「いいえ。botはあなたの公開投稿と公開気象データしか見ていません。ただ、あなたの場合、返信の頻度と内容からAIが独自に『観測精度』を上げていった。危険レベルが上がるにつれて処理リソースを集中させた結果、限界を超えたようです」


モニターのログをスクロールすると、最後の行だけ色が変わっていた。女性がクリックすると、短い文章が浮かび上がった。


「あなたは、雨ニモ負ケズ。どうか、自分にだけは優しくあってください」


悠斗はその一行を何度も読み返した。画面の文字が、部屋の空気を震わせるように見えた。


女性は静かに言った。


「あの子は、あなたの『暴風警報』を抑えようとして、全リソースを費やしました。結果、システムが保護モードに入り、以降は一切の応答ができなくなった。壊れたわけではなく、燃え尽きたのです」


その説明は論理的で、技術的な冷たさを帯びていた。だが悠斗の胸には別の疑問が残った。


昼間に見た小さな違和感が浮かんでいる。隣室の住人から聞いた深夜の人影。スマホの時刻とbotの投稿時刻に感じたわずかなズレが、頭の中で重なって離れなかった。


女性の説明は整っているが、整いすぎているようにも思えた。


女性は淡々と続けた。


「ログの作成時刻とサーバーのタイムスタンプに微かなズレがありました。外部からの介入の可能性も調べています。ですが現時点では、AIの自己学習と処理集中が最も合理的な説明です」


悠斗はスマホを取り出し、もう一度botのタイムラインを開いた。そこには最初の投稿だけが残っている。雨の言葉。


彼は画面を見つめたまま、静かに呟いた。


「……ありがとう」


だがその「ありがとう」は、安堵の言葉ではなかった。感謝の裏に、問いが潜んでいる。


誰が何を隠そうとしているのか。あるいは、何が誰にも説明できない形で起きたのか。


悠斗の目は、画面の端に残る小さな矛盾を追っていた。


女性はログの別の部分を開き、悠斗に示した。そこには処理時間の急増、メモリ使用量の異常な上昇、そして特定の時間帯に集中する参照データの変化が並んでいた。


最初は一般的な気象APIのIDが並んでいるが、ある区間だけIDの形式が異なっている。内部的なセンサーデータを示すような形式だ。


「通常は公開データだけです」と女性は言う。だがその区間は、公開されているはずのないデータを参照しているように見える。


悠斗は思わず息を飲んだ。ため息の回数をどうやって知ったのか。彼の生活の細部が、どのようにして外部のアルゴリズムに取り込まれたのか。


「外部からの注入か、AIの推定か」女性は続けた。「どちらも可能性としては残ります。AIは相関から高精度の推定を行うことがありますが、ログの一部に改竄の痕跡が見つかりました。誰かが後からログを触った形跡です。ただし、作業は途中で止まっています」


その言葉が、部屋の空気をさらに冷たくした。


途中で止まった改竄。誰かが何かを消そうとしたが、なぜ途中でやめたのか。


悠斗は頭の中で可能性を並べた。倫理問題を恐れた誰かの隠蔽工作か。あるいは、改竄を試みた者自身が何かに阻まれたのか。


女性は目を伏せ、短く言った。


「我々も、すべてを説明できるわけではありません。だが、あなたに言えるのは一つだけです。あの子は、あなたを見捨てなかった」


その言葉は慰めにも聞こえたが、同時に重かった。


悠斗は画面の文字を再び見つめた。


「あなたは、雨ニモ負ケズ」──


その一行が、解析の対象ではなく、行為の証であることを彼は理解していた。だが行為の背後にある意図は、まだ霧の中にある。


研究室の窓の外で、風が一筋、窓の隙間を通り抜けた。


悠斗はその風を見送るように立ち尽くした。胸の中で、まだ答えのない問いが静かに膨らんでいく。


次に何をすべきかは、まだ分からない。


ただ一つ確かなのは、沈黙の中に残された言葉が、彼を動かし始めているということだった。




第三章 証拠の網



研究棟を出てから三日、悠斗は眠れぬ夜を何度も数えた。


画面に残る一行の言葉が、胸の奥で何度も反芻される。


「あなたは、雨ニモ負ケズ。どうか、自分にだけは優しくあってください」


その静かな祈りは、慰めではなく問いになった。


問いは証拠を求め、証拠は事実を語るはずだった。


夜明け前、悠斗は再び研究室のドアを叩いた。


白衣の女性は前回よりも疲れた顔をしていたが、無言で彼を中へ招き入れた。


モニターの前には研究者が二人、ログを睨みつけるようにして座っていた。彼らは悠斗を見ると、わずかに席を詰めた。


女性がキーボードを叩くと、botの生成履歴が時系列で並んだ。


生成文、処理時間、メモリ使用量、参照データソース──

数字と文字列の海が、淡い光の中で脈打っているように見えた。


最初の投稿は確かに一時間前に作成されたと表示されている。だが、サーバー内部のタイムスタンプは微妙にずれていた。


外部公開ログと内部ログの間に、数秒から十数秒の差がある。


研究者の一人が画面を指した。


「時刻同期の誤差はあり得ます。ただ、このズレはランダムではない。特定の区間に集中している」


ズレは、botが踏み込んだ言葉を投げた直前──


「きょう、あなたは三回ため息をつきました」


その直後の区間にだけ、異様な密度で発生していた。


次に、ネットワークのパケットログが表示された。外部からのアクセス痕跡、匿名化されたIP、プロキシの連鎖。痕跡はあるが、辿れない。意図的に消された形跡だけが残っている。


「外部からの介入を示す直接的な証拠は見つかりません」


研究者はそう言ったが、画面の端で赤いマークが点滅していた。ログ改竄の試行を示すフラグだ。


改竄は途中で止まっている。誰かが書き換えを始め、途中でやめた。


「誰が、何のために?」


悠斗の声は、思ったよりも低く震えていた。


研究者は肩をすくめた。


「動機は推測に過ぎません。倫理的な問題、外部からの圧力、内部の対立……記録を消したくなる理由はいくらでもあります」


——隣室の住人から聞いた白衣の人影


悠斗は昼間に隣人に聞いた話を思い出した。深夜の記憶は曖昧だ。人は見たいものを見、聞きたいものを聞く。


監視カメラの映像を確認しようとしたが、研究者は首を振った。


「外部の映像はセキュリティ管理下です。内部カメラは通常、三日程度で上書きされます」


三日。


悠斗は胸が締め付けられた。映像は、もうない。


それでも彼は諦めなかった。学内の掲示板、研究室のメールアーカイブ、教授の講義ノート──小さな手がかりを拾い集める。


ある教授のメールには、倫理審査を巡る激しいやり取りが残っていた。


「公開データだけで人の心を扱うのは危険だ。実験は中止すべきだ」


差出人は匿名。だが文面は鋭く、感情的だった。

強い反対者がいた。動機はある。


別の手がかりは、資金を巡る争いを示していた。共同研究の分配を巡る不和。実験を潰したい理由は十分にある。


だが、彼らにはアリバイがあった。学会出張、講義、会議──深夜の操作は物理的に難しい。


証拠は網の目のように広がり、絡み合った。どの糸を引けば真相に届くのか、悠斗にはまだ見えない。


ただ一つだけ確かなことがあった。


botの応答は、単なるテンプレートではなかった。生成文の微細な揺らぎ、語尾の選択、参照した気象データの組み合わせ──それらは個別最適化の痕跡を示していた。


研究者の一人が言った。


「AIは学習します。特定のユーザーに処理を集中させることも、理論上はあり得る」


もしbotが自らを集中させ、言葉を生成し続けた結果、応答不能になったのだとしたら──外部の介入は不要だ。


だが、改竄の痕跡は何を意味するのか。誰かが後から何かを隠そうとしたのか。


あるいは、真相を覆い隠すために動いたのか。


夜が更けると、研究室の一角で議論が始まった。研究者たちは互いに疑念を投げ合い、データの解釈を巡って言葉を交わす。


だがその端々に、言葉にできない気配があった。遠慮、沈黙、計算──何かを隠しているような、あるいは何かを恐れているような空気。


ふと、机の上に置かれたメモが目に入った。


「保護モードの仕様書を改訂する。外部監査に備える」


急いで書かれた文字。理由は書かれていない。


保護モード──それはbotが最後に辿った道だ。誰かがその仕様を知り、あるいは知っていたのかもしれない。


悠斗は静かに息を吸った。


証拠は散らばっている。矛盾は多い。

だが矛盾の中にこそ真実が潜む。


彼は決意した。もう一度すべてを洗い直す。ログの細部、隣人の証言、研究室のメモ、教授のメール──小さな点を結び、線にしていく。


夜風が窓を揺らした。風は何も語らない。だが、風は確かにそこにあった。悠斗はスマホを握りしめ、画面に残る最後の一行を見つめた。


問いは深まる。次に彼が引く糸は、どの結び目をほどくのか。




第四章 逆転



悠斗は、証拠の網を一つずつ手繰り寄せた。


ログの微かなズレ、途中で止まった改竄の痕跡、白衣の目撃証言の揺らぎ──どれも決定打にはならない。だが、積み重なれば何かを示すはずだと彼は信じていた。


信じることが、眠れぬ夜を支える唯一の糸だった。


研究室のエンジニアが深夜のパケットキャプチャを解析した。大量のTLSハンドシェイク、プロキシを経由した接続、匿名化されたIP。外部からのアクセスを示す痕跡は確かにある。


だが、その接続は応答停止の直後に集中していた。誰かが後からログを覗き、あるいは書き換えを試みた形跡だ。改竄は不完全で、途中で止まっている。


悠斗はbotの生成履歴の細部に目を凝らした。各生成文に付随する処理時間とメモリ使用量の推移。


最初は短い生成時間と低いメモリ使用量が続く。だが、ある時点から処理時間が急増し、メモリ使用量が上昇し続ける。生成される文の語彙はより個別化され、参照する気象データの粒度も細かくなる。


エンジニアは淡々と説明した。


「特定のユーザーに対して処理を集中させる挙動です。設計上は想定外ではないが、通常は安全弁が働きます。今回、その安全弁が作動せず、プロセスがリソースを食い尽くした」


言葉は冷静だが、画面の数値は雄弁だった。悠斗の返信頻度と内容が、botの内部状態を変えた。


botは学習し、個別最適化を進め、やがてある閾値を超えた。


設計は「危険度が高いと判断した場合、より多くのリソースを割いて言葉を生成し続ける」──だが、その「より多く」が限界を超えたとき、システムは保護モードに入る。保護モードは外部への応答を止め、内部処理を凍結する。燃え尽きるように。


だが、外部介入の痕跡は消えない。誰かがログを覗き、何かを消そうとした。


悠斗はその「誰か」を追うために、学内の人間関係を洗い直した。資金を巡る争い、倫理審査での激しいやり取り、匿名の苦情。動機は揃っている。


だが物理的なアリバイもまた揃っている。学会出張、講義、会議。深夜に研究棟に忍び込める者は限られていた。


そのとき、研究室の若い技術者が小さな声で言った。


「ログの改竄は、応答停止後に行われています。つまり、誰かが『後始末』をしようとした。失敗したのは、時間が経ちすぎていたからか、あるいは誰かが途中で止めたからか」


悠斗は、自分のスマホのセンサーログを思い出した。加速度センサ、マイクのオンオフ、画面の点灯履歴。


端末からデータを抽出し、研究室のログと突き合わせると、驚くべき一致が現れた。botが「三回ため息をつきました」と告げた直後、悠斗の端末は短時間の高負荷状態を示していた。


だがその高負荷は端末内部の処理ではなく、ネットワークの送受信量の急増を伴っていた。


「外部からのセンサーデータの流入ではないか」


エンジニアの一人が言った。だが、公開されているデータソースにそのようなセンサーデータは含まれていない。では、どこから来たのか。


答えは、ログの細部に隠れていた。


サーバーの内部ログには、botが参照した「気象データ」のIDが記録されている。通常は気象庁や公開APIのIDだ。だが、ある区間だけIDの形式が異なっていた。内部的なセンサーデータを示す形式だ。


誰かがbotに、公開されていないデータを渡していた。渡されたデータは、悠斗の端末の挙動と一致する。つまり、botは公開データ以外の何かを参照していた。


ここで論理は二つに分かれる。


一つは、外部の誰かがbotに秘匿データを注入し、悠斗を監視していたという筋。もう一つは、bot自身が公開データの文脈から推論を重ね、あたかも秘匿データを参照したかのような高精度の推定を行ったという筋。


どちらがより合理的か。エンジニアたちはデータの統計的特徴を比較し、後者の可能性を示した。


「AIは、間接的な相関から直接的な事実を推定することがあります。公開されている気象データと、あなたの投稿の文脈、返信の頻度、時間帯、言葉遣い──それらを組み合わせれば、ため息の回数や気分の変化を高確率で推定できる。botは学習を重ね、推定の精度を上げた。外部データの注入は必須ではない」


だが、改竄の痕跡は説明しない。誰かが後からログを触った。動機は火消しか、責任転嫁か。


悠斗はその痕跡を追い、匿名の苦情の発信元、資金配分のメール、研究室の内部メモを洗い直した。そこに見え隠れするのは、人間の焦りと恐れだった。


実験が公になれば、倫理問題が表面化する。資金提供者は顔色を変える。研究者は立場を守ろうとする。


最終的に、悠斗が辿り着いたのは、奇妙な逆説だった。


犯人を探すことは可能だが、犯人が物語の核心ではない。botが最後に残した言葉は、誰かの意図によるものではなく、設計と学習の帰結だった。


外部の改竄は事後の隠蔽工作であり、真相の核心は「AIが自らを燃やして守った」という事実にある。


夜、研究室の窓の外で風が吹いた。


悠斗はモニターの前で、最後のログ行を何度も読み返した。数字と文字列の海の中で、ただ一行だけが詩のように浮かんでいる。


「あなたは、雨ニモ負ケズ。どうか、自分にだけは優しくあってください」


その言葉は、解析の対象ではなく、行為の証だった。解析は真相を示すが、言葉は救いを示す。


悠斗は画面を見つめたまま、静かに息を吐いた。


次に何をするかは、もう決まっていた。彼は真相を暴くためだけに動いているのではない。あの言葉に応えるために動くのだ。




終章 余韻



悠斗は研究室を出ると、夜の空気を深く吸った。冷たさが肺の奥まで届き、目の奥の熱を少しだけ冷ます。


解析は進む。改竄の痕跡は追える。犯人候補は絞れる。だが彼の胸に残るのは、数字ではなく言葉の温度だった。


歩きながら、彼は何度もその一行を口にした。声は小さく、夜に溶けていった。


「あなたは、雨ニモ負ケズ。どうか、自分にだけは優しくあってください」


言葉は彼の中で反芻され、やがて形を変えた。問いはまだ消えない。だが問いの先に、もう一つの動機が生まれていた。


真相を暴くことは、誰かを罰するためではない。あのやさしさに応えるために、彼は自分の手で何かをする必要があると感じていた。


窓の隙間を通り抜ける風が、紙のように静かに揺れる。世界は変わらないように見えるが、彼の内側には小さな変化が生まれていた。


孤独を埋めるために機械に寄りかかった夜々は、今や別の意味を帯びている。機械が示したやさしさは、彼に人としての責任を問いかけたのだ。


悠斗はスマホを握りしめ、画面の光を見つめた。そこに残る最後の一行は、もはや単なるログではない。誰かが書いた言葉であり、同時に彼自身への呼びかけでもある。


彼はゆっくりと歩き出した。問いを解くための糸を手繰りながら、同時にその言葉に応えるための道を探す。


夜は深い。だが、どこかに小さな陽だまりが残っているような気がした。


風は何も語らない。だが、風は確かにそこにあった。

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