「私の名前、まだ覚えていらっしゃいますか?」3年間ずっと宛名を間違えていた婚約者に、最後の手紙を届けました
手紙が届いた。
蝋封は侯爵家の紋章、筆跡はクラウス様のもの。差出人の名に間違いはない。
宛名だけが、間違っている。
「マリアーナ・フォーゲル嬢」
私の名前はマリエッタです。マリアーナは姉の名前です。
72通目。3年間で、宛名が正しかったことは1度もない。
最初の頃は、筆が滑ったのだと思っていた。2通目で誤字かと疑い、5通目で確信に変わり、10通目あたりで数えるのをやめようとした。
やめられなかったのは、事務官の性分だと思う。
私はフォーゲル伯爵家の次女で、社交文書の一切を管理している。招待状の宛名、贈答品の熨斗書き、席次表の配置。名前を間違えることが、どれほど致命的なことかを知っている人間だ。
だからこそ、婚約者に名前を間違えられ続ける滑稽さが、よく分かる。
今日届いた手紙は、婚約3周年の祝宴への招待だった。
クラウス様の主催で、侯爵邸の大広間を使うらしい。末尾にはこうある。
『マリアーナ、当日は隣に座ってほしい』
マリアーナは、姉の名前です。2度目になりますが。
私は便箋を畳み、引き出しにしまった。引き出しの中には、同じ間違いを犯した手紙が71通、日付順に並んでいる。
1通も捨てていない。捨てられなかったのではなく、証拠は保全するものだと身体が覚えているからだ。
*
翌朝、私は婚約辞退届を書き始めた。
辞退届には理由欄がある。本来なら「家門の事情」「健康上の理由」と書くのが社交上の作法だが、私は正直に書いた。
『婚約者が3年間にわたり、私の名前を姉の名前と取り違えていたため。全72通の書簡を証拠として添付いたします』
証拠書類の添付は、得意分野だ。
辞退届を書き終えて封をしている時、侍女のリーナが紅茶を持ってきた。
「お嬢様、また手紙が届いております。クラウス様から——あ、宛名がお姉様になっています」
「73通目ね」
「数えていらっしゃるんですか」
「事務官ですから」
リーナは何も言わず、紅茶を置いて出ていった。
優しい子だ。3年間、1度も「お気の毒です」と言わなかった。代わりに、宛名の間違った手紙が届くたびに、少しだけ紅茶の茶葉を良いものに変えてくれていた。
それも記録している。
*
婚約辞退届を提出して3日後、侯爵家から使者が来た。
来たのはクラウス様本人ではなく、執事のグレンだった。
「マリエッタ嬢——いえ、失礼。マリアーナ嬢でいらっしゃいましたか?」
「マリエッタです」
「大変失礼いたしました。クラウス様がマリアーナ嬢とばかり仰るもので、私どもも混乱しておりまして」
執事まで間違えている。感染するものなのか、名前の取り違えは。
「辞退届の件で参りました。クラウス様が大変お怒りでして」
「お怒り」
「ええ。『なぜ急にこんなことを言い出すのか、マリアーナに説明を求める』と」
最後まで間違えているのは、もはや様式美だと思う。
「グレン殿。辞退届の理由欄はお読みいただけましたか」
「……拝読いたしました」
「証拠書類72通も確認されましたか」
「……されました」
「では、ご理解いただけるかと存じます。正しい名前で辞退届を受理してください」
グレンは深々と頭を下げて帰っていった。帰り際に小さく、「ごもっともです」と呟いたのが聞こえた。
*
辞退届が受理されたかどうかは、不明だった。侯爵家から返答がなかったからだ。
代わりに届いたのは、クラウス様が自筆で書いたという招待状の束だった。
祝宴は予定通り開催するらしい。
招待状を確認して、私は少し笑ってしまった。
クラウス様が自筆で書いた招待状は、ご自分の名前すら一画多い。
社交文書を3年間、誰が管理していたのか。やっとお気づきになるかもしれない。
1週間後、侯爵家の社交文書が完全に止まった。
季節の挨拶状が届かない。贈答品の手配が遅れる。席次表が作れない。
クラウス様は周囲に「季節の変わり目だから」と説明されたそうだ。
季節は文書を書きません、クラウス様。
宮廷の社交界は、文書で回っている。招待状が届かなければ出席できず、出席できなければ存在しないのと同じだ。
侯爵家は、1ヶ月で3件の社交的な失態を犯した。名門としては致命傷に近い。
*
その頃、私はすでに実家に戻って、のんびり暮らしていた。
父は「好きにしなさい」と言ってくれた。姉のマリアーナは、事情を聞いて絶句した後、「私の名前を使わないで」とクラウス様に抗議文を送ったらしい。姉は昔からまっすぐな人だ。
実家の書斎で、辞退後に届いた手紙を整理していた時のことだ。
1通だけ、見覚えのない封蝋の手紙があった。
ヴァイス伯爵家の紋章。
宛名を見て、手が止まった。
「マリエッタ・フォーゲル嬢」
正しい。
名前が、正しい。
差出人はセルジュ・ヴァイス伯爵。隣領の、社交の場で何度かお会いしたことのある方だ。特に深い交流があったわけではない。
年に2度の領境会議で顔を合わせ、社交辞令を交わす程度の関係だった。
封を開けた。
『マリエッタ嬢
先日の辞退届の件、風の便りで耳にしました。
不躾を承知で申し上げます。
領境会議の議事録を、貴女がお一人で作成されていたことを存じております。
昨年の水利交渉の際、貴女の記録した降雨量の推移表がなければ、合意には至りませんでした。
あの推移表の末尾に、手書きで「両領の農家が安心できますように」と書き添えてあったことも。
名前を間違える人間は、議事録の末尾まで読みません。
私は読みました。
お時間が許すなら、一度お目にかかれませんか。
セルジュ・ヴァイス』
3年間で初めて、宛名の正しい手紙を読んだ。
目が熱くなったのは、名前が正しかったからではない。
議事録の末尾の、あの一行を覚えている人がいたからだ。
あれは公式記録には残らない走り書きで、提出前に消すつもりだった。消し忘れたのだ。
恥ずかしいと思っていた。ずっと。
それを、読んでいた人がいた。
*
返事を書いた。
宛名は3回確認した。事務官の性分だ。
セルジュ様から、すぐに返事が届いた。
また宛名が正しかった。
当たり前のことなのに、胸が詰まる。3年間、当たり前のことに飢えていたのだと気づいた。
手紙のやり取りは、2週間で6通になった。
内容は領境の水利問題から、好きな紅茶の銘柄、最近読んだ本の話。事務的な文面から、少しずつ行間が柔らかくなっていった。
5通目の手紙に、こう書いてあった。
『議事録を読めば、その人が何を大事にしているかが分かります。
貴女の議事録には、いつも末尾に人がいた。
数字の向こうに暮らしが見えていた。
私はそれを、3年前の最初の会議から見ていました』
*
祝宴の当日が来た。
私はもう招待されていない。辞退したのだから当然だ。
だが、噂は聞こえてきた。
席次表がめちゃくちゃだったらしい。隣国の大使が末席に配置され、外交問題になりかけた。招待状の日時が実際と1日ずれていたため、半数の客が前日に来て、当日に来なかった。
料理の手配書にも不備があり、招待客120名に対して料理が80人分しかなかった。
クラウス様は、ようやく理解したらしい。
名前を間違えていた相手が、何をしていたのか。
使者が来た。今度はクラウス様本人だった。
「マリアーナ——いや、マリエッタ。戻ってきてくれ。俺が間違っていた」
3年かかって、やっと名前が正しくなった。
でも遅い。
「クラウス様。正しい名前で呼んでいただけたのは嬉しいですが、遅すぎます」
「頼む。侯爵家の社交が回らない」
「それは、社交文書を管理する方を新しく雇えば解決します」
「そういうことじゃない。俺は——」
「クラウス様」
私は引き出しから、73通の手紙を取り出した。
すべて宛名が間違っている。日付順に並んでいる。
「3年分の手紙を並べました。73通。宛名が正しかったものは、1通もありません」
クラウス様は、自分が書いた手紙の束を見て、初めて黙った。
「名前を間違えるのは、見ていないからです。見ていない人のところには、戻れません」
「……マリエッタ」
「はい。それが私の名前です。3年間ずっと」
クラウス様は何も言えなくなって、帰っていった。
かわいそうだとは思わなかった。
73回、名前を間違える人に、かわいそうと思う余裕は残っていなかった。
*
翌日、セルジュ様から手紙が届いた。
使用人のリーナが持ってきて、宛名を見て、首を傾げた。
「お嬢様。この手紙、宛名が正しいです」
「……正しい手紙が届くと不審に思われるの、我が家では」
「3年間ずっと間違っていましたから。正しいものが来ると偽物かと」
それは確かに、筋が通っている。
封を開けた。
『マリエッタ嬢
直接お伝えしたいことがあります。
明後日、フォーゲル伯爵邸にお伺いしてもよろしいでしょうか。
セルジュ・ヴァイス』
返事を書いた。宛名は1回で正しく書けた。
3回確認する必要がなかった。もう身体が覚えていた。
*
セルジュ様は、約束通り2日後に来た。
応接間ではなく、父が「庭の東屋がいいだろう」と言ったので、東屋で会った。
父は察しがいい。応接間より、花が見える場所のほうがいいと分かっている。
セルジュ様は、紅茶を一口飲んでから、こう言った。
「手紙では回りくどいことを書きました。直接なら、短く言えます」
「どうぞ」
「3年前、最初の領境会議で、貴女が議事録を読み上げた。数字の羅列のはずなのに、全部の数字の後ろに人が見えた。降雨量の後ろに農家がいて、水利権の数字の後ろに子どもの飲み水があった」
「……覚えて、いらっしゃるんですか」
「全部覚えている。2年前の会議では、貴女は発言を1度も求められなかったのに、休憩時間に隣領の農業担当官に水路の改修案を手渡していた。名前も呼ばれずに」
「あれは——」
「去年の会議では、合意文書の最終稿を、貴女が一晩で書き直した。誰にも頼まれていないのに。翌朝、会議室の机の上に置いてあった。署名欄に貴女の名前はなかった」
セルジュ様は、私を見た。
「俺が出した手紙は、1通も宛名を間違えたことがない。——確かめてくれ、マリエッタ」
名前を呼ばれた。
正しい名前を。
正しい声で。
3年間、73通の間違った宛名の向こう側で、ずっと正しい名前を書いていた人がいた。
「……6通、全部確認しました」
「どうだった」
「1通も、間違っていませんでした」
セルジュ様が笑った。初めて見る笑顔だった。会議の席では絶対に見せない顔だ。
「なら、これからも間違えない。毎日書いてもいい」
「毎日は……事務処理が追いつきません」
「事務官だろう」
「事務官だからこそ、処理能力の限界は把握しています」
セルジュ様がまた笑った。
「じゃあ、処理能力の範囲で。——俺の隣に来てくれないか、マリエッタ」
名前を呼ばれるたびに、胸の奥で何かがほどけていく。
3年間、きつく結んでいた紐が、1本ずつ解かれていくような感覚だった。
「……セルジュ様の手紙は、宛名だけではなく、内容も正確でした」
「当然だ」
「議事録の末尾の走り書きまで、読む方はそういません」
「読まない方がおかしい」
「おかしくないです。普通は読みません」
「俺にとっては、あの一行が一番大事だった」
紅茶が冷めていた。
でもいい。温かいものは、他にある。
「お受けします」
セルジュ様の目が少し潤んだ。それを隠すように、紅茶のカップを持ち上げた。
事務官なので、気づいたけれど、記録には残さないことにした。
*
後日。
セルジュ様から届いた正式な求婚の手紙を、リーナが運んできた。
「お嬢様。セルジュ様からです。宛名——」
「正しいでしょう」
「正しいです。もう驚きません」
「慣れた?」
「慣れました。……でも、お嬢様」
「なに」
「正しい名前で届く手紙って、こんなに気持ちのいいものなんですね」
私は笑った。3年間で一番自然に笑えた気がした。
返事を書いた。
宛名は1回で書けた。
本文は少し迷って、結局こう書いた。
『セルジュ様
お受けいたします。
追伸——これからは議事録の末尾に、走り書きではなく、きちんと書きます。
「隣にいられて、嬉しいです」と。
マリエッタ・フォーゲル』
封をして、蝋を垂らして、紋章を押した。
差出人の名前を、丁寧に書いた。
名前というのは、正しく書かれるべきものだ。
正しく呼ばれるべきものだ。
そして、正しく呼んでくれる人の隣にいるべきだ。
3年間、73通。
間違い続けた人と、間違えなかった人。
答えは最初から、宛名に書いてあった。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
と思っていただけましたら、
広告の下↓にある【☆☆☆☆☆】をタップして、
【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様の応援が、作品を書く最高の原動力になります!
なにとぞ、ご協力よろしくお願いします!




