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「私の名前、まだ覚えていらっしゃいますか?」3年間ずっと宛名を間違えていた婚約者に、最後の手紙を届けました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/12

 手紙が届いた。


 蝋封は侯爵家の紋章、筆跡はクラウス様のもの。差出人の名に間違いはない。

 宛名だけが、間違っている。


「マリアーナ・フォーゲル嬢」


 私の名前はマリエッタです。マリアーナは姉の名前です。

 72通目。3年間で、宛名が正しかったことは1度もない。


 最初の頃は、筆が滑ったのだと思っていた。2通目で誤字かと疑い、5通目で確信に変わり、10通目あたりで数えるのをやめようとした。

 やめられなかったのは、事務官の性分だと思う。


 私はフォーゲル伯爵家の次女で、社交文書の一切を管理している。招待状の宛名、贈答品の熨斗書き、席次表の配置。名前を間違えることが、どれほど致命的なことかを知っている人間だ。


 だからこそ、婚約者に名前を間違えられ続ける滑稽さが、よく分かる。


 今日届いた手紙は、婚約3周年の祝宴への招待だった。

 クラウス様の主催で、侯爵邸の大広間を使うらしい。末尾にはこうある。


『マリアーナ、当日は隣に座ってほしい』


 マリアーナは、姉の名前です。2度目になりますが。


 私は便箋を畳み、引き出しにしまった。引き出しの中には、同じ間違いを犯した手紙が71通、日付順に並んでいる。

 1通も捨てていない。捨てられなかったのではなく、証拠は保全するものだと身体が覚えているからだ。



 *



 翌朝、私は婚約辞退届を書き始めた。


 辞退届には理由欄がある。本来なら「家門の事情」「健康上の理由」と書くのが社交上の作法だが、私は正直に書いた。


『婚約者が3年間にわたり、私の名前を姉の名前と取り違えていたため。全72通の書簡を証拠として添付いたします』


 証拠書類の添付は、得意分野だ。


 辞退届を書き終えて封をしている時、侍女のリーナが紅茶を持ってきた。


「お嬢様、また手紙が届いております。クラウス様から——あ、宛名がお姉様になっています」


「73通目ね」


「数えていらっしゃるんですか」


「事務官ですから」


 リーナは何も言わず、紅茶を置いて出ていった。

 優しい子だ。3年間、1度も「お気の毒です」と言わなかった。代わりに、宛名の間違った手紙が届くたびに、少しだけ紅茶の茶葉を良いものに変えてくれていた。

 それも記録している。



 *



 婚約辞退届を提出して3日後、侯爵家から使者が来た。


 来たのはクラウス様本人ではなく、執事のグレンだった。


「マリエッタ嬢——いえ、失礼。マリアーナ嬢でいらっしゃいましたか?」


「マリエッタです」


「大変失礼いたしました。クラウス様がマリアーナ嬢とばかり仰るもので、私どもも混乱しておりまして」


 執事まで間違えている。感染するものなのか、名前の取り違えは。


「辞退届の件で参りました。クラウス様が大変お怒りでして」


「お怒り」


「ええ。『なぜ急にこんなことを言い出すのか、マリアーナに説明を求める』と」


 最後まで間違えているのは、もはや様式美だと思う。


「グレン殿。辞退届の理由欄はお読みいただけましたか」


「……拝読いたしました」


「証拠書類72通も確認されましたか」


「……されました」


「では、ご理解いただけるかと存じます。正しい名前で辞退届を受理してください」


 グレンは深々と頭を下げて帰っていった。帰り際に小さく、「ごもっともです」と呟いたのが聞こえた。



 *



 辞退届が受理されたかどうかは、不明だった。侯爵家から返答がなかったからだ。

 代わりに届いたのは、クラウス様が自筆で書いたという招待状の束だった。

 祝宴は予定通り開催するらしい。


 招待状を確認して、私は少し笑ってしまった。

 クラウス様が自筆で書いた招待状は、ご自分の名前すら一画多い。

 社交文書を3年間、誰が管理していたのか。やっとお気づきになるかもしれない。


 1週間後、侯爵家の社交文書が完全に止まった。


 季節の挨拶状が届かない。贈答品の手配が遅れる。席次表が作れない。

 クラウス様は周囲に「季節の変わり目だから」と説明されたそうだ。


 季節は文書を書きません、クラウス様。


 宮廷の社交界は、文書で回っている。招待状が届かなければ出席できず、出席できなければ存在しないのと同じだ。

 侯爵家は、1ヶ月で3件の社交的な失態を犯した。名門としては致命傷に近い。



 *



 その頃、私はすでに実家に戻って、のんびり暮らしていた。


 父は「好きにしなさい」と言ってくれた。姉のマリアーナは、事情を聞いて絶句した後、「私の名前を使わないで」とクラウス様に抗議文を送ったらしい。姉は昔からまっすぐな人だ。


 実家の書斎で、辞退後に届いた手紙を整理していた時のことだ。


 1通だけ、見覚えのない封蝋の手紙があった。

 ヴァイス伯爵家の紋章。


 宛名を見て、手が止まった。


「マリエッタ・フォーゲル嬢」


 正しい。


 名前が、正しい。


 差出人はセルジュ・ヴァイス伯爵。隣領の、社交の場で何度かお会いしたことのある方だ。特に深い交流があったわけではない。

 年に2度の領境会議で顔を合わせ、社交辞令を交わす程度の関係だった。


 封を開けた。


『マリエッタ嬢

 先日の辞退届の件、風の便りで耳にしました。

 不躾を承知で申し上げます。

 領境会議の議事録を、貴女がお一人で作成されていたことを存じております。

 昨年の水利交渉の際、貴女の記録した降雨量の推移表がなければ、合意には至りませんでした。

 あの推移表の末尾に、手書きで「両領の農家が安心できますように」と書き添えてあったことも。

 名前を間違える人間は、議事録の末尾まで読みません。

 私は読みました。

 お時間が許すなら、一度お目にかかれませんか。

 セルジュ・ヴァイス』


 3年間で初めて、宛名の正しい手紙を読んだ。


 目が熱くなったのは、名前が正しかったからではない。

 議事録の末尾の、あの一行を覚えている人がいたからだ。


 あれは公式記録には残らない走り書きで、提出前に消すつもりだった。消し忘れたのだ。

 恥ずかしいと思っていた。ずっと。

 それを、読んでいた人がいた。



 *



 返事を書いた。


 宛名は3回確認した。事務官の性分だ。


 セルジュ様から、すぐに返事が届いた。

 また宛名が正しかった。

 当たり前のことなのに、胸が詰まる。3年間、当たり前のことに飢えていたのだと気づいた。


 手紙のやり取りは、2週間で6通になった。

 内容は領境の水利問題から、好きな紅茶の銘柄、最近読んだ本の話。事務的な文面から、少しずつ行間が柔らかくなっていった。


 5通目の手紙に、こう書いてあった。


『議事録を読めば、その人が何を大事にしているかが分かります。

 貴女の議事録には、いつも末尾に人がいた。

 数字の向こうに暮らしが見えていた。

 私はそれを、3年前の最初の会議から見ていました』



 *



 祝宴の当日が来た。


 私はもう招待されていない。辞退したのだから当然だ。

 だが、噂は聞こえてきた。


 席次表がめちゃくちゃだったらしい。隣国の大使が末席に配置され、外交問題になりかけた。招待状の日時が実際と1日ずれていたため、半数の客が前日に来て、当日に来なかった。

 料理の手配書にも不備があり、招待客120名に対して料理が80人分しかなかった。


 クラウス様は、ようやく理解したらしい。

 名前を間違えていた相手が、何をしていたのか。


 使者が来た。今度はクラウス様本人だった。


「マリアーナ——いや、マリエッタ。戻ってきてくれ。俺が間違っていた」


 3年かかって、やっと名前が正しくなった。

 でも遅い。


「クラウス様。正しい名前で呼んでいただけたのは嬉しいですが、遅すぎます」


「頼む。侯爵家の社交が回らない」


「それは、社交文書を管理する方を新しく雇えば解決します」


「そういうことじゃない。俺は——」


「クラウス様」


 私は引き出しから、73通の手紙を取り出した。

 すべて宛名が間違っている。日付順に並んでいる。


「3年分の手紙を並べました。73通。宛名が正しかったものは、1通もありません」


 クラウス様は、自分が書いた手紙の束を見て、初めて黙った。


「名前を間違えるのは、見ていないからです。見ていない人のところには、戻れません」


「……マリエッタ」


「はい。それが私の名前です。3年間ずっと」


 クラウス様は何も言えなくなって、帰っていった。


 かわいそうだとは思わなかった。

 73回、名前を間違える人に、かわいそうと思う余裕は残っていなかった。



 *



 翌日、セルジュ様から手紙が届いた。


 使用人のリーナが持ってきて、宛名を見て、首を傾げた。


「お嬢様。この手紙、宛名が正しいです」


「……正しい手紙が届くと不審に思われるの、我が家では」


「3年間ずっと間違っていましたから。正しいものが来ると偽物かと」


 それは確かに、筋が通っている。


 封を開けた。


『マリエッタ嬢

 直接お伝えしたいことがあります。

 明後日、フォーゲル伯爵邸にお伺いしてもよろしいでしょうか。

 セルジュ・ヴァイス』


 返事を書いた。宛名は1回で正しく書けた。

 3回確認する必要がなかった。もう身体が覚えていた。



 *



 セルジュ様は、約束通り2日後に来た。


 応接間ではなく、父が「庭の東屋がいいだろう」と言ったので、東屋で会った。

 父は察しがいい。応接間より、花が見える場所のほうがいいと分かっている。


 セルジュ様は、紅茶を一口飲んでから、こう言った。


「手紙では回りくどいことを書きました。直接なら、短く言えます」


「どうぞ」


「3年前、最初の領境会議で、貴女が議事録を読み上げた。数字の羅列のはずなのに、全部の数字の後ろに人が見えた。降雨量の後ろに農家がいて、水利権の数字の後ろに子どもの飲み水があった」


「……覚えて、いらっしゃるんですか」


「全部覚えている。2年前の会議では、貴女は発言を1度も求められなかったのに、休憩時間に隣領の農業担当官に水路の改修案を手渡していた。名前も呼ばれずに」


「あれは——」


「去年の会議では、合意文書の最終稿を、貴女が一晩で書き直した。誰にも頼まれていないのに。翌朝、会議室の机の上に置いてあった。署名欄に貴女の名前はなかった」


 セルジュ様は、私を見た。


「俺が出した手紙は、1通も宛名を間違えたことがない。——確かめてくれ、マリエッタ」


 名前を呼ばれた。

 正しい名前を。

 正しい声で。


 3年間、73通の間違った宛名の向こう側で、ずっと正しい名前を書いていた人がいた。


「……6通、全部確認しました」


「どうだった」


「1通も、間違っていませんでした」


 セルジュ様が笑った。初めて見る笑顔だった。会議の席では絶対に見せない顔だ。


「なら、これからも間違えない。毎日書いてもいい」


「毎日は……事務処理が追いつきません」


「事務官だろう」


「事務官だからこそ、処理能力の限界は把握しています」


 セルジュ様がまた笑った。


「じゃあ、処理能力の範囲で。——俺の隣に来てくれないか、マリエッタ」


 名前を呼ばれるたびに、胸の奥で何かがほどけていく。

 3年間、きつく結んでいた紐が、1本ずつ解かれていくような感覚だった。


「……セルジュ様の手紙は、宛名だけではなく、内容も正確でした」


「当然だ」


「議事録の末尾の走り書きまで、読む方はそういません」


「読まない方がおかしい」


「おかしくないです。普通は読みません」


「俺にとっては、あの一行が一番大事だった」


 紅茶が冷めていた。

 でもいい。温かいものは、他にある。


「お受けします」


 セルジュ様の目が少し潤んだ。それを隠すように、紅茶のカップを持ち上げた。

 事務官なので、気づいたけれど、記録には残さないことにした。



 *



 後日。


 セルジュ様から届いた正式な求婚の手紙を、リーナが運んできた。


「お嬢様。セルジュ様からです。宛名——」


「正しいでしょう」


「正しいです。もう驚きません」


「慣れた?」


「慣れました。……でも、お嬢様」


「なに」


「正しい名前で届く手紙って、こんなに気持ちのいいものなんですね」


 私は笑った。3年間で一番自然に笑えた気がした。


 返事を書いた。

 宛名は1回で書けた。

 本文は少し迷って、結局こう書いた。


『セルジュ様

 お受けいたします。

 追伸——これからは議事録の末尾に、走り書きではなく、きちんと書きます。

 「隣にいられて、嬉しいです」と。

 マリエッタ・フォーゲル』


 封をして、蝋を垂らして、紋章を押した。

 差出人の名前を、丁寧に書いた。


 名前というのは、正しく書かれるべきものだ。

 正しく呼ばれるべきものだ。

 そして、正しく呼んでくれる人の隣にいるべきだ。


 3年間、73通。

 間違い続けた人と、間違えなかった人。


 答えは最初から、宛名に書いてあった。

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