001 雨天決行
001 雨天決行
その夜は、記録的な豪雨だった。
早朝から降り始めた雨は勢いを増し、予報では翌日の昼まで止まないという。分厚い雲が空を覆い、月明かりは一切届かない。街灯も雨にかき消され、ほとんど意味をなしていなかった。
外を出歩くには最悪の夜。
だが、彼にとっては好都合だった。
今日まで――いや、今夜を逃げ切らなければならない。
「止まりなさい!」
無数の足音が、背後から一斉に迫る。
振り返ってはいけない。止まるわけにもいかない。とっくに、引き返せる場所は過ぎてしまった。
青年は細く暗い路地へと身を滑り込ませる。それを見た追っ手は幾つかの塊に分かれ、散開しながら再び走り出した。そのさらに後方から、サイレンの音が追いかけてくる。
青年は一度だけ足を止め、喘息用の吸入器を口にくわえた。
追っ手はいない。足音で分かる。今は大丈夫だ。
荒い呼吸を整え、複雑に入り組んだ路地を進む。この地域は集合住宅が密集しており、道は迷路のように絡み合っている。初めて来た人間が、地図なしで抜けることは不可能だ。
やがて、路地の先にわずかな開けた空間が見えた。
青年はさらに足を速める。
あと百メートルもない。
辿り着けば、勝ちだ。
――そう思った瞬間だった。
「確保!!」
出口の両側から、二人の巨漢が飛び出し、青年にのしかかった。地面に押さえつけられ、両腕を背後に回される。慣れた手つきで、冷たい金属が手首を締めた。
「神代良太! あなたを国家反逆および渡航未遂の疑いで逮捕する!」
一人が青年を押さえつけたまま、もう一人が通信機に向かって報告を入れる。ほどなく到着したパトカーに放り込まれ、サイレンと赤色灯は遠ざかっていった。
一分も経たないうちに、音も光も雨の中に消えた。
それを、じっと見送る人影が一つあった。
フードを外すと、現れたのは――先ほど追われていた青年と、同じ顔だった。
辺りを一度見渡し、彼は再び走り出す。
目的地は、もう目の前だ。
扉が開き、真っ暗な屋内に、ずぶ濡れの青年が転がり込む。
鍵を閉め、重たく張り付いた服を脱ぎ捨てながら、誰もいない空間へ叫んだ。
「アイさん!あと五分で準備して!今夜出発する!」
呼びかけに応えるように、巨大なモニターが起動する。同時に家中の照明が点灯し、工具と青写真が散乱した作業場が露わになった。
「出発予定は、来週では?」
モニター越しに響く女性の声に、青年は即座に言い返す。
「色々と事情が変わったんだ! 作業場に警察が来て、全部バレた! 飛行機も、ハルちゃんのことも! だから今夜飛ばさないと終わりなんだ!」
青年は床に転がる部品や端末を掴んでは、無造作にカバンへ詰め込んでいく。
「しかし、まだ航路の計算が――」
「いいんだ!僕も散々考えたけど、結局答えは出なかった!つまり…」
リュックを肩にかけ、壁に取り付けられたスイッチを押す。
低い駆動音とともに床の中央に切れ込みが走り、左右へと収納されるように開いた。
現れたのは、ガラス張りの棺。
仰々しい管が無数に伸びるその中で、まだ幼い少女が静かに眠っていた。
「航路はない。」
「――この扉を開けなさい!!」
玄関の扉が、激しく叩かれる。
窓の外には無数の人影。赤色灯が、雨越しに部屋を染めていた。
「……五分という話では?」
「嫌味なら後!窓に壁貼って!」
部屋の四方からモーターの回転する音が響き、薄い膜が窓全体を覆う。
「アイさんはハルちゃんを積んで動作確認!僕は…」
青年は歯を食いしばり、部屋を見回した。
彼が視線を向けたのは、作業台の隅に置かれた小さなケージだった。
中では、一匹の白いハムスターが、事態も知らずに回し車を回している。
「この子と階段で行く!」
ケージを抱え、青年が走り出す。
背後で、ガラスの板にヒビが入り、衝撃の度に広がる。
青年は非常階段へと駆け出す。
階段を上るたび、雨音と警告音が近づいてくる。
やがて、最後の扉に辿り着いた。
屋上だ。
扉を押し開けた瞬間、豪雨と風が一気に吹き付ける。
そして、中央には、異様な形状の機体が鎮座していた。飛行機さながらの両翼はなく、代わりに無数の管が床に向かって伸びている。
青年は息を整え、ケージを抱えたまま、一歩踏み出す。
機体の腹部が開き、一人と一匹を飲み込んだ。
「アイさん!全システム起動!」
青年の叫びに反応し、機体内部に青白い光が満ちる。
《システム、起動。重力制御、安定。エネルギー、充填開始》
風に煽られ、棺がわずかに傾く。
反射的に、青年は棺に手を回した。
「大丈夫……きっと上手くいく」
誰に向けた言葉か、彼自身にも分からなかった。
内部に棺を固定すると、次にハムスターのケージを座席脇へと押し込む。ケージは微かに揺れ、回し車がカラリと鳴った。
背後で、屋上の扉が破壊される音がした。
怒号と足音が、雨音に混じって迫る。
「想定より早い!段階は?」
《発進準備七十三パーセントが完了。推力制御、未調整。空中分解の危険性があります》
「まずいな…」
青年の喉が鳴る。
「いや、大丈夫!……大丈夫?大丈夫!だって僕は…」
青年は操縦席へ飛び込み、ハーネスを引き寄せる。
同時に、屋上へ警官たちがなだれ込んできた。
「動くな!」
照準用のライトが、機体を照らす。
青年は一瞬だけ、振り返った。夥しい量の敵意がそこにはあったが、彼の視線は棺に向けられていた。
そして、操縦桿を強く握る。
「アイさん!飛ばして!」
《了解。強制離陸を実行します》
轟音。
機体の底部が青白く輝き、屋上の水を弾き飛ばす。
警官たちがよろめき、誰かが叫んだ。
「伏せろ!」
次の瞬間、視界全体が大きく揺れ、光が交錯した。
身体が座席に叩きつけられ、内臓が浮く感覚。
機体は、垂直に夜空を突き抜けた。
雲の中へ突入し、激しい揺れが走る。警告音が鳴り響き、計器が明滅する。
《高度上昇中。構造負荷、70パーセントオーバー》
「大丈夫…大丈夫!!」
雲を抜けた瞬間、視界が開けた。
分厚い雲の上には、暴風とは無縁の、静かな闇が広がっている。
その先に、かすかな星の光。
「……上手くいった…?」
《損傷はありますが、許容範囲内です。少なくとも、国内を飛行するならば。》
ケージの中では、ハムスターがようやく異変に気づいたのか、こちらを見上げていた。
青年は操縦桿から手を離し、背もたれに身を預ける。
「本当に…やったんだね…この感じ久しぶりだ」
《おめでとうございます。ただ、現在飛行計画の8パーセントです。最終目標までなら1パーセントにも満たないかと》
青年は小さく笑った。
「アイさんも少しは喜んでよ…」
彼は前方の夜空を見据える。
「あとは、行ける所まで行こう」
”最終目標”まで、残り100パーセント




