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第三話 山川に望し群神に徧す、つまりは引き継ぎ手順は大切に

前回のあらすじ

■主人公が祟られ馬車はこっぱみじん、矢は勝手に飛んできて周囲大迷惑■


本作の1話分は、アニメ1話(約30分)や連載漫画1話分に相当する、少し長めのボリュームです。

世界観やキャラクター、怪異描写をじっくり楽しんでもらえたら嬉しいです。

 改めて――。


 公族大夫(こうぞくたいふ)たちは学びの間にそれぞれ端然と正座している。


「前年は戦で皆さまがた出ておられました。今年はその気配ございません。いつか正卿(せいけい)(けい)の方々にもご教示いただけることがありますでしょうか」


 趙武(ちょうぶ)韓無忌(かんむき)へ丁寧に拝礼しながら言う。


 彼は、士匄(しかい)相手になると少々雑な態度になるが、韓無忌に対しては違った。尊敬の念が自然と出る。


 士匄は、素直に感情を表に出す未熟者、と嘲った。これをどう教導するか叩きのめすか、楽しみではある。


 韓無忌が口を開く前に士匄が手で制し、


「失礼ながらも、教導している身として先に申し上げる」


 と言葉を挟んだ。


 促す韓無忌を横目に士匄は言葉を続ける。


「我が(しん)は、東方南方に関して、まあ小康状態とはいえる。父上はそのために文字通り東奔西走されたものだ。これ以上、わたしは言わん、韓伯(かんはく)にまかせよう」


 言いおわると、士匄は先達を見た。公族大夫の中で韓無忌の席次は一番高い。


 さて、韓無忌の回答である。


趙孟(ちょうもう)。未だ学びの議は始まっていない。政堂であらば汝はあらかじめ共謀したことになる」


 一刀両断。ここで終わらないのが韓無忌の親切さである。


「問いは時間まで口に出さない。そしてどのような解が想定できるか考えなさい」


 趙武(ちょうぶ)


「未熟者ながら」


 と頬を染めて拝礼した。趙孟(ちょうもう)とは趙武(ちょうぶ)(あざな)である。


 荀偃(じゅんえん)がその様子を見て首をすくめた。


 彼は気が弱いところがあり、韓無忌の厳しさに萎縮してしまうのだ。


 この一族は穏やかで人の好いものが多い。


 その上で荀偃は、そそっかしくパニックを起こしてキャパオーバーする人間であった、前話のように。


 荀偃は小声で隣の士匄に謝った。


「あっあの。先ほどは勘違いいたしまして、申し訳なく……」


 私語がよろしくないとわかっていたが、荀偃は律儀なのだ。


 士匄が鼠を嬲る虎のような笑みを浮かべ、囁いてくる。


「趙孟の美貌は女であれば傾国の美女というもの。中行伯(ちゅうこうはく)がそのように()()()()()()()()()()()()()()()()。私は趙孟を教導する身、これっぽっちもそのようなことは考えたことございませんでしたが――あなたは先達、私が支えるのが理というもの。()()()()()()()()()()()()()()()()()、お力になりましょう」 


 荀偃――(あざな)は中行伯が、士匄の言葉をゆっくり咀嚼したあと、みるみる顔を赤らめていった。


「ちが、ちがいます、ちがっ、」


 と必死に否定する荀偃に、


「わかってますともご遠慮なさらず」


 と士匄は意地クソ悪い笑みを向けている。


 荀偃が趙武に男色を求めるなど、士匄は露ほども思っていない。単に遊んでいるのだ。


 士匄の個性の強さに荀偃は常に弱腰である。


 そのくせ、この二人は妙に仲が良い。


 祖父同士が仲がよかった、という縁もあった。


 韓無忌が薄い表情で二人に釘を刺す。


范叔(はんしゅく)。この場は政堂でなけれど、おおやけの場。私的な話にてあまり追求するはよろしくない。中行伯もです。謝罪は大切ですが、それは私的なこと。この場で行うことではない」


 こりない士匄は肩を竦めた。


 荀偃が多少きまずい顔をしつつも、一同改めて端然と座す。


 これはいずれ参席する政堂の予行である。


 それを、完全に私的な理由でサボったのが欒黶であった。


 韓無忌が薄い表情で口を開く。


「……欒伯は本日、参内せぬ旨連絡ありました。不祥の人ありて会いたくなし。とてもではないが国を動かすものの言葉ではない。しかし」


「欒伯だからな」


「欒伯ですもんね」


「はい、ええ。欒伯ですから」


 士匄、趙武、荀林父の唱和に韓無忌さえ頷いた。


 父は沈毅重厚な人柄を信頼され、大国晋を背負うに相応しい正卿(せいけい)


 息子は傲慢浅慮。


 が、甘いマスクのせいか頭が悪すぎるせいか、欒黶には妙に憎めない愛嬌があった。


 サボりの欒黶をさっと流し、韓無忌が皆を見回し口を開いた。


 学びの時間が始まったのだ。


「本日の議ですが……夏書(かしょ)の『禹貢(うこう)』の予定だった。しかし、趙孟の問いについて考えたい」


 議題を故実古典から個人の問いに変更。


 珍しさに一同首を傾げた。


 韓無忌の言葉は続く。


「我らは古人に学べばならぬ身だが、王さまを支える覇者の臣として、今を考えることも肝要。六卿(りくけい)の方々から我らに学びの場でご教示あるや、と。始める前に問いを発したのはよろしくないが、その問いに対する解を考えるよう、伝えている。趙孟、まず汝の解を」


 道理である。韓無忌が低い声で紡ぎ終わると、趙武を見た。


 最も下席の趙武(ちょうぶ)が、身を固くして唇を引き結ぶとしらず頷いた。


 常は上席から意見を言うことが多い。


 若年ゆえの責任に緊張しながら、少女めいた口を開いた。


「かつて文公(ぶんこう)に若くして仕えた箕鄭父(きていほ)はその言葉を良きとされ大夫(たいふ)と任じられ、側近の我が曽祖父である趙成子(ちょうせいし)の部下となりました。これは、知恵者と評された趙成子にその教育をお任せになられたのではないでしょうか」


 要するに、()()()()()()()()()()()()()をさせる前例がある、と言いたいらしい。


 ひとつひとつの言葉を思い出すようにゆっくり言った後、


「えっと。だから、あの、(けい)の方々が我ら公族大夫をご教示されるのも、その、前例ない、というわけじゃあないと思います」


 と、ヨレヨレした口調で終えた。


 士匄(しかい)は、バカを見る目そのものを趙武に向ける。


 趙武は鈍い青年ではなく、士匄の侮蔑に気づき、不愉快な顔をする。


 例え未熟な発言だとしても、相手を侮り嘲るのは恥ずかしい人間だ、というのが趙武の価値観の一つであった。


 韓無忌(かんむき)は薄い表情を士匄に向け、


范叔(はんしゅく)。先ほどなされなかったあなたの解を。趙孟を教導しているのは汝だ」


 と、投げた。


 韓無忌が趙武に説明してやったほうが角が立たぬであろう。二人は相性良く家も仲が良い。


 が、舌鋒鋭い士匄に投げた。


 容赦をするな、ということだろう。


 士匄は舌なめずりせんばかりに、趙武を見る。


「文公はいまだ国が乱れていたときの名君だ。と、お子様向けの言葉では納得できぬであろうから、言ってやろう。箕氏(きし)が趙成子につけられたは、人手が足りぬからだ。我らのように悠長にお勉強会などしていられぬ。実地で学ばせるしかない時代であった」


 冷然と語る士匄の視線の先に、唇を震わす趙武がいる。


 きっと士匄の言わんとしていることがわかったのだろう。


 士匄の舌鋒は止まらない。


「そもそも、大夫は政治や教養を祖父や父、家の史官(しかん)、氏族の長老に教えを請う。その上で我らは公族大夫(こうぞくたいふ)として卿の予行をしているのだ。学びの後に我らはそれぞれのお父上に侍り、本日の議を伺うこともある、問うこともある。常に卿の方々は忙しいが頼めば応じてくださろう、己で伏して願い出ろ。来てほしいなどと、怠慢にほどがある」


 長々と、なされた士匄の『ご教示』は、言葉による暴力だった。


 趙武の事情も未熟も関係ない。


 知恵の回らぬ愚鈍、政情を甘く見る未熟者、待ってるだけの怠け者。


 趙武が下を向いた。いちいち正論であったが、彼にも事情がある。


 趙武は祖父どころか父にも教えを受けていない。史官――家の記録者であり家庭教師――もいなかった。


 彼が生まれた時、趙氏(ちょうし)は滅ぼされかけた。趙武が隠され育てられていなければ完全に滅びきっていたであろう。


 晋人(しんひと)であれば誰でも知っている事件であった。


 その上で、貴族的な常識を知らぬ、と士匄は言ったにも等しい。


 韓無忌が趙武に対して少し優しい声をかける。


「……趙孟。汝は学ぶこと多き者です。范叔の言葉は厳しいが理はある。未熟を自覚することは良し、恥に思わぬよう」 


 次に韓無忌が士匄に向いた。その表情は薄く静かである。


「范叔は、相手の矜持を尊重することを覚えてほしい。我らは同輩だけと対するのではない。諸侯や大臣、周王様にお仕えする尊い方々。己の強さを誇示し相手の矜持をないがしろにする者は終わりがよくない。(おもいやり)は大切です。人と人の約定でもある」


 打たれ強い趙武が、心を引き締める顔をした。


 士匄は少し口をとがらせたあと、ニヤリと笑う。


「韓伯のご配慮いたみいるが、ご安心を。先日、父の命で王都の貴き方の邑を()()()()()(ちか)った。わたしは場をわきまえているつもりだ。先達として導くときは全力をもってするが真の教えというもの。そして、覇者の介添えとして王都の貴き方をおもてなしするときは礼を忘れず儀を正しく、だ。そうすることで、貴き方からの教えもいただける。わかったか? 趙孟」


 家も継がぬ若造が周の貴族と対等にわたりあって邑をもらった。


 そんな自慢話から始まって、最後は趙武へのあてこすりである。


 大人げないにもほどがある。


 韓無忌が少し眉をよせてほほをひきつらせたが、荀偃はもちろん、趙武さえ、目を輝かせて士匄を見た。


 荀偃がふわふわとした声をあげた。


「禹貢は国と税を定め、土地を整える教え。范叔は王都の邑を保護され新たな祀りをされたとのこと。奇しくも符号が合いますね。すごいです、私など緊張で倒れてしまう」


 荀偃の素直すぎる賛美に、士匄が気持ちよくうなづき、いやあそれほどでも、などと言いながら胸を張る。


 そうなると韓無忌も苦言より好奇心が先に立ってきたらしい。思わず口を挟む。


「我ら公族大夫として邑を持っていても、譲渡の儀式は私もしておらぬ。范主の汝に対するご期待がよくわかる。尊き方から学びを得たのであれば、私にもご教導願いたい。われらは王さまを守る覇者の国です。礼の本質を知りたいものだ」


 韓無忌がわずかにほほ笑んで言った。表情の薄い男である。満面の笑みに等しい。


 謹厳実直な彼も新たな知識には弱いようだった。


 まあ、士匄が王都の貴族に学んできたのは礼ではなくコネであるが。


 今度は趙武が


「お伺いしたい議がございます」


 と、やたら真剣な声をかける。


 士匄は満腹の虎のような笑みを返し、続きを促した。


 趙武はおずおずと問うてくる。


「王都の貴き方と我らには格の差がございます。どのような贄を使ったのでしょう。あの……牛は大仰でございましょうし」


 士匄は失笑した。


 牛は国君が使う生贄である。国際同盟を結ぶときなどにも使われている。


 趙武は本当に貴族的な感覚が育っていない。


 士匄は大仰な態度で返してやる。


「儀に使う生け贄は羊。国同士の(ちか)いでないことを考えれば、なかなかに上等なものをあちらは用意した。我が士氏(しし)と昵懇になりたいという思いが強いのであろう。また、少々古くさいが人の贄も行った。我が地を譲るという(ちか)いの強さというものだ」


 得意満面そのものの笑みで返すと士匄は三人を見渡した。


 荀偃は首をかしげており、韓厥は何か考え込み、趙武は少し眉をひそめている。


 趙武が戸惑いながら


「人の贄、ですか」


 と、問うた。ほんの少しだけ、嫌悪が混じっていた。


 その甘さを指摘してやろうとした士匄に先んじるように韓無忌が口を開く。


「戦い勝利の儀を(びょう)で行うとき、攻めてきた(てき)を倒し二度と来ぬように祈願するときに捕虜や狄を天に捧げることは、まあ、珍しくない。が。たかが一つの邑の引き継ぎで人の贄とは盟いや祈願が強すぎる」


 趙武も荀偃も不審さを隠さず韓無忌の言葉に頷いた。


 問われた士匄はそうか? と、こともなげに言い、


「邑で問題があった、という連絡は無い。つつがなく邑宰(ゆうさい)は治めているようだ。ああ、でも供のものたちはやたら運が悪かったな。何故か帰りに落石で潰されたり、河に落ちたり、食い物に当たったりで死んだ。父上の臣や下僕であったから、申し上げ、父に不祥祓いの祈祷をおすすめした。まあ、そのおかげか父には何もない」


 と笑った。


 が、拝聴している趙武と荀偃は少しずつ顔色がわるくなり、ひきつっていく。


 韓無忌が軽く頭を抱えた。


 日数、状況を考えても、士匄が頻繁に取り憑かれるようになった時期と一致する。


 趙武がひきつった嘲笑をうかべながら早口で言葉をつむぎ出す。


「え。なんで気づかないんです? 范叔ってすっごく頭いいですよね。古詩(こし)古書(こしょ)古史(こし)法制(ほうせい)儀礼(ぎれい)天文の計算まで全部頭に入ってて、教養クイズもとんちクイズも完璧で、ねぷりーぐ的な催しでも一問もお間違えにならない。上背もあり体つきもよくて弓矢も戈もお上手、やたら()に好かれるわりにはくじ引きは当たりをお引きになる勘の良さ。それで、どうして、気づかないんです? 欒伯がさぼったのって范叔の不祥が原因ですよね? あの、全ての不祥不吉凶不浄が避けて通るほどのバカパワーが通じないほどの不祥ってどう考えても恣意的な祟りや呪いですよね? え? 儀式の帰りに下僕全滅されているんですか? うん、どうしてそれでお父上の運が悪い、という結論なんです? めちゃくちゃ頭がいいのにバカなんです? なんで気づかないわけ? バカなの? 死ぬの?」


 こうして懇切丁寧に士匄を罵倒した。


 趙武の言葉に士匄の顔は氷点下のような冷たさとなる。


 底光りをする瞳を向けて立ち上がると、獲物を狙う虎のように趙武へ覆いかぶさった。


 そうなると、身長差以上の圧迫が趙武を襲う。


「我が才を讃えて頂き、趙孟には感謝に堪えぬ。そしてどうやらわたしへご忠告いただいたようであるが、あまりに卑賤な言葉で耳慣れず、また、わかりにくい文言で、いまいち理解できなかった。常々申し上げている。趙孟は弁があまり立たぬ。わたしはそのあたりの教導も含めお前を任されているのだが、趙孟のお力になっていないようだ。わたしの不徳といたすところ、陳謝を」


 霜でも吹くような冷たい声音で、士匄は趙武へ返した。


 趙武が士匄の恫喝に屈することなく、にらみ返したその時――


 士匄の耳に『ご、おぉぉごごごっ』と木々が根こそぎなぎ倒される音が響いた。


「おい、趙孟。今の音はなんだ?」


 もはや肩を寄せ合うレベルで近づき、士会は趙武にささやく。


 趙武がいぶかしげな顔をしてにらみつけた。


「なんのことですか。そうやってごまかしても無駄ですよ」


 あきれた声で趙武が返したその時――


 天井から木材がどおっと、落ちた。――士匄が先ほどまで座っていた席に。


 ひいいいいっと荀偃は白目をむいて気絶し、泡を吹いて倒れた。


 趙武も蒼白で木材を凝視する。


 韓無忌さえ息を飲み、体を強張らせた。


 士匄は茫然と立ち尽くす。


 音が聞こえたのか、宮中で働く下役がかけつけ、


「お体だいじないですか」


 と口々に騒ぎ出す。


 士匄は我に返って立ち上がり、


「宮城の管理のものに罪を問え。天井の一部が腐って落ちてきた、我らがみな無事だったこと運を喜べ、死を減じ門番にせよと奏上しておく」


 士匄が唸るように言い放つ。そのさまは獰猛な虎を思わせた。


 下役たちが震え上がった。


 門番とは、足を切られた罪人の仕事である。自由に動けぬため使われる。


 韓無忌が、静かに息を吸って吐くと、下役の一人を呼んで小さく耳打ちした。


「――です、……急ぎ、お越しいただくよう。范叔のことと申し上げればよい」


 その間も士匄が下役たちを脅している。


 これは、責任転嫁を考えている、と思った趙武は、


「罪を問う問わぬは我ら公族大夫の権限ではございません。みなさま、心静かにおちついてください。若輩の私たちの不徳によりみなさまを惑わせました」


 ゆっくりと、言葉を選びながら下役たちへ語りかけていく。そうして、落ちてきた梁をそっと触った。


「……木が腐っていればもっと柔らかいものです。管理の方の罪とは限りません。ところで范叔は、本日も宮中の巫覡に祓ってもらいましたよね。この梁、范叔が座っていたところ、で、す、よ、ね!」


「今は不祥無く、()もまとわりついておらぬわ。なんでもかんでも、そういったもののせいにするは思考の停止だ!」


 二人が言い合っている間、韓無忌は柔弱そのままに気絶している荀偃を下役たちに


「父君に送り届けるよう」


 と託した。


 丁寧に荀偃は担がれ、部屋からご退場である。


 そのままそっと、荀偃が座っていた席へ移る。そうして、端然とした姿勢で待った。


 かくして、()()()は来る。


 士匄たちよりひと回り程度年上の男が、すっと室に入ってきた。


(けい)の嗣子の方々は研鑽されているご様子。みなさまの励みは国の宝、良きことです。若いかたの議に失礼するは、私のような老人には不相応かもしれないが、邪魔をさせていただくよ」


知伯(ちはく)。お呼び立てして申し訳ございません。お役目ございましょうが、われら若輩では解けぬ議ございましてご足労お願い申し上げました」


 韓無忌が丁寧に拝礼し、己が先ほどまで座っていた席を指す。


 この場で最も格の高い席へ。


 (あざな)知伯(ちはく)というこの男は、荀罃(じゅんおう)と言い、荀氏(じゅんし)の傍系となる。


 知邑(ちゆう)を持つ嗣子であるため、知伯、というわけである。


 公族大夫であるが、ある程度年かさであり、経験も豊富なため、卿である父の元で既に職務についている。


 木の元で立っていた趙武は慌てて末席に戻り拝礼した。


 穏やかで細やかに教えてくれる人だがめったに来ない強い先達。そんな人に失態を見せたのが恥ずかしかった。


 士匄は。


 士匄は、ひきつっていた。


 こわごわと歩くと、己の席へ座り、手の隅々まで神経が通っているような、美しく丁寧な所作で拝礼した。


 そこには、集中と緊張があった。


 荀罃が笑んで口を開く。


「若い方々は元気で良い。議もかなり熱が入っているようだが、儀礼を忘れてはいけない。我らを作っているのはまずそれだ」


 穏やかな笑みに、趙武がほっと一息をつく。


 荀罃の視線は士匄へと滑っていく


「――出迎えの拝礼がなく、よもや范叔は蛮族に落ちたかと思ったが、今の礼を見て安心した」


言葉の内容は強かったが、怒っている気配を感じなかった。


 が、士匄は少し目を泳がせた。


 この荀罃(じゅんおう)は普段穏やかであり言葉を荒げるようなことはない。


 しかし、こと政事や軍事になると極めて厳しい。


 特に軍事的な話になると鉄鉱石のような硬さを見せる。いわゆる軍人気質なのである。


 そして、士匄はかつて荀罃に教導されていた。


 今の士匄と趙武の関係に似ているが、教導というより新兵教練であった。


 韓無忌が真っ直ぐと荀罃(じゅんおう)を見ながら、


「知伯のお言葉は良いものです。我ら儀礼を忘れれば、心も忘れましょう。実は、范叔についての議がございまして、少々紛糾しておりました。知伯は経験深く、我らより見識高い方です。ご意見お伺いしたくお招きいたしました」


 と、言い切った。


 それを受けて趙武が口を開く。


「儀礼というものはただ形だけではなくまず心と申します。范叔には礼の心がかけています。責任転嫁しております」


 士匄は趙武をにらみつけた。


 はっきり言って己が悪いなど思っておらぬ。また、売られたケンカは必ず買い、倍にして返す信条である。


 士匄は荀罃にことの経緯をすらすらと、分かりやすく鮮やかなほどの言葉で説明した。


 それをじっと、時々考えるそぶりを見せながら聞き終わったあと、荀罃が口を開いた。


「人を贄にした件で確認したい。それは、相手が差し出したものかな? それとも本人が申し出たものか?」


 士匄は首を振る。


「引き渡す邑を己のものだと叫ぶ狂人でした。姿は素衣素冠(そいそかん)、おおかたどこかの葬式漁りだったのが、気がおかしくなったのでしょう」


 葬式漁りとは、他人の葬式に参列しては配られる食物や衣を貰う輩のことである。当時、こういったものは少なくなかった。


 それはともかく士匄の話は続く。


「まあ、どちらにせよ我が士氏の邑となる。その男の地というなら、そいつも盟いの儀にいれるは必定。ゆえ、殺して生け贄として一緒に埋めた」


 理として正しかろう、と堂々と言い切る士匄に、趙武が唖然とした。


「いえいえいえいえ。ちょっと。その狂人の祟りじゃないです? そたれ。きちんと埋葬してあげましょうよ」


「は? 儀はすでに行ったのだ。それを掘り返すほうが不祥であろう」


 趙武の思わずなツッコミに士匄がバカにした顔で返す。


 なおも言い合いを行おうとする士匄と趙武を手で制し、荀罃(じゅんおう)が苦笑を浮かべながら口を開いた。


「范叔の理はわかる。私が范叔の立場でも、最終的に同じ事をしただろう」


 荀罃の言葉に趙武が戸惑いの顔を見せた。


 士匄は得意げな顔をする。荀罃のおすみつきだ、と。――が。


「ただ、范叔は手順を間違えている」


 見事な手のひら返しに士匄は口をとがらせた。


 そんな士匄など無視して、荀罃の言葉は続く。


「そして趙孟の言葉もわかる。その狂人の祟りであるということだ。それは確かだろう。が、埋葬しなおせばよいわけではない。范叔は理を優先するあまりに、結論だけに拘った。趙孟は情を優先するゆえ過程の疑問に気づいたが、物事の正解にたどり着いていない」


 士匄は眉をしかめた。結論にこだわりすぎると荀罃に折檻されたことを思い出したのである。


 趙武が


「では、式と解はどうなのでしょうか」


 と問うた。


 荀罃は頷くと、温和な笑みで士匄を趙武を見回した。


「ところで范叔は趙孟を教導しているな。趙孟は複雑な育ちゆえ、范叔が大夫としての心得を導くは良きこと。反面、范叔は答えが見えすぎるため、色々なものを取りこぼす。趙孟はひとつひとつのことを丁寧に見て考える性質です。教導するものは相手に学ぶことも肝要」


 荀罃の言葉に傍らの韓無忌が深く頷く。感じ入るものがあったのだろう。


「まあ、小難しいことを申し上げたが、簡単に言えば范叔と趙孟の二人でこの問題を解決しなさい。范叔は己の問題ということもあるが、このままでは汝だけの話で終わらなくなる。趙孟としてはご苦労なことでもあるが、何故范叔に理があるのかわかっておられないご様子。そこに学びがある。どうしてもわからなければ、私に頼って下さい。若者は先達を頼り教えを請うのもひとつの研鑽なのだから」


 にこりと笑う荀罃(じゅんおう)に、士匄と趙武は顔を見合わせた後、


「ええええええええっ」


 と叫んだ。


 特に趙武は叫んだ後、私、巻き込まれ損じゃないですかあああ、と頭を抱えた。


 おかわいそうな趙氏の長であるが、この経験はきちんと身になる。たぶん。

お読みいただきありがとうございます。第一章『因果応報、春の祟り』は10話構成です。よろしければ10話までこの凸凹先輩後輩バディと反省する気のない主人公の末路を見守ってくださると幸いです。

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