第7話
西暦1945年夏・七月下旬 東京/官邸 午前
官邸の廊下に甘い匂いが混じったのは、午前の会議が途切れた直後だった。
紙とインクと、湿った緊張だけが支配するはずの空間に、異物のような香りが漂う。
足を止めた職員たちの視線の先に、生筋有喜が現れる。
後ろには係の者が付き、木箱を慎重に運ばせていた。
箱は十。どれも同じ大きさで、無駄な装飾はない。
箱が開けられると、台湾バナナが姿を見せる。熟度は揃い、痛みも少ない。
輸送を考えた扱いだと、一目で分かる。その脇に、小さな包みが置かれる。中身は小魚の干物だった。
主要メンバーと妻たちが集まり、控えめな驚きが広がる。
歓声は上がらない。だが、空気は確実に和らいだ。
吉田功は一歩近づき、生筋に声を落として尋ねる。
「これは、どうした?」
生筋は箱から視線を離さず、短く答える。
「試験の結果です。数字が形になっただけです」
その言葉の内側には、具体的な経過があった。
台湾では、既存のバナナ園を基点に、収穫と選別、追熟の工程を細かく区切り、
無理のない量で回す試みが続けられていた。出荷量を増やすのではなく、傷まず届く比率を上げる。
そのために、収穫時期をずらし、箱詰めの方法を簡素化し、余計な積み替えを避けた。
輸送は軍用ではなく、空いた便を選び、記録は最小限に留める。
数字としては小さいが、継続性を確認するには十分な結果だった。
机上の計算ではなく、生活に届く形で成立するか。その検証が、ようやく一巡したに過ぎない。
当時、バナナは嗜好品に近い存在だった。
都市部では滅多に出回らず、子供が口にすることは稀で、病人向けや特別な配給として扱われることが多い。
輸入に頼る果物であり、戦時下では真っ先に姿を消す。
だからこそ、房のまま、傷まずに届くという事実自体が異例だった。量よりも象徴性が大きい。
甘味が不足する時代に、自然の甘さがそのまま残っていることが、生活の余裕を思い出させる。
干物の包みを手に取った妻たちが、ひそひそと話し始める。
台湾沿岸で獲れた小型の鰯に近い魚で、開いて塩を当て、日陰で干したものだという。
焼いてほぐし、茶漬けにするか、刻んで菜と和えるか。
油は使わず、旨味を引き出す食べ方が自然と口に上る。
「量は多くない」
生筋は静かに付け加える。
「ですが、続けられます」
吉田はそれ以上問わない。箱に触れ、短く息を吐く。
「……なるほどな」
評価ではない。ただ、理解の声だった。
廊下に人の流れが戻り、妻たちは箱を抱えてそれぞれの持ち場へ散っていく。
官邸に、久しぶりに献立の話題が生まれる。
生筋有喜は一歩引いた位置からそれを見届け、数字がまた静かに次の段階へ進んだことを確認していた。
◇
その動きは、公式の記録にはほとんど残っていない。残す必要がなかった、という方が正確だった。
生筋有喜が着目したのは、戦局を左右する派手な資源ではなく、既に存在していながら使われていない力だった。
台湾におけるバナナ栽培と、日本が民間で培ってきた漁業技術。
その二つは、戦争の最前線から見れば取るに足らない周縁事例として扱われていたが、
生筋の視点では、むしろ「最後まで残る要素」に近かった。
台湾では、すでにバナナ栽培の技術が確立していた。
品種選定、植え替え周期、収穫時期の調整、追熟の管理。
いずれも新規技術ではなく、民間農家が積み重ねてきた知識の集合体だった。
問題は量ではなく、戦時下でそれをどう維持するかにあった。生筋は増産を命じなかった。
代わりに、傷まずに届く比率を上げること、作業工程を単純化すること、
記録や報告の負担を最小限にすることだけを条件として示した。増やせば破綻する。続ければ残る。
その線を越えない範囲での試験だった。
指示は内々に、台湾駐在の日本側へと伝えられる。
文面は簡素で、命令というよりも確認に近い内容だった。
できる範囲でやること、無理はしないこと、失敗しても責任を問わないこと。
その三点だけが明記されていた。
結果として、現地では既存の園を使い、少量を何度も動かす形での運用が始まる。
派手な成果は出ないが、途切れないという事実だけが積み上がっていった。
漁業についても同様だった。
生筋が重視したのは、大型船団や燃料を大量に消費する遠洋漁業ではない。
日本が古くから持ってきた沿岸中心の漁法、そして一本釣りによるカツオ漁だった。
燃料をほとんど使わず、道具も簡素で、現地調達が可能な方法だけを選ぶ。
漁そのものは現地の労働者と日本の民間漁師が担い、駐在兵は治安維持と技術保全に専念させる。
役割を混ぜないことが、継続の条件だった。
船についても、本土から運ばなかった。設計だけを伝え、材料は現地で調達する。
小型で、修理しやすく、失っても致命傷にならない規模。
その判断は、効率よりも持続性を優先した結果だった。
獲れた魚は現地で消費され、余剰分だけが加工に回される。干物や乾物、簡易的な缶詰。
高度な設備は使わないが、保存性だけは確保する。
その技術もまた、日本の民間が蓄えてきた知恵だった。
これらの取り組みは、戦果として報告されることはない。
数字にすれば微々たる量であり、戦局を変える力はない。
しかし、生筋にとって重要だったのは別の点だった。これらは「終わった後」にも残る。
人が覚え、土地に根付き、道具が使い回される。破壊されにくく、奪われにくい形で存在し続ける。
だからこそ、記録は最小限に留められた。成功も失敗も、大きく扱わない。
続いている、という事実だけが共有される。台湾、ハワイ、サイパン、グアム。
それぞれの場所で、同じ思想が静かに試されていた。
量を誇らず、効率を競わず、ただ止まらないことを優先する。
官邸に届いたバナナと干物は、その過程の一断面に過ぎない。だが、生筋にとっては十分だった。
机上で回していた数字が、生活の形を取って戻ってきた。それは勝利の証ではない。
だが、破壊の後に何が残るかを示す、ささやかな実証だった。
戦争は、いずれ終わる。
その時に国が立っていられるかどうかは、こうした小さな積み重ねに左右される。
生筋有喜は、そのことを誰よりも早く理解していた。
だから彼は、今日もまた、大きな声を出さず、静かに次の数字を動かしていた。
◇
その夜、官邸の一角に設けられた連絡会議室には、昼間とは別の緊張が漂っていた。
照明は落とされ、窓の外の気配だけが薄く伝わってくる。
机上に並ぶ資料は、軍事行動の報告ではなく、数字の推移と生活物資の一覧だった。
議題は明確にされていない。ただ、各人が抱えている焦点は一致していた。
今日一日で見えたものを、どう扱うか、という一点だ。
軍部の参加者は、昼間の会議よりも言葉を選んでいた。
声量は抑えられているが、内側に溜まった圧は消えていない。配分、責任、次の手。
いずれも直接口にすれば場が荒れることは、全員が分かっている。
そのため、議論は数字の確認から始まる。被害の補正値、復旧の見込み、資材の残量。
表を追う指先だけが動き、視線は資料に落とされたままだ。
そこへ、昼に配られたバナナと干物の話題が、誰からともなく持ち出される。正式な議題ではない。
だが、無視することもできない存在感を持っていた。
官邸に届いた食糧が、単なる差し入れではないことは、ここに集まる者なら誰でも理解している。
どこから来たのか、なぜ今なのか。その問いが、言葉にされないまま場を支配していた。
生筋有喜は、あえてその話題を拾わない。代わりに、数字の一部を机の中央へと移す。
台湾、サイパン、グアム。いずれも量は小さいが、継続している線が引かれている。
その線は、軍事的な補給路とは重ならない。別の理屈で成り立つ流れだった。
「これは、戦果ではありません」
生筋が静かに言う。
誰かを説得する調子ではなく、定義を揃えるための言葉だった。
「止まらないことを確認しているだけです」
軍部の一人が、反射的に眉を動かす。
止まらない、という表現が意味するところを、すぐに理解したからだ。
それは、壊されにくいということでもあり、奪われにくいということでもある。
だが同時に、即効性はない。いま目の前の戦況を変える力にはならない。
「それで、何が変わる」
問いは鋭いが、攻撃的ではなかった。
生筋は間を置き、視線を資料から外さずに答える。
「終わらせた後の選択肢が減りません」
その一言で、場の空気がわずかに変わる。
終わらせた後。
その言葉は、ここでは慎重に扱われるべきものだったが、誰も否定しなかった。
吉田功は、しばらく黙って二人のやり取りを聞いていた。昼間、廊下で見た光景が、頭の中で重なる。
箱を抱えた妻たちの姿、献立の話をする声。
それらは政治とは無縁に見えるが、実際には国家の持続性そのものに直結している。
彼は、その感覚を言葉にする必要があると判断した。
「今日のあれは、説明ではなかった」
吉田はそう切り出す。
「説得でも、命令でもない。ただ、選択肢が残っていると示しただけだ」
軍部の参加者が、ゆっくりと頷く。
誰かに責任を押し付けるよりも、次に何が出来るかを考える余地が、確かに残された。
「予算の話に戻そう」
別の声が言う。だが、その響きは昼間とは違っていた。
確保するための争いではなく、使い方を考えるための入口としての言葉だった。
生筋は、その変化を確認し、資料を一枚だけ差し替える。
そこには、数字ではなく、手書きの簡単な図が描かれている。
線は細く、途切れそうだが、確かにつながっている。
「急がなくていい」
吉田が言う。
「今日決める必要はない。ただ、壊さない方向だけは共有したい」
誰も反論しない。その合意が、この夜の成果だった。
会議が解かれる頃、外はすっかり暗くなっていた。
廊下を歩くと、どこかで干物を焼く匂いが漂ってくる。誰かが、もう動き始めている証だった。
生筋有喜は、その匂いを一瞬だけ感じ取り、足を止めずに歩き続ける。
数字は、まだ静かだ。だが、確実に次の段階へ進み始めていた。
~おまけ~ 「バナナは、なぜ戦争を生き延びたか」
― 台湾・フィリピン・ミャンマー、三つのバナナ史 ―
はじめに、
1945年当時、バナナは嗜好品ではなかった。
**即効性のある栄養源であり、物流に耐える“優秀な作物”**だった。
現在の日本で当たり前に並ぶバナナは、その多くがフィリピン産だが、
戦前・戦中において日本が最も深く関わっていたのは、台湾のバナナである。
本節では、
台湾バナナ、フィリピンバナナ、ミャンマーバナナを、当時と現代の両視点から整理する。
Ⅰ.台湾バナナ ― 日本が「育てた」果物
当時(戦前〜1945年)
台湾バナナは、日本統治下で商品作物として本格的に改良された数少ない果物だ。
品種改良、病害管理、収穫後の追熟管理まで含め、台湾ではすでに「輸出を前提とした農業モデル」が確立していた。
特徴は明確。
糖度が高い、繊維が細かい、熟成が均一、重要なのは現地で栽培技術が完成していた点だ。
戦時においても、軍需と直接競合せず、比較的維持しやすい作物だった。
現代:戦後、日本市場から台湾バナナは一時姿を消すが、
「高級バナナ」「昔ながらの味」として再評価されている。
量より質。これは戦前から一貫した性格だ。
Ⅱ.フィリピンバナナ ― 量で殴る、戦後型モデル
当時、1945年前後のフィリピンでは、
バナナは現地消費中心で、日本向けの体系的輸出はまだ限定的だった。
品種も多様で、甘味はばらつく、サイズも不揃い。つまり、工業製品的ではなかった。
現代:戦後、アメリカ主導で農業が再編されると、状況は一変する。
キャベンディッシュ種の集中栽培、大規模プランテーション、低コスト・大量輸送。
現在、日本で「普通のバナナ」と認識されているものの大半は、このモデルの産物だ。
味は平均化され、安定はするが、個性は薄い。
Ⅲ.ミャンマーバナナ ― 食料であって商品ではない
当時:ミャンマーでは、バナナは完全に生活作物だった。
家庭で育てる、市場で消費する、保存や輸出は考えない。
ただし品種は豊富で、料理用・蒸し用・乾燥用、など用途別に使い分けられていた。
戦時においては、
現地兵站の補助食として極めて有効だったが、輸出・長距離輸送には向かない。
現代:今も基本構造は変わらない。輸出量は少なく、地域密着型。「強いが、広がらない」作物だ。
Ⅳ.なぜバナナは戦争向きだったのか
三地域に共通する点がある。
生育が早い、高カロリー、調理不要、皮で保護されている。つまり、兵站向きの果物だった。
米が不足し、砂糖が消え、油脂が枯渇する中で、
バナナは「甘味・炭水化物・満腹感」を一度に供給できた。
Ⅴ.当時と現代の決定的な違い
当時
バナナ=貴重品
子供・病人・要人向け
「配る」果物
現代
バナナ=日常品
朝食・間食
「買う」果物
この差は、農業技術の進化ではなく、物流と余剰の差だ。
おわりに:
台湾バナナは、管理と品質の象徴。
フィリピンバナナは、量と効率の象徴。
ミャンマーバナナは、生活と自給の象徴。
同じ果物でも、国家と時代が違えば、意味はまったく変わる。
そして1945年、バナナは確かに「戦争を生き延びる果物」だった。
それを覚えている人間は、もう多くない。
左)台湾バナナで代表的な種類
中)フィリピンバナナで料理に使われる(煮る・焼く・揚げる)
右)ミャンマーで好かれる「モンキーバナナ」




