第6話
西暦1945年夏・七月下旬:午前(企画院)
企画院の執務室には朝の光が均等に回っていた。
窓際に置かれた資料棚には、前夜の更新分がそのまま残され、誰も手を付けていない。
生筋有喜は机の正面に座り、部下たちが揃うのを待ってから、視線だけで先を促した。
「まず、資源の数字を確認する」
彼の声は低く、抑制されていた。命令というより、議論の開始を告げる合図であり、
室内の空気を一段落ち着かせる効果を持っていた。
担当者は資料を開き、鋼材と燃料の推移を示す。総量は維持されているが、
用途別の比率が変わり始めていることが明確だった。
「名目上は横ばいですが、民需向けの更新分が後ろ倒しです」
説明する声には、慎重さが滲んでいた。現時点では問題にならないが、
放置すれば後でまとめて効いてくることを、数字が示している。
生筋はその表から目を離さず、次の束に手を伸ばす。
「輸送はどうだ」
問いは短いが、求めているのは結果ではなく、変化の兆しだった。
部下たちはその意図を理解している。
「鉄道の稼働率は回復していますが、貨物の回転が落ちています」
港湾から内陸への流れが細り、数字の帳尻だけが合っている状態であることを、
補足資料が静かに裏付けていた。
生筋は資料を重ね直し、金融の束を中央に置く。
「金融は、もう鈍っているな」
断定ではなく確認だった。すでに見えている変化を、言葉にして揃えるための発言だった。
「はい。流通量は維持されていますが、新規投資が止まり始めています」
理由を問われなくても、先が読めないという判断が企業側に広がっていることは、
全員が共有していた。
生筋は三つの資料を並べ替え、重なりの位置を変える。
「同時には壊れない。必ず一つが先に来る」
結論ではなく前提として置かれた言葉だった。どれが先かは、
すでにこの部屋にいる全員が理解している。
その時、扉が叩かれ、連絡担当が入室する。軍司令部からの正式な照会だった。
「軍から、次の判断に企画院の最新数値を使いたいとの連絡です」
要請の形を取っているが、拒める段階ではないことが、言葉の選び方に表れていた。
生筋は一拍置き、顔を上げずに答える。
「数字は出す。結論は渡さない」
判断材料と判断そのものを切り分ける線を、改めて室内に示す発言だった。
部下の一人が、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「軍は、相当焦っています」
感想ではなく観測としての言い方だった。短距離の数字が動き始めた結果だと、誰もが分かっている。
生筋は資料から視線を外し、全員を見る。
「だからこそ、こちらは慌てない」
それは姿勢の確認だった。企画院が担う役割を、再度共有するための言葉でもあった。
更新の扱いは通常通りと決まり、議論はそこで区切られる。
窓の外では車の音が続き、都市はまだ機能している。
生筋有喜は、その事実を確かめるように資料を閉じた。数字は保たれている。
ただし、壊れる順番だけが、静かに見え始めていた。
◇
その日の午後、官邸に入った第一報は簡潔だった。
米軍による大規模空爆。複数編隊。目標は沿岸部の工業地帯と、その背後に広がる市街区域。
被害の全容は未集計だが、初動の数字だけで、規模が小さくないことは明らかだった。
時間を置かず、被害報告が積み上がる。
工場数棟の全焼、送電設備の一部喪失、鉄道支線の寸断。
軍需工場も民需施設も区別なく削られ、復旧見込みは不透明と付記されていた。
軍部の反応は早かった。
司令部から官邸宛に正式な申し立てが入り、同時に企画院の配分判断が名指しで挙げられる。
「企画院の配分が、工業地帯の防護を薄くした」
軍側の説明は、数字を伴っていた。
高射配置、資材移動、予備電源。
いずれも、企画院が示した優先順位に沿って調整された結果だという論理だった。
官邸は即座に企画院を庇護する姿勢を示す。
配分は内閣決定に基づくものであり、単独の判断ではない。
責任の所在を一機関に押し付けるべきではない、という公式見解が出された。
だが、議論はそこで終わらなかった。
軍部の申し立てには、数字の筋があった。
防護が薄くなった区画と、被害を受けた区画が一致している。
偶然と切り捨てるには、符合が多すぎた。
「結果として、被害が拡大したのは事実だ」
その一文が、空気を変える。
誰も企画院の判断が誤りだったとは言わない。
だが、結果責任という言葉が、議題として机上に置かれた。
総理は沈黙を選ぶ。
企画院を守る必要がある一方で、軍の主張を全面否定すれば、今後の協力関係に亀裂が入る。
どちらを切っても、国家運営に影響が出る局面だった。
官邸内の空気は、次第に重くなる。
庇護と距離取り、その両方を同時に求められる矛盾が、調整役である総理に集中していく。
生筋有喜は、その議論を一歩引いた位置から受け止めていた。
責任を問われているのは判断ではなく、数字の使われ方だということを、彼自身が最も理解している。
被害は出た。
だが、どの判断をしていても、被害がゼロになることはなかった。
問題は、ここからだった。
この被害を理由に、次に何が動かされるのか。
責任追及が、どこで終わり、どこから別の目的に使われるのか。
その兆しが、すでに見え始めていた。
◇
官邸の調理場は、会議室とは別の緊張を帯びていた。
火を落とした竈の前で、吉田めると愛花が並び立つ。
二人の前には、まな板と包丁、そして控えめな量の沢庵と梅干しが置かれている。
豪華とは言えない。だが、工夫の余地だけは残されていた。
「量を増やすことは出来ないわね」
めるはそう言いながら、沢庵を手に取る。大きく切れば、すぐに尽きる。だから細かくする。
意味が分からなくなるほど、形を失うまで刻む。その覚悟を、包丁の構えに込める。
最初の一太刀が入る。
乾いた音が、調理場に響いた。
愛花は無言で隣に立ち、梅干しの種を外す。
身を無駄にしないよう、包丁の腹で削ぎ落とし、繊維を断ち切る位置を確かめる。
包丁はためらわない。刻む。さらに刻む。
「これでもか、ね」
愛花が小さく呟く。
包丁が上下するたび、沢庵は粒になり、梅肉は赤い点になる。
味を主張させないための刻み方だった。どこを食べても、同じだけ混ざるように。
選ぶ理由が、好みだけになるように。
めるの包丁も止まらない。
包丁は料理のためだけに振るわれているわけではなかった。
言葉を刻む代わりに、材料を刻んでいる。
会議室で飛び交う責任論や非難を、ここで受け止め、細かくして、飲み込める形に変える。
その作業だった。
「熱くなってるでしょうね」
愛花が言う。
会議室の様子は見ていなくても分かる。被害が出れば、声は荒れる。
数字が絡めば、立場は固くなる。
「だから、選ばせるの」
めるは答える。
一つしか無ければ、それが正解になる。
三つあれば、選択になる。選んだという事実が、場の温度を下げる。
炊きあがった飯に、刻んだ沢庵を混ぜる。次に梅肉を混ぜる。最後は何も混ぜない塩だけのもの。
どれも量は同じ。握る力も同じ。大きさも揃える。
手のひらで形を整えながら、めるは一つ一つに余計な意味を持たせないよう気を配る。
これは説得ではない。説教でもない。ただの選択肢だ。
盆に三種の塩むすびが並ぶ。
白、淡い黄、かすかな赤。色合いが違うだけで、主張はしない。
「行きましょうか」
愛花が言い、二人は盆を手に取る。
連絡会議は、案の定、熱を帯びていた。
軍部の声は強く、企画院の配分判断が繰り返し俎上に載せられている。
数字に基づく議論ではあるが、語調には感情が混じり始めていた。
その只中に、二人は入る。
扉が開き、視線が集まる。
めるは一礼し、愛花は半歩後ろで盆を支える。
「お話の途中で、失礼いたします」
声は低く、場を遮らない。
誰も咎めない。理由を問う者もいない。今の空気では、それが出来なかった。
盆が机の端に置かれる。
三種類の塩むすびが、等間隔に並ぶ。
「こちらは、いつもの塩むすびです」
めるは最初に白いものを示す。
「こちらは、沢庵を細かく刻んで混ぜてあります」
形が分からないほど刻まれていることを、あえて説明する。量ではなく、工夫の話として。
「こちらは、梅肉を同じように刻んで混ぜたものです」
愛花が続ける。言葉は短いが、手間の重さは伝わる。
「三つとも、量は同じです」
その一言で、条件が揃う。上下も、正解も、用意されていない。
「どうぞ、お選びください」
選ぶ。久しく、この場から失われていた行為だった。
年配の将官が、しばらく眺めた後、沢庵入りを取る。理由は語らない。
若い参謀が梅肉を選び、別の者が白い塩むすびに手を伸ばす。選択は静かに分かれる。
一口、噛む。
沢庵の歯応えに、わずかな笑みが漏れる。梅肉の酸味に、眉が緩む。
白い塩むすびを選んだ者は、黙って頷く。
その瞬間を、吉田功は見ていた。
「……皆で知恵を出そうじゃないか」
声は強くない。だが、確実に届いた。
「責任を決める前に、選択肢を増やしたい」
「誰か一人が背負う話じゃない」
誰もすぐには反論しない。
手の中の塩むすびが、議論の速度を落としていた。
選ぶことが出来る。
選び直す余地がある。
その感覚が戻ったことで、場はようやく冷え始める。
めると愛花は、静かに一礼し、調理場へ戻る。
包丁はもう使わない。刻む役目は終わった。
会議室には、怒号ではなく、思考の音が残った。
吉田はそれを確認し、再び机に向き直る。
「急がなくていい。まず、出来ることを並べよう」
知恵を刻む時間が、ようやく始まった。
~おまけ~
件名:1945年前後における梅干しの一般的製法および塩分特性に関する想定整理
1. 目的
本メモは、1945年前後の日本において一般家庭で流通・消費されていた梅干しの製法および塩分特性を整理し、現代の梅干しとの定性的・定量的差異を明確化することを目的とする。
あくまで生活史・家庭慣行・当時の物資状況に基づく想定整理であり、実測・再現実験は行わない。
2. 当時の一般的な梅干し製法(想定標準)
原材料構成
・青梅または完熟梅
・食塩
・(必要に応じて)紫蘇
※砂糖・蜂蜜等の甘味料は使用しない。
塩分比率
・梅重量比 10〜20%
・都市部・保存優先家庭:15〜20%
・農村部・自家消費前提:10〜15%
製造目的
味覚向上ではなく、長期保存・腐敗防止が主目的。
硬め・強塩・酸味主体の仕上がりが一般的。
3. 現代梅干しとの比較(概念整理)
区分塩分濃度(目安)味覚特性
現代はちみつ梅3〜5%甘酸
現代減塩梅6〜8%穏和
現代伝統梅約10%酸塩
1945年想定梅15〜20%強塩・保存重視
当時の梅干しは、現代基準では「調味料に近い保存食」と位置付けるのが妥当。
4. ご飯1合(約330g)への混合想定
前提条件
・梅干し1粒:約10〜15g
・可食部:6〜8g
・塩分量(15%想定):約1g/粒
ケースA:半粒(極細刻み)
・塩分:約0.5g
・全体に均一な酸味
・「味があるが主張しない」
・官邸・儀礼的場面向き
ケースB:1粒(刻み)
・塩分:約1g
・明確な味付け
・塩むすび不要
・実務・現場寄り
ケースC:2粒
・保存食的
・嗜好より補給優先
・軍用飯水準
5. 「刻む」行為の機能的意義
・塩分と酸味の均一化
・少量でも満足感を得やすい
・量的贅沢に見えない
・「選択肢」を作れる
刻み梅は、節約・合理性・品位の交点に位置する技法と整理できる。
6. 物語設定上の整理結論
1945年当時、梅肉を刻んで飯に混ぜる行為は不自然ではない
画期的ではないが、生活知として十分成立
当時の人物が違和感なく受け入れる範囲
7. 参考的まとめ(私的所感)
要するに、
当時の梅干しは「一粒で白米が黙る」代物であり、刻んで混ぜるのは、
「量を増やす」ためではなく、「文句を減らす」ための知恵だった、ということになる。
そして現代人が同じ配合で作れば、たぶん一口でこう言う。
「……しょっぱ!!」
以上。




