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第5話

 西暦1945年夏(七月下旬)/東京・官邸


 官邸の非公開会議室に、生筋有喜は最後に入った。

 時間に遅れたわけではない。

 彼が着席するまで、議題が始まらないことを、全員が承知しているだけだ。


 机上の資料は用途別に整えられていた。軍令部、内務省、企画院。

 生筋の前に置かれた資料束は薄い。

 だがその薄さは、関係部署をすでに通過し、数字が削ぎ落とされた後であることを示していた。

 

 「では、続けよう」

 議長役の官僚がそう言い、夜間空襲の被害と復旧見込みが読み上げられる。

 市街地焼失率、電力復旧時間、鉄道稼働率。どれも既に共有済みの数字だ。

 説明は簡潔で、誰も口を挟まない。

 

 一巡すると、視線が自然と生筋に集まった。

 彼はすぐには話さない。資料の端を揃え、表の数字を一度だけなぞる。

 

 「企画院としての所見は」

 名指しはされない。だが問い先は明確だった。

 「現行配分のままでは、工業復旧は年度内に頭打ちになる」

 

 軍側の将校が反応しかけ、隣の官僚が小さく手で制す。

 この場では、生筋の数字が先に扱われる。


 企画院は、表向きには調整機関だ。

 だが実態は、資源配分、労務動員、価格統制、金融誘導までを一括して管理する国家中枢だった。


 生筋の直轄部下は約三百名。

 各省からの出向官僚に加え、民間企業や研究機関から引き抜かれた技術者が含まれる。

 地方の企画院分室まで含めれば、指揮系統下の人数は二千名規模に達する。

 数字を扱う人間の数としては、内閣内でも最大級だった。


 「軍需を優先すれば、鋼材と燃料は短期的に確保できる」

 生筋は淡々と続ける。


 「だが、その分だけ民需が痩せる。住宅復旧が遅れ、電力網の更新が後ろ倒しになる」

 「鉄路が詰まれば、労働力の再生産が止まる」

 「結果として、半年後の工業稼働率が下がる」


 資料が一枚、机の中央に置かれる。

 「逆に民需を維持すれば、軍需は分散し、即効性を失う」

 「どちらも正しいが、どちらも長くは続かない」

 均衡点はすでに狭い。

 その事実を、生筋は数表と推移線で示していた。


 生筋の年俸は、当時で約一万五千円。

 官僚としては高額だが、軍の最高幹部よりは低い。

 現代水準に置き換えれば、中央省庁幹部の数倍に相当するが、

 国家全体の資金配分を預かる立場としては、過度な数字ではなかった。


 本人は、その額を問題にしない。

 署名一つで動く金額の桁が、比較にならない。

 「反撃を行えば、企画院の計画は全面的に組み替えが必要になる」

 生筋は軍側を見ない。総理の方向だけを見る。

 「資源、輸送、通貨。すべて再計算です」

 「最低三か月。その間、復旧の窓は閉じる」


 吉田功は即答しない。

 生筋の発言が、意見ではなく制約条件であることを理解している。

 この場で無視することは可能だ。だが無視すれば、その後の数字が動かなくなる。


 「企画院としては、いまは動かさない、でいいか」

 総理が確認する。


 生筋は短くうなずいた。

 「はい。動かせば、終わり方の選択肢が減ります」

 

 それ以上は言わない。説明も、評価も付け加えない。

 会議はそのまま閉じられた。追加の問いは出なかった。

 

 決断を下すのは総理だ。だが、国家が通れる道の幅を示したのは、生筋の数字だった。

 企画院総裁は命令を出さない。ただ、国家が進める範囲を、静かに定めている。

 その事実だけが、会議室に残った。


 ◇


 官邸の会議室を出ると、廊下の空気はわずかに緩んでいた。音が消えるわけではない。

 ただ、声の成分だけが削られている。議論の続きを外に漏らさないための、官邸特有の静けさだった。


 生筋有喜は歩調を変えず、窓側の回廊を進む。背後に付くのは企画院の実務責任者が一人だけ。

 距離は三歩。近すぎず、遠すぎない。呼ばれなければ話さない位置だ。


 内務省の局長が軽く会釈をする。生筋は視線を外さず、同じ角度で返す。言葉は不要だった。

 会議で置かれた数字は、すでに共有されている。


 企画院の控室に入ると、空気の質が変わる。軍事資料はない。

 代わりに並ぶのは、資源残量、輸送能力、金融流通、労務動員の推移表だ。

 戦争そのものではなく、戦争が続いた結果として残るものだけが置かれている。


 「鋼材在庫、前月比でさらに三%低下しています」


 責任者が報告する。声は淡々としているが、内容は軽くない。


 「港湾は復旧していますが、内陸輸送が詰まっています。鉄道の貨物回転率が戻りません」


 生筋は資料を受け取り、数字を追う。想定との差は小さい。問題は、改善が起きていないことだ。


 「軍需を削れば、即座に戦力に影響が出る」


 生筋は言う。


 「民需を削れば、遅れて国家に影響が出る」


 どちらも理解されている前提だった。違うのは、影響が表に出るまでの距離だ。


 軍需は短距離だ。弾薬、燃料、部品。削れば、数字はすぐに反応する。

 民需は長距離だ。住宅、電力、鉄路、食糧流通。削っても、すぐには崩れない。

 だが一度崩れれば、回復線は戻らない。


 「反撃が行われた場合の再計算は」


 責任者が問う。


 「三か月では足りない」


 生筋は即答する。


 「数字を組み替えるだけなら三か月だが、実体が追いつかない。

 労働力の再配置、価格統制の修正、通貨信用の維持。最低でも半年は必要になる」


 書き留める音が室内に落ちる。異論は出ない。数字はすでにそれを示していた。


 生筋が見ているのは、勝つか負けるかではない。勝敗が決まったあと、国が機能しているかどうかだ。


 通貨が信用を失えば、賃金は紙になる。

 鉄路が止まれば、食糧は届かない。

 電力が落ちれば、工場は再開できない。


 それらは、戦争が終わった瞬間に一斉に問題になる。だから終わり方が重要になる。


 「総理は判断を先送りにする」


 責任者が言う。


 「当然だ」


 生筋は否定しない。


 「判断を急げば、選択肢が減る。いま急ぐ理由はない」


 政治は最適解を選ぶ場ではない。最悪を避け続ける場だ。その役割を、生筋は数字で引き受けている。


 反撃は感情を満足させる。短期的には数字も動く。だが、その後に残るのは説明できない損失だ。

 成功しても、失敗しても、国際的な位置づけは同じ方向に傾く。


 残るのは、「やったかどうか」だけだ。


 生筋は、その一点を嫌っていた。


 「企画院は、軍を止めるための組織ではない」


 彼は言う。


 「続けられる範囲を示すだけだ。越えたら戻れない線を、数字で示す」


 室内に沈黙が落ちる。時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。


 生筋は窓の外を見る。疎開で暗くなった街、復旧途中の電線、止まったままの建設現場。

 それらはすべて、数表の裏側にある現実だった。


 「次の更新は」


 「三日後です」


 「同じ条件でいい」


 生筋は言った。


 「数字が悪化しても、結論は変えない。条件が揃ったときだけ、次に進む」


 責任者は深くうなずく。


 判断を遅らせることは、逃げではない。統治の技術だ。

 生筋有喜は、その技術を使い続ける位置に立っていた。


 ◇


  官邸の回廊は昼でも薄暗く、外光は高窓から斜めに落ちていた。

 磨かれた床に映る影は伸び、歩く速度によって形を変える。

 生筋有喜はその影を踏まないように、わずかに歩調を調整して進んでいた。


 曲がり角の手前で、人の気配があった。意図的に待っていたわけではない。

 ただ、互いに立ち止まる位置が、自然とそこになった。


 「久しぶりだな」


 生筋はそう言い、視線を相手の肩口に置いた。正面を見ないのは癖だった。

 真正面に向ければ、過去の時間まで呼び戻してしまうと分かっているからだ。


 「相も変わらずだな」


 麻生は短く返し、苦笑にも見える表情を一瞬だけ浮かべた。

 そのあとすぐ、官僚としての無表情に戻る。ここが官邸であることを、身体が覚えている。


 二人は並んで歩き出す。歩幅が揃うのに時間は要らなかった。

 若い頃、同じ机で資料を広げていた頃と、同じ間合いだった。


 「まだ、この位置にいるとは思わなかった」


 麻生の声には責めも驚きもなかった。ただ、選択の結果を確認するような調子があった。

 数字を扱う者特有の、感情を後ろに置いた言い方だった。


 「必要だからだ」


 生筋は即答する。理由を足さない。

 必要か不要か、それ以上の基準をここで持ち出す意味がないと分かっていた。


 廊下の壁には掲示がない。非常時に余計な情報を置かないためだ。

 二人の足音だけが、低く反響している。


 「企画院の数字、相変わらず重いな」


 麻生は前を向いたまま言った。

 軽口に見せながら、その実、どこまで把握されているかを測る問いだった。


 「軽い数字は、先に捨てられる」


 生筋は歩調を変えずに返す。残るのは、捨てられない数字だけだという前提を、あえて言葉にした。


 二人がかつて属していた部署では、数字の正しさよりも、数字が使われる順番の方が重要だった。

 正しくても使えない数字は、存在しないのと同じ扱いになる。


 「昔は、ここまで来るとは思っていなかった」


 麻生は天井を見上げ、低く言った。想定外だったという意味ではない。

 想定していなかった、という事実の確認だった。


 「想定していたら、違う仕事を選んでいる」


 生筋の返答は短いが、切り捨てる調子ではない。

 選択の積み重ねを、ただ事実として置いただけだった。


 窓の外には、疎開で空いた街区が見える。復旧途中の電線が、風に揺れている。


 「総理は、まだ決めないな」


 麻生は声を落とした。問いではなく、確認だった。

 答えが分かっていることを前提にした言い方だった。


 「決める理由がない」


 生筋は即座に答える。理由がない以上、決めないという判断が成立する。

 その単純さを、あえて崩さなかった。


 「決めた瞬間に、戻れない線が増える」


 その補足は、麻生に向けた説明ではない。自分自身への再確認だった。


 麻生は小さく息を吐き、足を止める。生筋も合わせて止まる。


 「国民には、どう見える」


 麻生の問いは、政治の外側からの視点だった。

 数字ではなく、感情がどう受け取るかを意識した問いだ。


 「何もしていないように見える」


 生筋は視線を逸らさずに答える。見え方を否定しない。それが現実だと理解している。


 「それでもいいのか」


 麻生の声には、わずかな迷いが混じった。数字では処理しきれない部分が、言葉の端に残る。


 「見え方で決めた判断は、あとで必ず歪む」


 生筋は静かに続ける。感情に寄せた判断が、遅れて数字に現れることを、何度も見てきた。


 しばらく沈黙が続く。遠くで時計の音が響く。


 「愛花が、君の名前を出していた」


 麻生は不意に話題を変えた。意図的な切り替えだ。政治の話を、ここで終わらせるための。


 「元気か」


 生筋は一拍置いて聞き返す。感情を挟まないが、無関心でもない距離感だった。


 「変わらない。忙しそうだ」


 麻生は簡潔に答える。それ以上の説明は加えない。私的な領域に踏み込み過ぎないためだ。


 二人は再び歩き出す。


 「また、同じ数字を見ることになる」


 麻生は前を向いたまま言う。予告ではなく、確認だった。


 「避けられない」


 生筋はうなずき、短く返す。その事実を否定する理由はなかった。


 分岐点で、二人は別れる。同じ方向には進まないが、見ている数字は同じだ。


 生筋有喜は歩き続ける。過去は判断を助けない。だが、誤らせない役には立つ。

 その程度の距離で、十分だった。



 ~補足~

 軍需と民需の最大の違いは、影響が表に出るまでの時間にある。

 軍需は短距離、民需は長距離。この差は1945年当時も、現在も変わらない。


 軍需は、弾薬・燃料・部品のように用途が限定されている。

 投入量を増やせば、即座に前線の数字が動く。逆に削れば、すぐに戦力低下として現れる。

 反応が速い分、政治や軍の判断に使いやすい。


 一方、民需は住宅、電力、交通、食糧流通といった生活基盤の集合体だ。

 削ってもすぐには崩れない。しかし崩れ始めると、復旧にかかる時間が指数関数的に伸びる。


 たとえば重工業。

 当時の日本では、三菱重工業 や 川崎重工業 が、軍需と民需の境界に立っていた。

 航空機や艦船は軍需だが、その製造現場は民需インフラに依存している。

 電力が落ちれば工場は止まり、鉄路が詰まれば部品は届かない。


 電力会社も同じだ。

 発電所自体は残っていても、送電網や変電設備が遅れて復旧すると、工業生産は戻らない。

 ここで重要なのは、電力不足が「すぐに全面停止」になるわけではない点だ。

 最初は計画停電や稼働制限として現れ、数週間から数か月遅れて、生産指数の低下として数字に出る。


 金融も時間差を持つ。

 三井銀行 や 住友銀行 のような金融機関は、即座に破綻するわけではない。

 だが流通量が減り、信用が揺らぎ始めると、企業の再投資が止まる。

 これも数か月遅れて、雇用と生産に影響する。


 つまり民需は、削った瞬間ではなく、回復しようとした瞬間に破綻が露呈する。

 これが時間差効果だ。


 軍需を優先し続けると、短期的には「戦えている」数字が保たれる。

 だが民需の回復線が切れた瞬間、軍需を支える基盤そのものが消える。

 工場は再稼働できず、輸送は詰まり、通貨は回らない。


 逆に民需を完全に守ろうとすれば、軍需の即効性が失われる。前線の数字はすぐに悪化する。

 だが国家としての回復余地は残る。


 生筋が見ているのは、この時間差の不可逆性だ。

 軍需は戻せる。民需が一度壊れたあとの回復は、ほとんど戻らない。


 だからこそ「いま反撃するか」という問いは、軍事ではなく経済の問いになる。

 反撃は短距離の数字を動かすが、長距離の数字を破壊する可能性が高い。


 この構造は、1945年特有の話ではない。

 現代でも、大企業がどれほど優れた製品を持っていても、

 電力・物流・金融が止まれば事業は続かない。

 違うのは、回復に要する時間がさらに長くなっていることだ。


 生筋の判断が重いのは、道徳や勇気の問題ではない。

 時間差で壊れるものを、数字で見てしまっているからだ。


 それが、軍需と民需の時間差効果であり、

 彼の議論が戦場ではなく国家を見ている理由だった。


挿絵(By みてみん)


九五式小型乗用車、通称「くろがね四起」

1936年に制式採用された日本製の四輪駆動軍用小型車である。

実用的な4WDを軍用小型車として早期に運用した例の一つで、

悪路走破を前提とした設計思想は当時として先進的だった。

日本は必要性に早く気づいたが量産で広げられず、

アメリカは遅れて着手し、工業力で世界を覆った。

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