第3話
西暦一九四五年夏 東京
官邸を出ると、夜気は思いのほか湿り気を帯びていた。
功は久しぶりに自宅の玄関に立ち、鍵を差し込む。
深夜というほどでもないが、この時間に戻るのは数週間ぶりだった。
戸が開くと、灯りが一つだけともっている。
「おかえりなさい」
めるは、いつもと変わらない笑顔で迎えた。
功はその顔を見ただけで、肩の奥に溜まっていた緊張がわずかにほどける。
官邸では言葉を選び続けるが、ここでは選ばなくていい。
「遅くなった」
靴を揃え、居間へ入る。卓の上には、徳利と小皿が三つ。晩酌と呼ぶには質素だが、空ではない。
「今日はね、少し工夫したのよ」
最初の一品は、大根の皮を細く刻み、醤油と砂糖代用品で煮含めたものだった。
砂糖は配給されないため、芋から取った澱粉を焦がし、香りだけを移す。
甘味そのものではなく、甘さを「想像させる」ための手間だ。噛むほどに味が出る。
二品目は、麦と大豆を乾煎りして砕き、塩を一つまみ落とした即席の肴。
酒が薄い分、香ばしさで補う算段だという。
三品目は、庭先で育てている青菜をさっと茹で、梅干しの種から取った汁を数滴落としたもの。
酢は手に入らないが、酸味は代用できる。
功は盃を取る。酒は、明らかに薄い。
当時、酒が薄いのは珍しいことではなかった。
米不足により清酒の製造量は大幅に制限され、家庭に回るのは配給酒か、代用酒がほとんどだ。
アルコール度数を保つため、醸造用アルコールを水で割り、香味だけを整える。
結果、喉越しは酒でも、酔いは来ない。
だが、それでも「酒」として配られること自体が、まだ余裕のある証だった。
「贅沢でしょう?」
めるは冗談めかして言った。功は盃を口に運び、ゆっくりと頷く。薄くても、酒は酒だ。
口に含む行為そのものが、一区切りを与えてくれる。
他愛もない話が続く。配給所での順番、近所で聞いた噂、畑の土の乾き具合。
官邸では話題に上らないことばかりだ。功は相槌を打ちながら、めるの手元を見ていた。
箸の動きは落ち着いている。慌てていない。それが、何よりだった。
ふと、めるが言う。
「今日は、あなたの帰りが分かったから、火を少し長く使えたの」
功は、その意味をすぐに理解した。
燃料の配給は厳しく、家庭用の薪や木炭は月ごとに量が決められている。
都市部では練炭が主だが、それも数は限られる。
ガスは時間制限があり、電気もいつ止まるか分からない。
火を使う時間は、近所の目も気にしながら調整しなければならない。
今日の肴は、すべて「火を一度だけ使う」工程でまとめられていた。
煮含める、煎る、茹でる。順番を誤れば、燃料が足りなくなる。
官邸で扱う配給表とは別の、生活の中の計算が、ここにはある。
功は盃を置き、めるの顔を見る。笑顔の奥に、疲れがないわけではない。
それでも、日常を保っている。その事実が、胸に刺さる。
官邸では、どう戦うかが議題に上がることは、もう少ない。数字が示すのは限界だ。
防空、復旧、配分。積み上げられるのは、続けるための作業ばかりだ。勝ちの話は出ない。出せない。
功は心中で、問いを反芻する。
戦争を、どう戦うか。
——いや、違う。
目の前には、酒があり、肴があり、明日の話がある。これが、まだ残っているという事実。
これを、どう終わらせるか。その選び方が、戦後のすべてを決めてしまう。
功は盃を取り、最後の一口を含んだ。めるが微笑む。
その笑顔を、できるだけ長く、この家に残すために。
この戦争、どう終わらせるのが一番いいのか。
声には出さなかった。出せば、壊れてしまう気がした。
ただ、その問いだけが、静かに胸の内で形を持った。
◇
生筋有喜は、机に向かいながら、紙に数字を書き込むことをやめていた。列はもう十分に揃っている。
兵站、燃料、輸送、工業力。どの列を見ても、足りないものが増えるだけで、増えるものはない。
功と同じ問いが、形を変えて胸に残っている。
戦争を、どう終わらせるか。
政治に残された仕事は、勝敗を動かすことではない。
戦争が終わったあとに、国が立っていられるかどうかを決めることだ。
終わり方次第で、通貨は紙になる。工場は瓦礫のまま放置される。
民間の回復線が切れれば、戦後という言葉自体が成立しない。
生筋は、反撃を否定しているわけではなかった。ただ、反撃がもたらすものを、数字で見ている。
攻撃が成功しても、失敗しても、国際的な評価は同じ方向に振れる。
終盤においては、「やったかどうか」だけが残る。結果は説明できても、印象は消せない。
それが政治だった。
視点を離すと、当時の状況は冷ややかに並ぶ。海軍は港に縛られ、燃料は動かせない。
陸軍は海外に兵力を残すが、輸送が途絶え、機動力は失われている。
本土の都市は焼かれ、復旧は追いつかない。防空は続いているが、制空権はない。
選択肢は、戦うか、戦わないかではなく、どこまで管理できるかに収束していた。
この状態での一手は、戦局ではなく、戦後処理を直接叩く。生筋は、その一点を何度も確認する。
政治は、最も遅く、最も重い判断を引き受ける場所だ。
午後、官邸で連絡会議が再び開かれた。議題は同じだが、空気が違う。そこに、異議が持ち込まれる。
発言したのは、極端な言葉を選ぶ将校だった。階級は高くないが、声は通る。
「終わらせ方を考える前に、意思を示すべきです」
焦りを隠さず、正面から切り込む。
「追い払えないのは分かっている。しかし、黙って削られ続けるのは違う」
功は即答しない。生筋も口を挟まない。
将校は続ける。
「勝ちに行く話ではありません。だが、反撃もしないまま終われば、何も残らない」
生筋は、静かに視線を上げた。
「何が残らない、と言いますか」
問いは責める調子ではない。
「意思です」
将校は言い切る。
「最後に何もしなかった、という評価が残る」
生筋は頷かない。
「評価は、こちらが選べません」
声は低い。
「終盤では、行為そのものが評価になる。意図は残らない」
将校は食い下がる。
「それでも、やむなしです」
追い払いたい、という感情が言葉の裏に滲む。
功が口を開いた。
「政治は、感情を代弁する場ではない」
強くはないが、線は明確だった。
生筋が続ける。
「反撃は、戦争の位相を変える攻撃と見なされかねない」
誰に向けた説明でもない。
「終盤では、その一手が、終わり方そのものを決める」
将校は黙り込む。理解と納得は別だが、線は見えた。
功は結論を急がない。
「今日は、そこまでだ」
会議は解かれる。生筋は資料をまとめながら、改めて思う。
どう戦うかではない。どう終わるかが、政治の主戦場だった。
その主戦場に立てる者は、もう多くない。
◇
めると愛花は、昼下がりの台所で向かい合っていた。窓は半分だけ開けている。
全開にすれば涼しいが、匂いが外へ流れる。配給の匂いは、なるべく目立たせないほうがいい。
「最近、米の割合がまた減ったでしょう」
めるが言うと、愛花は苦笑した。
「ええ。麦七、芋三。うちは芋を蒸してから混ぜるようにしてるわ。
水分を先に飛ばすと、べたつかないの」
愚痴は自然に始まる。今日はどこで何が手に入ったか、どこが駄目だったか。
言葉にすると、少し楽になる。
「火を使うのが一番大変ね」
めるが鍋を見ながら言う。
「練炭も数が決まってるし、薪は湿気ると使えないし」
燃料の配給は、数字で管理されている。だが実際には、燃え方で調整するしかない。
練炭は火力が強いが、一度つけると止められない。
だから、煮る・焼く・蒸すを一度で済ませる段取りが必要になる。
下拵えをまとめ、火の前に立つ時間を短くする。それが、どこの家でも共有されている知恵だった。
愛花が、小さな布袋を取り出す。
「これ、干した野菜くず。味噌汁に入れると、少しコクが出るの」
葉の硬い部分や皮を干しておけば、保存もきく。塩が少なくても、噛めば味が出る。
めるは頷く。
「うちはね、梅干しの種を取っておくの。割って中を出して、酸味だけ使うのよ」
酢がなくても、料理は回る。完全な代用品ではないが、切り替えはできる。
話題は酒に移る。
「薄いでしょう?」
愛花が笑う。
「でも、香りだけは残るようにしてるの。少し温めてから、すぐ火を止めるのがコツ」
当時、家庭に回る酒はほとんどが配給か代用酒だ。度数を保つために水で割られ、量を増やす。
だから酔うためのものではない。区切りをつけるためのものだと、皆が知っている。
「それでも、飲めるだけいいのよね」
めるが言うと、愛花は少し間を置いた。
「……そうね。でも、私たち、まだ選べている」
配給の内容を工夫できる。火を使う時間を調整できる。明日の献立を考えられる。
外では、もっと厳しい家がある。炊くものがなく、燃やすものもない。
そんな話は、噂ではなく現実だ。
「官邸の奥様だから、って言われることもあるけど」
愛花は肩をすくめる。
「それでも、ここはまだ違うわよね」
めるは答えず、窓の外を見る。洗濯物が揺れている。洗剤は使わない。
灰を溶かした水で洗い、よく叩く。それでも白さは戻らないが、着られなくはない。
「愚痴は出るわ」
めるは静かに言った。
「でも……」
言葉を切り、愛花を見る。
「それでも……私たちは、まだ裕福なのよね」
慰めではない。諦めでもない。ただの事実として、そうだった。
台所には、また鍋の音が戻る。生活は、続いている。
~補足~ 一九四三年〜一九四五年 史実と人々の生活
一九四三年
・戦局は既に防戦段階に入り、都市部では空襲警報が日常化
・学徒動員が本格化し、工場や軍需施設に学生が配置される
・配給制度が強化され、米の代替として麦・芋・雑穀の比率が増加
・衣料品の新規製造が制限され、古着の仕立て直しが一般化
・燃料不足により、木炭・薪・練炭の使用量が厳しく管理される
一九四四年
・本土空襲が本格化し、地方都市にも被害が拡大
・輸送網の寸断により、配給の遅延・欠配が頻発
・酒・砂糖・油脂類はほぼ代用品のみとなり、家庭での工夫が常態化
・防空壕の整備が進む一方、資材不足で簡易的なものが多い
・疎開が進み、家族が離散する例が増加
一九四五年(春〜夏)
・大規模空襲により都市機能が著しく低下
・電気・ガスの使用制限が厳格化し、夜間照明は最小限に
・調理は「一火一工程」が基本となり、下拵えと段取りが生活の要となる
・衣類は洗剤を使わず、灰汁や砂を用いた洗濯が一般的
・配給酒・代用酒は薄められ、酔うためではなく区切りの象徴となる
共通する生活実態
・食料は量よりも「回し方」が重視され、保存と代用が知恵として共有される
・燃料は「あるかないか」ではなく、「いつ使うか」が問題となる
・贅沢の基準が大きく変わり、「選べること」自体が余裕と認識される
・愚痴はあっても、声高な不満は抑えられ、生活は淡々と続けられた
・戦争は前線だけでなく、台所と居間にも確実に入り込んでいた




