閑話:台湾の二人
~静かな信頼~
台湾南部の朝は、まだ日が昇りきらないうちから湿り気を含んでいる。
海と畑のにおいがまざり、風に乗ってゆっくりと集落へ入り込んでくると、
まるで家々の屋根を撫でて「起きろ」と言っているようだった。
俊道は、夜明け前から浜へ出ていた。
干し棚の湿度を手の甲で確かめ、昨日からの風向きがどう変わったかを目で追いながら、
一本ずつ縄の張り具合を直していく。
意図したわけではないが、この作業を誰よりも早く始めるのは、いつの間にか彼の日課になっていた。
縄を締め直していると、背後から足音が近づく。
振り返れば、村の漁師が網を抱えて立っていた。
「俊道、ちょっと見てくれんか。ここの結び目、また甘い気がしてな」
相談しているつもりはなくても、語尾に漂う頼り方がいつも自然だった。
「……網、昨日干した場所が湿ってたからだろ。縄が伸びてる。火に近づけすぎるなよ、縮む」
「やっぱりなぁ……。すまん、ありがとうよ」
漁師は軽く頭を下げ、網を抱えて戻っていく。
これで今朝は終わりと思えば、また別の足音が近づく。
「俊道さん、あの畝なんですけど……土、固すぎませんか?」
畑担当の青年だ。素朴で真面目な顔をしているが、最近は疑問が増えたのか、
俊道を見つけるたびに声をかけてくる。
「昨日雨が短く降ったろ。ああいう時は表面だけ湿って、中が固まる。
鍬で切らずに、持ち上げるようにほぐしたほうがいい」
「ほぐす……なるほど。やってみます!」
青年もまた、満足げに頷いて走っていった。
俊道は、しばらく海のほうを眺めた。
自分は指導者でも、役人でもない。ただ、生きるために働いていただけだ。
それなのに——なぜか、皆が自分のもとに集まってくる。
わかが、縁側から微笑んでこちらを見ていた。
「……また相談されていましたね」
「俺は相談された覚えはないんだがな」
「俊道さん、言い方がすごく“決めてる人”なんですよ。皆、頼りにしてるんです」
わかの笑い方は、朝の光を和らげるような柔らかさがあった。
その後も、相談は続いた。
干物棚の配置を変えたいという老人、縄の巻き方がいまいち覚えられない青年、
竹かごの編み目が緩いと気にする主婦。
誰も“指示してくれ”とは言わない。
ただ、俊道が「どうした?」と目を向けるだけで、言葉が自然にこぼれるのだ。
俊道は、彼らの話を途中で遮らない。
まず現物を見る。触る。匂いを確かめる。
それから、必要なことだけ短く伝える。
その無駄のない所作が、かえって“中心に立っている人間”の雰囲気を形づくっていた。
「俊道さん、今日の干し棚はどう配置しましょう?」
「西の棚は陽が強すぎる。こっちに半分ずらせ。それで均等になる」
老人は深く頷く。
その頷きは、尊敬というより、経験を信頼するような静かな肯定だった。
ふと、畑の向こうから子どもたちの笑い声が聞こえた。
わかが芋の皮を干していて、子どもたちがその匂いに釣られたらしい。
俊道はその光景を見ながら、胸の奥が静かに温まるのを感じた。
彼は特攻隊として死ぬために育てられ、死ぬために飛んだ人間だ。
だが、ここではそんな肩書きは誰も必要としていない。
必要とされているのは、畑を見抜く目、網の癖を読み取る手、
土と風の機嫌を察する感覚——ただそれだけだった。
昼前になると、相談はさらに増えていった。
「竹の乾きが悪い」「干し棚の板が軋む」「船底の膜が剥がれた」
どれも細かく、急を要するものではない。
ただ、俊道の意見が“判断の支点”として求められているのだと気づく。
わかがそっと言う。
「俊道さん、気づいていますか?……皆、あなたに“決めてもらいたい”んですよ」
「決めてるつもりはない」
「でも、止めないじゃないですか。
俊道さんが“こうだ”と言えば、皆その線を選びます」
俊道は、言葉を返せなかった。
それが責任というものなのか、今までの人生では考えたことすらなかった。
浜を眺めると、風に揺れる干し魚が金色に光り、静かに、確かに“この土地の営み”を形づくっていた。
制度の外に落ち、生き残っただけの男が、
気づけば制度より強い信頼を背負い始めてしまっている。
誰も任命していない。
誰も肩書きを渡していない。
それでも、ここで生きる人々は
「俊道に聞けば、なんとかなる」
そう思い始めている——その事実だけが、彼の背中を少し、重くした。
しかし同時に、胸の奥には静かな決意も芽生えていた。
——生きる場所を得たからには、生かす手伝いをすべきなのだ。
わかがそばに立って、小さく微笑む。
「今日も、よく相談されましたね」
「ああ……本当に、なぜ俺なんだろうな」
「簡単ですよ。皆、俊道さんの朝の働きぶりを見てるんです。
“誰より早く動く人”には、自然と集まるんです」
俊道は照れ隠しのように頭をかいた。
彼が海を見れば、海は静かに返す。
彼が土を触れば、土は迷わず応える。
その小さな確かさを積み重ねるうちに、
浜の朝は今日も、ひとりの男を中心に回り始めていた。
◇
~味をめぐる静かな戦場~
台湾南部の昼下がりは、太陽の熱が屋根にたまり、空気そのものが柔らかく揺れ始める時間だった。
浜から戻った俊道は、干物棚の影に腰を下ろし、しばらく潮の匂いが抜けるのを待っていた。
そこへ、村の女たちが何やら騒がしい声をあげながら裏庭に集まりつつあるのが見えた。
どうやら、今日も“味の勝負”が始まるらしい。
台湾では、塩ひとつを巡っても人は簡単には譲らない。
まして干物となれば、家庭ごとに“うちの味”があり、それぞれに誇りもあれば意地もある。
近頃は日本から伝わった保存法を混ぜ込む者も増え、干物はただの食材ではなく、
一種の“共同研究”のような扱いになっていた。
広場の中央には、大きめの竹ざるが三枚。その上に、塩の量や干し時間の違う魚が並んでいる。
周囲には村の女たちが腕を組み、じっと皿を見比べていた。
塩の粒が光を反射し、湿った魚肌が細く光を返す。
そのわずかな違いを、彼女たちは真剣な顔で見極めようとしていた。
俊道が近づくと、視線が一斉に集まった。
彼が審査員ではない。
だが、「判断を聞くならこの人」という暗黙の了解が、いつの間にか村に根付いてしまっている。
干し魚に手を伸ばし、指先でその硬さを確かめる。わずかな弾力、塩の入り具合、骨の乾き具合。
指が教えてくれる細かな変化を、俊道は言葉に出さずに受け取っていった。
干し時間が少し足りないものは、中心部だけわずかに湿度を残す。
その湿りが、重さとなって指の腹へ残った。
塩が強すぎるものは、表面の粒がまだ溶けきっておらず、小さなざらつきを与える。
逆に塩が弱いものは、魚そのものの匂いがほんのりと立ち上ってくる。
どれも正解であり、どれも不正解ではない。
保存を目的とするなら塩を増やすべきだし、味を優先するなら控えるべきだ。
しかし台湾の女たちは、今日だけは「どれが一番旨いか」にこだわっていた。
わかが少し離れたところで記録帳を広げ、筆を握っていた。
最近のわかは、村のこの妙な“調味戦争”の書記役を務めることが多い。
俊道が何か言えば、それを淡々と書きとっていくのだが、
その表情はどこかおかしそうで、誇らしげでもあった。
皿を三つ並べ、太陽の角度を見ながら色の違いを確かめた。
塩の入り具合が良いものは、乾いた部分に淡い黄金色がのる。
逆に塩が弱いものは白みが強いまま残る。
こうした微差が、仕上がりの段階を静かに教えてくれる。
周囲の女たちは、俊道がまだ何も言っていないのに、息を詰めてその動きを追っていた。
俊道がゆっくりと頷くと、安堵と緊張の混ざった空気が流れる。
やがて、俊道は一枚の魚を指で持ち上げた。干し時間が少し長く、塩がほんの少し強い。
しかし、保存性は高く、熱を通せば柔らかさが戻る仕上がりだった。
「ああ、これが……一番“扱いやすい”。」
短い言葉に、女たちが一斉に頷く。
ほめられたわけではない。優劣をつけたわけでもない。
ただ“扱いやすい”という一言が、今日の勝負を静かに決めた。
ざるの横では、バナナ農家の男たちが別の論争をしていた。
ドライバナナの切り方、干し台の角度、昼の風向き……。
俊道が近づけば、こちらも自然に会話が止まり、断片的な視線が集まる。
バナナを太めに切れば甘味が強く残るが、乾きにくい。
薄く切れば乾きは早いが、味が抜けやすい。
その均衡点をどう探るかは、もはや“共同研究”というより、半ば遊びに近い熱を帯びていた。
わかは、そんな村人たちのやり取りを微笑みながら記録していた。
筆が動くたびに、遠くで干されている魚とバナナが風に揺れ、
生活そのものが一枚の絵のようにまとまって見えた。
俊道は、またゆっくりと首を傾げた。
自分は、この村の中心になるつもりなどなかった。
ただ、出来ることを少しずつ繰り返しただけだ。
それでも——
人々はいつの間にか、彼の判断を“朝の天気のように”自然に受け止めるようになっていた。
村に肩書きはない。
役所もない。
軍の命令も届かない。
それでも、この小さな土地には、
“誰がどう動くと生活がうまく回るか”という見えない流れがある。
今日もその流れは、俊道のまわりで静かに形を取っていた。
干物の香りとバナナの甘い匂いが混ざる風が、ふっと吹き抜けた。
わかが顔を上げ、俊道へ視線を向ける。
その視線は、「あなたは気づいていませんけれどね」とでも言っているようだった。
俊道は苦笑し、浜のほうへ視線を投げた。
陽光を浴びて揺れる干し棚は、まるでひとつの大きな生活の心臓のように――
今日も静かに、確かに動いていた。
◇
~わか、夕餉どきの小さな秘密~
夕陽が傾き、浜の砂がゆっくりと金色へ変わる頃だった。
昼の喧騒が嘘のように静まり、海はまるで熱を手放した獣のように落ち着きを取り戻す。
干し棚の影は長く伸び、家々の窓には赤い光がささやくように差し込んでいた。
俊道は、今日も村のあちこちから寄せられた“味比べの相談”に呼ばれ、
肩を軽く回しながらわかの家へと戻ってきた。
干物の香りは彼の衣に染みつき、風に揺れるたびにほのかに立ち上る。
それは、夕餉の準備を告げる合図のようでもあった。
その家の前で、わかは小さな壺を両手に抱えて待っていた。
薄藍色の着物に夕陽が透けると、布越しに柔らかい体の輪郭が淡く浮かぶ。
その影は決して露骨ではなかったが、日の傾きが生む光の角度は、
彼女の姿を“いつもより少しだけ大人びて”見せていた。
「おかえりなさいませ、俊道さん。煮付けの味を、少し見ていただきたくて……」
わかは壺を差し出すが、その手つきはどこかぎこちない。
指先がほんのわずかに震え、壺の蓋に触れるときには、息を飲むような小さな間があった。
俊道は気づいたようで気づかないふりをした。
この時間帯のわかは、昼とは違う。
誰よりきびきびと働く村の記録係ではなく、
家の灯りをひとつひとつ整えていく“暮らしの主”になる。
俊道は壺を受け取り、蓋をゆっくり外した。
ふわりと甘い香りが立ち上る。
魚と生姜と、わか独自の少し甘い味付けが混ざり、湯気そのものが夕暮れ色に染まっているかのようだった。
「……少し、薄いかもしれません」
わかはそう言いながらも、俊道の目を見てはいない。
視線は彼の胸元あたりをさまよい、夕陽に照らされるその横顔は、日中の記録係にはない柔らかさをまとっていた。
「いや、ちょうどいい。魚の脂に合っている」
そう言われた瞬間、わかの肩がほんの少し震えた。
安堵か。
それとも、嬉しさか。
わかは鍋のほうへ戻ろうとして、ふと足を止めた。
夕陽が背後から差し込み、彼女の影が俊道の足元に重なる。
その影は細く伸びて、まるで俊道へ触れようとしているようにも見えた。
「俊道さん……あの……」
わかの言葉は、波音にかき消されてしまいそうなほどの小ささだった。
だが俊道はその場を動かず、わかが続きを言えるまで静かに待った。
「今日の……干し棚でのお姿、みなさま……とても、素敵だと……」
言い終えた瞬間、わかの頬は夕陽と同じ色になった。
褒めるというより、告白に近い響きがあった。
俊道は返事を急がない。
ただ、息を一つ吸い、ゆっくり外へ吐き出した。
「……俺は、何も特別なことをしていないよ」
わかは首を振る。夕陽がその動きにあわせて髪を揺らし、細い影が俊道の胸元に落ちた。
「特別でございます。誰も気づけなかった“朝の流れ”を、俊道さんだけが整えてしまわれました。
……気づいていらっしゃらないだけです」
言葉の終わりに、わかの指が壺の縁をそっと撫でた。
その仕草は、感謝とも、照れ隠しともつかない柔らかな震えを帯びている。
壺の表面に夕陽が反射し、細かな光が二人の間に揺れ続けた。
俊道は壺を返す時、わかの指先にそっと触れてしまった。
ほんの一瞬。
だが、わかの呼吸が止まるのがわかった。
沈黙が満ちる。
浜へ向かう風が、二人の間をやわらかく通り抜ける。
夕餉の煙が遠くで立ち上り、村人たちの笑い声が淡く重なる。
そのすべてが、ゆっくりと“二人だけの空間”を作り出していた。
わかは目を伏せ、そっと息を整えた。
その姿は、昼の記録係でも、村の働き手でもないただのひとりの女性だった。
「……夕餉、お待ちしております」
その言葉は、まるで小さな灯りのように、俊道の胸に温かく残った。
わかが家の中へ戻ると、夕陽はほぼ沈みかけ、残り火のような光だけが浜に落ちていた。
俊道はその光景をしばらく眺めていた。
干し棚は夜の準備を始め、海は静かに呼吸を続ける。
そして彼の足元には、わかの影がかすかに残っていた。
夕暮れという時間は、
生活の疲れも、心の距離も、
ほんの少しだけほどいてくれる。
この村の夜は、
今日も、ゆっくりと優しく始まっていった。
◇
~灯りの下で~
台湾南部の夜は、昼間の熱がゆっくりと建物の奥へ染み込んでいくような静けさを持っていた。
わかの家は木の床と竹編みの壁で囲われ、湿度を逃がすために細い隙間が空いている。
その隙間からは潮の匂いと柔らかい夜風が入り、灯りの炎をわずかに揺らしていた。
食器を洗い終え、夜の片付けが落ち着いた頃、わかは棚に置いたランプの芯を整え、
ほのかな橙色の光を部屋全体に広げた。
その光は、昼間の喧騒の名残をひとつずつ消し、
家の中に“ふたりだけの時間”をつくっていくように見えた。
俊道は木床に敷かれた薄い竹席の上に腰を下ろし、ゆっくりと背を壁に預けた。
畑仕事で使い込んだ身体は疲れていたが、不思議と気だるさはなく、
むしろ“今日を生きた”という確かな実感が残っていた。
遠くで虫が鳴く声が途切れず続き、風が竹壁をすり抜けるたび、部屋の温度が少しずつ和らいでいく。
わかは水甕の前で手を拭き、そのまま俊道のそばへと静かに歩いてくる。
その動きの柔らかさは、昼の働き者という顔とは違い、家の中だけで見せる穏やかな表情を伴っていた。
ふたりの間に言葉はしばらくなく、ただ、わかが座るときに竹席がかすかに鳴る音が、
長い一日の終わりを告げる合図のように響いた。俊道は横目でわかの方を見た。
灯りの橙がわかの頬を暖め、その陰影が柔らかな線を描いている。
俊道の胸の奥で、何か小さなものが静かに芽を動かした。
それは、戦場にいた頃には決して芽吹かなかった種類の感情だった。
ふたりの静かな呼吸だけが重なる時間の中で、
俊道は言葉を探すように息を吸い、それから少し低い声でゆっくりと口を開いた。
「……わか。子どもは、好きか」
声は大きくなかった。しかし、その問いが意味するところを、わかはすぐに理解した。
驚いたように背筋がわずかに伸びたものの、逃げる気配は一切なく、
むしろ胸の奥にしまっていた思いを優しくすくい上げられたような静けさが彼女の表情に広がった。
わかは膝の上に置いた手をぎゅっと握り、それからゆっくりと俊道の方へ顔を向けた。
灯りが揺れて、彼女の瞳の奥で淡く光が瞬いた。
その光は言葉より先に「覚悟」を語っているようにも見えた。
「……はい。好きです。あの……わたし……沢山、欲しいです」
声は震えていない。
けれど、言葉を選ぶたびに胸の奥があたたかくゆれるのが伝わってくるようだった。
俊道はわかのその返事を、すぐに掴むようには受け取らず、しばらく静かに心に落とし込んでいた。
わかの願いは生活のためでも、制度のためでもない。
ただ、“ふたりで未来をつくりたい”という、ごく人としての自然な願い。
それが俊道の胸を深く打った。
やがて俊道は、わずかに笑った。戦地の笑みではない。
生きて帰ってきた者がやっと見つけた、未来に触れるときの笑みだった。
「……そうか。なら、頑張るか」
その一言は大きくなかったが、竹席の上でふたりの距離がそっと縮まるほどの確かさがあった。
わかはその言葉を受け取った瞬間、頬に小さな熱が灯った。
伏せたまつげが震え、胸の奥で何かがほどけていく。
そして、抑えきれず漏れたのは、かすかに触れるほど小さな声だった。
「……はい。あなた……」
続く言葉は声にならなかった。
けれど、その余白こそが、わかの心を最も正確に語っていた。
俊道はそっと手を伸ばし、わかの指先に触れた。
わかの指は一瞬だけ強ばったものの、すぐに力を抜き、俊道の手にそっと重なった。
重なる指先には、ふたりの未来へ向かう静かな決意が宿っているように思えた。
外では虫の声が夜を縫うように響き、海の気配が遠くからゆったりと届く。
この家の中だけが、世界の残酷さから切り離されているかのようだった。
戦争は終わらず、明日も不安は続く。
けれど、この静かな夜の灯りの下だけは、確かに“未来を描くための場所”として息づいていた。
わかは俊道の指をそっと握り返し、俊道はそのぬくもりを確かめるように目を閉じた。
夜の深さがふたりを包み込み、灯りは揺れながら小さな円を描き、
その円の中心に、ふたりの静かな約束だけがゆらぎなく残っていた。
◇
~朝の水音がほどくもの~
夜明け前の薄青い光が、竹壁の隙間から細く差し込んでいた。
海の向こうで太陽が昇り始めると、
空気にはすぐに湿り気が戻り、朝であるにもかかわらず肌にじわりと熱が触れた。
俊道は寝台代わりの竹席から身体を起こし、軽く肩を回した。
昨夜の畑仕事の疲れが残っているはずなのに、妙に身体が軽い。
それは、肩のすぐ横に、静かに寝息を立てていたわかの存在があったからだろう。
彼女が目を覚ます前に外へ出て、
庭に置いた壺の水で顔を洗うと、急に“生活が始まる音”が世界に満ちていくように感じられた。
わかが家の中からそっと出てきたのは、俊道が水甕を覗き込むのとほぼ同じ頃だった。
彼女は髪を後ろでまとめたばかりらしく、少し乱れた生え際が柔らかく影を落としている。
まるで言葉を選ぶように数歩近づき、それから胸元で両手を揃えると、小さな布包みを差し出した。
「……あの、俊道さん。水浴びでも、どうですか」
言いながら差し出されたのは、きれいに畳まれた手ぬぐいだった。
俊道は一瞬だけ首をかしげた。昨夜、畑から戻った後にきちんと身体を洗ったはずだ。
寝る前に汗も流した。
わざわざ今、朝から浴びるほどでは——そう思いながら彼女の表情を覗き込むと、
わかはますます視線を落とし、手ぬぐいの端をぎゅっと握りしめた。
「その……昨夜、頑張っておられましたので……その……」
頬に静かに熱が灯り、言葉がそこで途切れた。
俊道はその意味をようやく理解し、気恥ずかしさを隠すように咳払いをひとつ落とした。
「……そうか。なら、浴びるか」
その言い方は淡々としていたが、わかには十分だったらしく、ほっと胸を緩めた。
そして、すぐに背筋を伸ばし、彼の目をまっすぐに見て、かすかに微笑んだ。
「お身体……流させていただきますね」
その言い方は、ただの家事の一環ではなく、
ふたりの暮らしに自然に芽生えた“寄り添うこと”そのものだった。
わかは水甕の蓋を開け、
壺の底に沈んだ朝の冷たさを両手で汲み上げると、俊道の背中へ静かに流した。
水は細い光の筋を弾き返し、木の床へ落ちるたびに、乾いた涼やかな音を立てた。
わかは、言葉こそ発さないものの、手の動きには丁寧さと気遣いが満ちていた。
俊道の肩、腕、背へとゆっくり水をかけ、
汗の名残とともに昨夜の余韻までもそっと洗い流すようだった。
それは“世話”ではなく、“大切にしたい”という静かな想いの形だった。
ふたりが朝の水音の中で寄り添っていると、
家の前をゆっくり通りかかった近所のばぁさまが、竹の籠を抱えながら足を止めた。
深い皺の奥に宿る目は若いふたりの姿をしっかりと捉え、
次の瞬間には大らかな笑い声が路地いっぱいに広がった。
「わかや、周りの目なんぞ気にするでないよ。
若いもんは、毎晩毎晩、頑張るとええのさ。身体も家も、どっちも温まる」
まるで朝の空気を割るような勢いでそう言い放つと、籠を抱えたまま満足げに頷いた。
俊道とわかは同時に動きを止め、互いの目を見合った。
頬に宿る赤みは、水では到底ごまかせなかった。
わかは両手の中の手ぬぐいをぎゅっと丸め、
俊道は肩をすくめてから苦笑混じりにばぁさまへ会釈した。
「「……はい」」
その返事は驚くほど揃っていて、ばぁさまはその様子を見てさらに満足そうに笑い、
またゆっくりと歩き出していった。
ばぁさまの足音が遠ざかる頃、朝の光はすでに強さを増し、海から吹く風も湿り気を帯び始めていた。
日常はこんなふうに、時に照れくさく、時に温かく、音もなく積み重なっていくのだと俊道は思った。
わかはまだ頬を赤らめていたが、手ぬぐいを握りしめる指先には、
恥じらいとは別の“確かな幸せの芯”のようなものがあった。
戦争は遠くで続き、明日の保障はどこにもない。
それでも——
ふたりが並んで水を浴び、朝の光を分け合うこの時間だけは、
戦の影とは別の場所で静かに息づいている。
俊道は水甕の冷たさを腕で感じながら、わかの方へと目を向けた。
彼女も同じように目を上げ、表情を柔らかくほころばせた。
その笑みがある限り、今日もまた生きていける。
水音と光が教えてくれる、そんな朝だった。
~おまけ~
午後の陽が傾き始め、村の木陰にはゆったりとした風が流れ込んでいた。
海から届く湿り気はまだ残っていたが、昼に比べればずっと過ごしやすく、
家々の前では女たちが腰を下ろして編み物をしたり野菜の皮をむいたりしている。
わかはその輪の少し外に控えめに座り、近所でも評判の“おねー様”――朗らかで器量よし、
そして未亡人として村を温かく取りまとめる女性に話しかけられていた。
「で、わか。俊道とは、うまくやってるのかい?」
おねー様は竹のかごを膝に乗せ、指を軽く動かしながら尋ねた。
声は柔らかいが、視線には人の心を見抜くような温かさが宿り、
問いの奥には“心配と祝福の入り混じる情”が隠れていた。
わかは少し肩をすくめ、恥じらいを含んだ笑みを浮かべた。
昼間の仕事の疲れがまだ残っているのか、頬にはかすかな赤みが差し、目元は柔らかく揺れている。
「……はい。わたしたち、とても……うまく、です」
答えた後、わかは言葉の重みを胸に落とし込むように少し俯き、その肩が僅かに震える。
幸福がこぼれそうで怖い、そんな表情が一瞬だけ浮かんだが、
それでもまっすぐに相手の目を見て丁寧に伝えようとする姿勢があった。
おねー様は満足げに頷き、膝のかごを軽く揺らした。
「そうかい。それは何よりだよ。で、子どもは……何人ほしい?」
尋ねながら、彼女は夕方の風に髪を払わせ、わかの表情をじっくり読み取ろうとした。
その問いはここではとても自然なもので、あからさまな詮索ではなく、
未来の幸福を祈る気持ちがそのまま形になった言葉だった。
村では家族が大きいほど“明日をつなぐ力”とみなされる。
これからの暮らしをどう描くかを語ることは、女たちにとって喜びであり誇りでもあった。
わかは手を重ね、深く息を吸ってから答えた。
「……五人……いえ、五人くらいは……欲しいです」
言った瞬間、顔がぱっと明るくなり、
胸の奥にしまい込んでいた願いがようやく外の空気に触れたようだった。
ためらいと希望がちょうど均衡し、声には小さな震えが混じるが、そこには確かな覚悟があった。
おねー様は嬉しそうに目尻を下げ、わかの肩をぽんと叩いた。
「欲があるのはいいことだよ。あんたは細いのに、心は大きいねぇ」
言葉は軽口のように聞こえたが、その裏には「しっかり生きなさい」という励ましが潜んでいた。
村の女たちは皆、わかを気にかけていた。
異郷から来た夫と暮らす若い女を守り、育て、笑わせるのは、姉のような彼女たちの役目でもあった。
しばらくして、おねー様は急にニヤリと笑みを深めた。
「ところでね、わか。ここは台湾の村だよ? 一夫多妻でも怒る人はいない。
だから……たまには俊道、貸しておくれよ」
冗談めかした声だったが、その言葉の後に続く沈黙は、わかの心を不意に捕まえた。
彼女は一瞬で顔を赤くし、目を大きく開いた。
胸がぎゅっと締めつけられ、息が詰まるほどの動揺が走った。
俊道を誰かと共有するという考えは、
わかにとって“ありえない”というより“考えたこともない領域”だったからだ。
「そ、それは……あの……だめです! 絶対に、だめです……!」
強く言い切ったあと、わかの手は膝の上でぎゅっと握られ、肩は震えていた。
声には涙が今にも落ちそうなほどの必死さがあり、
胸の奥の孤独や不安を必死に押し留めるようにして紡がれていた。
彼女にとって俊道は“拾われた命”をもう一度温めてくれた唯一の人であり、
その存在は単なる夫以上のものになりつつあったのだ。
おねー様はその必死さを見て、顔をくしゃっと崩して笑い出した。
「ははははっ! 冗談さ、冗談! 本気にするでないよ、わか!」
笑い声は路地に転がり、夕暮れの風にのって広がった。
隣で皮をむいていた女たちもつられて笑い、
わかはますます顔を赤らめながら両手を胸の前でばたつかせた。
「で、ですが……本当に……本当に駄目です……!」
涙目でそう訴える彼女に、おねー様は優しく手を伸ばし、わかの頭をそっと撫でた。
その手つきは母にも似て、姉にも似て、村が彼女をひとりの女として受け入れた証のようだった。
「分かってるよ、わか。俊道は、あんたのもんだ。誰も取らんさ。
あんたのその必死さがね……いい妻になる証なんだよ」
言われた瞬間、わかの肩の力がふっと抜けた。
頬にはまだ熱が残っているが、その目には安心と喜びの光が宿った。
村の女たちはその変化を見逃さず、にこにこしながらうなずき合った。
わかは少し涙を拭い、深く頭を下げた。
「……すみません。でも、わたし……俊道さんが、誰より大切で」
「それでいいのさ。それが夫婦ってものだよ」
おねー様はそう言い切り、夕方の光を浴びながら立ち上がった。
竹の籠を抱え、家路につく背中は頼もしく、どこか優雅だった。
わかはその背中を見送りながら、胸の奥でそっと呟いた。
――俊道さんは、誰にも渡しません。
その想いは静かな炎となり、暮れかけた空の下でそっと燃えていた。




