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第2話

 西暦1945年7月19日 東海地方


 午前二時三十二分。沿岸監視所からの第一報は、簡潔だった。

 高度一万前後、進路一定。編隊規模、二百前後。通信は平文で回され、受信時刻が逐一記録される。


 十分後、第二報。

 大規模・大型空襲。主兵装は焼夷弾。散布は広範、密度は中程度。

 三波構成、波間隔は十一〜十三分。照明弾の使用を確認。


 夜明けと同時に、被害の集計が始まった。


 投下物は焼夷弾主体、汎用爆弾を含む。概数一万八千二百。市街地着弾率六二%。

 工業地帯への直撃は限定的だが、延焼による二次被害が拡大。

 木造密集区域では焼失率が三割を超えた。


 人的被害は区分して報告された。

 民間人:負傷九千三百五十、行方不明一千二百八十。

 軍関係者:負傷一千百二十、行方不明百九十六。


 都市機能への影響。

 電力は主幹線二系統が停止。発電所自体の損傷は軽微で、全面復旧見込み三十六時間。

 上水は圧力低下が市域の二一%。給水制限を即時発令。

 鉄道は操車場一か所が使用不能。貨物処理能力は四割低下。

 通信は交換局の一部焼失により、市外通話を制限。


 防空射撃は継続された。

 高射砲発射回数は前回比一二%増。弾薬消費率は基準内。

 迎撃機出動八十七、接触二十三、確認撃墜は少数。帰投不能十、不時着八。


 暫定報告の席で、官僚が口を開いた。

 「想定と比べて、延焼速度が速い」

 軍幹部が即答する。

 「建材比率の問題だ。迎撃の差ではない」

 別の官僚が資料を指す。

 「復旧は早いが、代替余力が落ちています」

 軍幹部は短く言った。

 「防空は維持できる。問題は次だ」


 即時対応は運用に限定された。

 避難誘導の再配置。配給の前倒し。医療資材の域内融通。消火用水の確保。

 防空射撃および迎撃は継続。一方で、戦略的・越境的な反撃は行わない方針を再確認。

 理由の整理は後刻とされた。


 集計担当は前回記録を参照する。

 間隔九日。規模は同等。密度はやや低い。

 想定は、内側に収まっている。


 だが、違和感は数字の端に残った。

 被害総量は想定内でも、復旧後の稼働率が落ちている。

 代替は利くが、余力の回復速度が鈍い。


 同日 米軍側資料要約


 同時刻、マリアナ方面では作戦結果が整理されていた。出撃機数、投下量、目標別効果。

 都市部への焼夷効果は概ね想定通りと評価。防空射撃は散発的で、帰投率は九割超。

 整備負荷と補給状況から、次回の同規模投入は一週間前後が適当と判断。

 重点は都市機能の持続的低下に置かれ、即時的な戦略転換は見送られた。


 正午。暫定報告がまとまる。

 結論は出さない。判断もしない。

 ただ、次の警戒期間が、同じ意味を持つかどうかだけが、未記入のまま残された。


 ◇


 会議室の扉が閉まると、外の足音は途切れた。机上には暫定報告の束。被害、復旧、弾薬消費。

 すでに一巡した資料だが、誰も片づけようとしない。数字が残る限り、結論は出せない。


 将校が口を開いた。階級章は擦れている。前線ではないが、現場の報告を束ねる立場だ。

 「防空は維持しています。しかし、このままでは都市の持続が危うい」

 声は低く、抑えられている。感情を挟めば退けられると分かっている言い方だった。


 吉田功は資料から目を離さない。鉛筆の先で一行をなぞる。

 「どの線を指す」

 問いは短い。余計な言葉を許さない姿勢だけが、室内に示された。


 将校は一拍置いた。背後の時計が秒を刻む。

 「敵の出撃基盤に対する行動です。限定的で、象徴的なものを」

 言葉を選び、越えないように置いた表現だった。提案というより、可能性の提示に近い。


 吉田は顔を上げた。視線は将校ではなく、机の中央に落ちる。

 「それは防御ではない」

 否定は即座だった。理由を述べないのは、議論を広げないための癖だ。


 将校は一歩踏み込む。椅子の背が軋む。

 「迎撃だけでは、被害の総量が——」

 数字を言いかけて、言葉を切る。感情に見えないよう、息を整えた。


 「戦場を変える」

 吉田が言った。

 「いまの議題ではない」

 視線は資料に戻る。結論は変わらないと、態度で示していた。


 室内に低いざわめきが走る。否定ではないが、圧がかかる。生筋有喜は、資料の端を揃えた。

 紙が揃う音が、場を切り替える合図になった。


 「言葉を分けましょう」

 生筋は立たない。声量も変えない。

 「いま私たちが行っているのは、防空です」

 高射、迎撃、避難、復旧。その語が、順に置かれる。


 将校は小さくうなずく。理解は共有されている。

 「それは承知しています」

 否定ではないことを、先に示す言い方だった。


 「その先です」

 生筋は別紙を引き寄せる。

 「出撃基盤への行動は、防空ではない。戦争の位相を変える」

 言葉を区切り、定義として置く。評価は挟まない。


 将校は眉を寄せる。

 「限定的でも、ですか」

 条件を付ければ線を越えないと、まだ考えている声音だった。


 「限定的でも」

 生筋は即答する。

 「一度越えた線は戻らない。成功と失敗の差は、ここでは問題にならない」

 不可逆という言葉を使わず、意味だけを置いた。


 将校は資料に目を落とす。被害の列を指で追う。

 「被害は拡大しています」

 感情ではなく、事実としての確認だった。


 「事実です」

 生筋は認める。

 「だからこそ線を混ぜない。防空の不足は、防空で埋める」

 別の線で補えば、計算が壊れる。その先は言わない。


 吉田が資料を閉じた。紙の音が、会議の終点を示す。

 「反撃を否定しているのではない」

 声は低い。誰かを説得する調子ではない。


 「否定しているのは、いまです」

 生筋が続ける。

 「判断の重さが、数字に見合っていない」

 時間と条件が足りない。その意味だけを残す。


 沈黙。将校は深く息を吸う。肩の力がわずかに抜ける。

 「理解はしました」

 同意ではない。線がどこにあるかは分かった、という表情だった。


 「防空は継続する」

 吉田がまとめる。

 「越境的な行動は取らない」

 理由は書かれない。定義だけが共有される。


 連絡会議は解かれた。資料は回収され、机は空く。

 廊下に出ると、盆の触れ合う音が遠くにあった。誰かが遅い食事を取っている。


 生筋は足を止めない。

 防御は続ける。戦場は変えない。

 その定義が、次の判断を縛ることも、彼は理解していた。


 ◇


 会議室を離れた回廊は、外気を含んだ静けさを保っていた。

 硝子越しの空は白く、雲の輪郭が溶け合っている。

 生筋有喜は歩調を落とし、窓辺に立った。

 数字を置いてきたはずの頭に、言葉の重さだけが残っている。


 背後から足音が近づき、将校が声を掛けた。擦れた階級章が、現場の時間を物語っている。

 「理解はしました。しかし、このままでは都市が持たない」

 抑えた声色で、会議室では言い切れなかった懸念を補うように、将校は視線を外に向けた。

 感情を混ぜず、現実だけを置こうとする態度だった。


 生筋は窓から目を離さず、間を取った。

 「“勝ちに行く”話ではない、とあなたは分かっている」

 相手を追い詰めない言い方で、前提の共有を確認するように、言葉を選んだ。


 将校は短くうなずき、息を整える。

 「その通りです。勝ちに行くのは妄想だ。ただ、追い払いたい」

 拳を握らず、願望に聞こえないよう言葉を削り、最低限の欲求として提示した。


 生筋は視線を将校に移す。

 「追い払うために、何を差し出す」

 問いは淡々としていたが、返答の先にある重さを、あらかじめ示す響きを含んでいた。


 将校は即答せず、資料の束を思い浮かべるように眉を寄せる。

 「限定的な反撃です。基盤に触れるだけで、状況を変えられる可能性がある」

 可能性という語に逃げ場を残し、断定を避ける慎重さが滲んでいた。


 生筋は首を振らない。

 「政治的判断は、限定で済まない」

 声量を変えず、外からどう見えるかという一点に、思考を集約する。

 「触れた事実だけが残る。成功も失敗も、その後に付いてくる」


 将校は視線を落とし、低く言った。

 「経済が削られ続けています。このままでは、回復の余地が消える」

 被害総量ではなく、持続性の話に論点を移し、現場の不安を言語化していた。


 生筋は否定しない。

 「削られているのは事実だ」

 同意を先に置き、言葉の衝突を避ける。

 「だが位相を上げれば、削り方が変わる。回復の質が落ちる」


 将校は一歩踏み出し、声を落とす。

 「民間人の被害を、どう考えている」

 責める調子ではなく、確認としての問いだった。


 生筋は間を置かず答える。

 「最初に考える」

 即答することで、優先順位だけを明確にする。

 「追い払う一手が、次の応答を呼べば、先に受けるのは民間人だ」


 将校は唇を結び、しばらく沈黙する。

 「それでも、何もしないよりは——」

 言葉を探しながら、諦めきれない現場の感覚が声に滲んだ。


 生筋は静かに遮る。

 「何もしていないわけではない」

 防空、復旧、配分。その列を思い起こさせるように、淡々と続ける。

 「追い払えない、という結論を先に置くな。目的と手段を混ぜるな」


 将校は深く息を吐く。

 「追い払えない、という言葉が先に立つのは分かっている」

 理解と不満が同居する声音だった。


 生筋は窓の外を指し示す。

 「線を守っている」

 越えない線の存在を、視覚に結び付ける。

 「それが国を縛ることも承知の上でだ」


 しばらく、回廊には音がなかった。遠くで盆が触れる音がし、誰かの遅い食事の気配が伝わる。

 将校は小さくうなずいた。

 「理解はしました」

 同意ではないが、線の位置は共有されたという表情だった。


 生筋は歩き出す。

 「追い払いたい気持ちは否定しない」

 振り返らず、言葉だけを残す。

 「だが、その手段は政治であり、経済であり、民間人に返る」


 時計が時を打つ。生筋の脳裏に、二という数が浮かぶ。

 まだ使わない。使える状態にあるだけだ。

 その距離を保つ責任が、今夜の彼に課された判断だった。


挿絵(By みてみん)


 連絡会議に出席する将校(陸軍所属、階級:少将)

 補足:1945年当時の日本側から見た【紛争】と【戦争】の違い


 現代の日本語感覚では、「紛争」と「戦争」はしばしば連続したものとして扱われる。

 しかし、1945年当時の日本側の認識は、必ずしもそうではなかった。


 当時の日本において【戦争】とは、国家が正式に覚悟し、

 政治・外交・国民生活を含めて全面的に引き受ける行為を指す言葉であった。

 開戦の決定、戦争目的の明示、国際関係の不可逆な変化。

 これらを伴わないものは、たとえ武力が用いられていても、

 厳密には「戦争」とは区別され得ると考えられていた。


 一方で【紛争】とは、より限定的で、管理可能であり、終わらせ得るものという認識が強かった。

 武力の応酬が存在しても、それが防御に留まり、戦争の位相を変えない限り、

 国家としては「戦争を続けている」のではなく、

 「戦争状態の中で起きている紛争を処理している」と捉えられる余地があった。


 この区別は、現代の視点から見れば恣意的であり、自己正当化に映るかもしれない。

 しかし当時の日本にとって重要だったのは、

 事実よりも「どこまでを引き受けたと見なされるか」であった。

 防空射撃や迎撃は行うが、越境的・戦略的な攻撃を控える。

 それは戦力の問題だけでなく、「戦争の意味をこれ以上拡張しない」という政治的選択だった。


 つまり当時の日本側の感覚では、

 戦争とは、自らその名を引き受けた瞬間に成立するものであり、

 紛争とは、まだ名を与えずに管理しようとする状態だった。


 この線引きが正しかったかどうかは、今となっては実証できない。

 ただ一つ確かなのは、その区別が、判断を遅らせ、越えるべきでない線を意識させ、

 結果として多くの決断を縛っていたという事実である。

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