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18話

 官邸の空気は、数日前よりさらに乾いていた。紙と埃の匂いが、やけに鼻に残る。

 窓際に立つ吉田功は、机に積まれた電文の山を見つめたまま動けずにいた。

 どの電文も、はっきりした敵意や宣戦布告を記してはいない。

 だが行間には、ゆっくりと締め付けるような圧力が漂っている。


 アメリカの文面が変わり始めている。

 表現は丁寧で、形式も整っている。

 だが——言葉の向こう側に、「恐怖の色」が滲んでいた。


 “あなた方の精神構造を理解しきれない”

 “国民の特異な献身性”

 “神話的行動原理”


 外交文書にそんな語が混じるのは異常だ。

 吉田は静かに息を吐き、椅子へ戻った。


 ——宗教戦争をしているつもりなど、日本にはない。


 日本は一貫して、防衛のために抗っているだけだ。

 それなのに、アメリカ側の資料には、

 まるで日本が“聖戦”を掲げて動く国であるかのように記されている。


 「……誤解が、増幅している」


 呟いた声はかすれていた。

 もしアメリカが「日本は合理的ではない」と判断したなら、交渉の舞台は一気に狭まる。

 外交とは論理の橋で行うものだ。その橋が、宗教的恐怖で覆われたら——言葉は届かなくなる。


 秘書官が駆け足で入室し、数通の電文を置いて去る。

 そこには、アメリカ国内で「早期終戦案」が急浮上しているという分析もあった。

 早期終戦案。それは表面上は平和的だが、実態は“核による速やかな屈服”を念頭に置いたものだ。


 吉田は、最悪の選択肢が形になりつつある気配を感じた。


   ◇  ◇  ◇


 そのころ、生筋有喜は研究施設の中央室で薄い記録紙に目を走らせていた。

 室内はいつものように機械の振動で微かに揺れており、照明が白く研究員たちの目元を照らしている。


 「反応時間、……4.7秒。」


 研究員の報告は、ほとんど囁きに近かった。

 目標となる最低ラインは十五秒以上。安定反応が十五秒続けば、初めて“実験段階の成功”と言える。

 しかし現実は、そこにすら遠い。


 4秒。たったそれだけの数字でも、研究員たちは深い息を吐いた。

 昨日は3.1秒だった。確かに進んでいる。だが、進むほどに彼らの顔は曇っていく。

 理由は一つ——この“前進”が、外から見れば「完成間近」と誤解されかねないからだ。


 生筋は机に手を置き、静かに言った。


 「……この数値は、どこにも出すな」


 研究員たちは頷く。彼らは技術者であり、政治家ではない。

 だが、数字が世界を動かすことは嫌でも理解していた。


 「有喜総裁、アメリカは……気づきますか?」


 若い研究員が問う。恐怖というより、疲労が勝った声だった。

 生筋はしばらく沈黙したまま反応紙の線を見つめた。


 ——気づく。必ず、どこかから。


 電力の僅かな偏り。物資の流れ。研究所周辺だけ異様に静かな空気。

 敵が“誤解する理由”はいくらでもある。


 「今の我々の成果は、完成からは程遠い。しかし……外からは、そう見えない可能性が高い。」


 生筋がそう言うと、周囲の温度がさらに下がった。

 もしアメリカが「成功目前」と判断すれば、先制核使用の口実になる。


 研究員の一人が机に突っ伏したように肩を落とす。


 「……この“中途半端な進歩”が、一番危険なんですね。」


 生筋は頷いた。

 成功していない。失敗とも言えない。

 進んでいるが、届かない。


 この曖昧な領域こそが、恐怖と誤認の温床になる。


 「数字は嘘をつかん。しかし数字を“どう読むか”は国家次第だ。」


 生筋自身、その冷酷な現実を噛みしめていた。


   ◇  ◇  ◇


 国内は、表面上はまだ保っていた。

 だが、あらゆる場所で静かな崩壊が進んでいる。


 配給所の列は日に日に伸び、数日前より米粒の質が明らかに落ちていることに気づく者も増えた。

 海岸部では漁が減り、干し魚の価格は闇市で一気に跳ね上がった。

 都市部の人々は、食卓に乗る“本物の魚”の記憶を失いかけている。


 空襲の予告音に慣れ過ぎた庶民は、以前より素早く避難できるようになった。

 ——それは成長ではなく、疲弊の証だった。


 誰も宗教戦争をしているつもりなどない。

 ただ、家族を守るために生きているだけだ。


 しかし、アメリカ側にはその姿がどう映っているか。

 “国民全員が献身的な特攻の信奉者”——誤訳された資料が、それを既成事実のように膨らませていた。


 吉田は、次々届く民間被害の報告書を読みながら心の底で思う。


 ——こちらは合理で動いているつもりでも、

 ——あちらが宗教として理解してしまえば、外交は成立しない。


   ◇  ◇  ◇


 夕刻、吉田は官邸の長い廊下をゆっくり歩いた。

 生筋の報告書を読み終えたばかりだった。


 研究は進んでいる。しかし、全く足りない。

 その“進歩の影”が、アメリカに恐怖を植えつけている。


 廊下の窓から夕焼けが差し込む。

 その光の中で吉田は、手にした電文の一節を思い返した。


 “Your nation’s spiritual resolve surpasses rational prediction.”

 (貴国の精神的耐性は合理的予測を超えている)


 精神的耐性——それは誉め言葉ではない。

 アメリカが“恐れている”ことの裏返しだった。


 吉田は小さく呟いた。


 「……誤解が、戦争を作る。」


 今、日本が直面している最大の敵は兵器ではなく、価値観のすれ違いだった。


 その食い違いが、少しずつ、確実に、最悪の結末へ向けて形を持ち始めている。



 ◇


 日が沈むと、東京の街は別の形でざわめき始める。

 空襲の途切れた時間帯、闇市へ向かう足音が増え、配給袋を抱えた人の波が細く流れる。

 誰もが家族を守るために必死で、そこに宗教的な意味合いなど欠片もなかった。


 ——守りたい。ただ、それだけだ。


 しかし、遠く海を越えたアメリカでは、この必死の姿が「狂信」「献身」と訳され、

 “宗教的行動原理”として資料に載せられつつある。それを知る者は、まだ日本国内にほとんどいない。 

 だが、空気の端々に「誤解されつつある気配」が漂い始めていた。


   ◇  ◇  ◇


 防衛省の会議室では、参謀たちが疲れた顔で資料を広げていた。


 「国民の士気は、まだ落ちてはいません。

  特攻経験者の家族も“国のために”という言葉を使っていますが……」


 「それを“宗教的献身”と解釈されるとはな」


 一人が苦笑混じりに言う。しかし、その笑いは長く続かない。


 別の参謀が小さく呟く。


 「……だが、向こうがそう理解してしまったら、こちらが何を言おうと届かん」


 宗教戦争をしているつもりなど、誰にもない。

 神道は祈りの文化であり、仏教は受容の文化。

 日本の戦いは、国土を守るための“現実的な防衛戦争”だ。


 なのに今、アメリカ側の文脈では、日本の行動は“宗教的熱狂”に塗り替えられつつある。


 そのずれは、政治的な齟齬として遅れて日本に跳ね返ってくる。


   ◇  ◇  ◇


 そのころ生筋有喜は、研究所内で報告書の束を閉じ、深く息を吐いた。


 ——こちらは必死に合理で積み上げている。

 ——だが、相手が合理で見てくれないなら、この努力はどう映るのだろう。


 分析官経由で届いた断片的情報には、アメリカ側の内部変化が微かに示されていた。


 “日本は宗教的精神国家”

 “特攻は聖行為の一種”

 “核を持つ前に止めねばならない”


 研究の成功率が低い今でさえ、そう誤読されている。

 完成に近づいたと“誤解された瞬間”、どうなるかは想像に難くない。


 生筋は、手元の数値を見つめる。

 反応は昨日より伸びた。しかし最低ラインには遠い。


 合理では、これを“失敗の連続”と評価する。

 だが恐怖に支配された相手が見れば、“迫りくる脅威”に見える。


 「……恐怖ほど、厄介なものはない」


 数字が作る恐怖。

 宗教誤読が生む恐怖。

 現実とは違う“物語”が、相手の判断を左右する。


 生筋は額を押さえた。


   ◇  ◇  ◇


 一方、街中では別の火種が芽を出していた。


 戦況の悪化に伴い、人々の口から「精神」「覚悟」という言葉が増えている。

 たとえば配給所の列で、老人が若者に言う。


 「日本人の心を忘れたらいかん。最後の一人まで——」


 それは単なる励ましだった。宗教的意図などない。

 しかし、別の場所ではこれが過激派の口で別の意味に変わる。


 「国を守るのは、精神だ。神州不滅を忘れたのか」


 「特攻は聖なる行いだ。命を惜しむな」


 本来、日本の文化はそんな単純な熱狂を歓迎しない。

 だが、疲れた国民の間には“精神論の高揚”が染み込みやすい。


 そして、この国内の小さな炎が、アメリカの誤訳と重なる。

 双方の誤解が、互いの恐怖を加速させる。


   ◇  ◇  ◇


 官邸では、吉田功が書類の山の間で立ち止まっていた。

 外から届いた情報を読むたび、胸の奥で同じ予感が強まる。


 ——これは、すれ違いだ。

 ——こちらは防衛戦争のつもりでも、

  あちらは“宗教的狂気”だと読む。


 言葉が通じるはずの相手と、言葉が通じない戦争に向かっている。

 それが“予感”ではなく“兆し”になり始めていた。


 吉田は机に手を置き、静かに目を閉じた。


 “合理”と“宗教”。

 “防衛”と“聖戦”。


 本来なら交わらないはずの二つの軸が、戦争の中で混ざり始めている。


 その歪みを一度生めば、外交は崩れる。

 判断の基準が互いに異なれば、和平の道は遠ざかる。


 吉田は、紙の端を強く握った。


 「……誤解と恐怖が、戦争を作る」


 今、両国はその入口に立っていた。



 ◇



 教会の裏庭では、今日も細い列が伸びていた。

 鍋から立ち上る湯気は弱々しいが、それでも街の人々には十分な“救い”だった。

 飢えた子どもたちは母の裾にしがみつき、

 目の前で揺れるスープの香りを、ただ息を止めて吸い込んでいた。


 宣教師マクレガーは、大鍋をかき混ぜながら静かに祈っていた。

 “腹を満たすことこそ、この子らの今日の救いとなりますように”。

 その視線の先で、子どもたちは列を保とうと必死で、誰一人、騒ごうとはしなかった。


 しかし、教会の門が荒々しい音を立てて開くと、空気は一変した。


 軍帽の影を落とした男が四、五名、堂々と現れた。

 胸を張り、腹の底から声を放つ。


 「天皇陛下、万歳ッ!」


 背後から、応じるように別の声が響く。


 「神風万歳ッ!!」


 その瞬間、空気が震えた。

 まるで見えない膜が割れたように、周囲の者たちが一斉にそちらを向いた。


 続いて、教会の入り口で別の数名がトランペットを持ち上げた。

 ——あの音色は、街のどこかで何度も聞いている。

 しかし、ここでそれを聴くとは誰も思っていなかった。


 突撃ラッパが、澄んだ金属音で空気を切り裂いた。


 だれかが息を呑んだ。

 母親たちは子を抱き寄せ、しかし次の瞬間、何が“正しい反応”なのか分からなくなる。


 日本人は、こういう時、体が先に動いてしまう。


 教会の裏庭にいた者たちの九割が、突き動かされるように背筋を伸ばした。

 空腹で足の震える老人が立ち上がり、少年が涙目のまま胸を張り、

 母親は抱えた子を片手に、もう片方の手をゆっくりと上げた。


 そして、突撃ラッパの音が止むと同時に、まるで合図でもあったかのように声がそろった。


 「万歳ッ!!」

 「ばんざぁぁいッ!!」


 建物が震えるほどの響きだった。


 宣教師マクレガーは、匙を落としそうになった。

 いや、落としたとしても誰も気づかなかっただろう。

 その場は既に“宗教的な熱狂”にも似た空気で覆われていた。


 彼は震える声で呟いた。


 "…They chose the trumpet over the warm soup in front of them."

 (……目の前の温かいスープよりも、ラッパを選んだ……)


 空腹と礼儀と伝統と軍の号令が、境目を失って混ざり合っていた。

 ここにいる誰も、宗教戦争などしていない。

 ただ、“体に染みた反応”が、一瞬のうちに皆の心を支配しただけだった。


 しかし、異国の宣教師にはそうは映らなかった。


 彼の目に映るのは——


 飢えて震えながらも、突撃ラッパ一つで姿勢を正し、手をあげ、声を揃える民衆。


 “この国には、別の熱が流れているのではないか”


 そんな恐怖が、胸の奥にゆっくりと根を下ろした。


   ◇   ◇   ◇


 宣教師の隣にいた日本人補助員の女性が、慌てて彼の腕を取った。


 「すみません、あの人たちは……その、気持ちが……」


 マクレガーはかすれた声で返した。


 "They answered the trumpet… before answering hunger."

 (彼らは飢えより先に、ラッパに応じた……)


 補助員は言葉を失った。

 彼女自身にも説明ができない。

 それは“文化”であり、“習慣”であり、“生き残るために身についた反応”だった。


 万歳を叫び終えた群衆は、我に返ったように再び列に戻り、

 何事もなかったかのようにスープの方へ歩き始めた。

 泣き疲れた子供は鍋を見て笑い、母親はその頭を撫でる。


 さっきの光景が幻だったかのように、静寂が戻る。


 だが、宣教師だけは立ち尽くしたままだった。

 彼の背中に薄い寒気が這い上がっていく。


 “この国は、いったい何なのだろう”


 彼ら自身はただ生きようとしているだけなのに、

 外から見ると、説明のつかない“何か”に映る。


 それは“狂信”ではない。

 “宗教”でもない。


 だけど“別の理”で動いているように誤解されても仕方がない光景。


 突撃ラッパ、万歳、飢え、祈り、礼儀、誇り——

 それらが一つの場で混ざる国を、アメリカ人がどう読み解くか。


 マクレガーは祈るように、胸の前で掌を合わせた。


 "Lord… help us understand this land, before fear blinds us."

 (主よ……恐怖に目を曇らされる前に、この国を理解する助けを与えたまえ)


 彼の祈りは、誰にも届かなかった。

 だが確かにその瞬間、この教会の裏庭で生まれた“誤解の種”は、

 遠くアメリカの議会へ届く未来の影を落とし始めていた。


 挿絵(By みてみん)



~宣教師マクレガーの本国への報告書~


 Mission Board, Washington D.C.

 敬愛する理事諸兄へ。


 本日、私は生涯忘れ得ぬ光景を見ました。

 我々が行う炊き出しに集まった日本の人々は、皆ひどく痩せ、

 空腹が人格そのものを削ってしまったかのようでした。

 用意したスープは薄く、パンも十分とは言えません。

 しかし、この国の飢えの深さからすれば、それでも“救い”に近いものと信じていました。


 ところが、配膳を始めようとしたまさにその時でした。

 教会の門が破られるように開き、数名の男たちが軍帽と古びた軍服をまとい、

 腹の底から響く声でこう叫んだのです。


 「天皇万歳!」

 「神風万歳!」


 ただの声ではありませんでした。

 それは、この国の地の底から湧き上がる何かのように感じられました。


 続いて、彼らと共にいた者たちが突撃ラッパを吹き鳴らしました。

 金属が空気を裂き、呼吸すら奪うような音でした。


 恐るべきは、その後の出来事です。


 飢えた民衆——子を抱く母親、足元も覚束ない老人、

 スープを待って震えていた子供までもが、その音に反応し、一斉に立ち上がったのです。


 食べ物に向けて伸ばされていた手が、同時に、揃って、天へと挙げられました。


 私は、その光景に言葉を失いました。

 彼らにとって今日を生きるはずの“糧”より、その号令のほうが優先されてしまうのです。


 (……目の前の温かいスープよりも、ラッパを選んだ……)


 私は、理解できませんでした。

 飢えは人間の最も強い衝動であるはずです。

 それを凌ぐものが存在するとは、思いも寄りませんでした。


 しかしその瞬間、私は確かに——ほんの一瞬ではありますが、

 彼らが“信仰の民”として反応しているのではなく、

 飢えと絶望の中で何かに取り憑かれた存在に見えました。


 まるで、悪魔の眷属のように見えたと、正直に記さねばなりません。


 もちろん、彼らは本来善良な人々です。

 子を抱く母は、食べさせたいだけ。

 老人は、生きるために列に並んでいただけ。

 ここにいる人々が“狂信者”であるなど、あり得ません。


 しかし、あの“集合的な動き”は、私の理解の外側にありました。

 この国の人々を縛っているのは宗教ではなく、

 もっと古い、もっと曖昧で、もっと深い“何か”なのだと感じます。


 アメリカにいる皆様に、どうかお伝えしたい。

 この国を理解するには、単なる軍事・政治・宗教の枠では足りません。

 私が今日見たものは、人々が極限に追い詰められたとき、

 文化と習慣と誇りが奇妙な形で結びつき “別の理屈”として振る舞う瞬間でした。


 その姿は、恐ろしくもあり、哀しくもあり、どこか祈りにも似ていました。


 どうか、我らが判断を誤らぬよう、主が理解の光を与えてくださることを願います。


 最後に、私自身の祈りを記して、この報告を締めます。


"Lord, grant me the wisdom to see this people not through fear,but through Your eyes."

(主よ、どうか恐怖ではなく、あなたの眼差しでこの民を理解する智慧をお与えください)


 敬具

 宣教師 A. マクレガー

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