15話
ワシントンD.C.の午前は、霞のような湿り気を帯びていた。
連日の会議で人いきれがこもった国防関連ビルでは、
今日もまた新しい報告書の束が無言で机に積み上げられる。
そこには日本の電力割当の“奇妙な変動”が記されていた。
特定の内陸地域で、軍需にも通信網にも該当しない電力使用が増加している。
CIAの前身組織・戦略情報局(OSS)は、この数字を“研究施設の稼働強化”と判断した。
資料の端には、アナリストの走り書きが残されている。
——This pattern suggests activation of a controlled facility.
(このパターンは“統制された施設の稼働”を示唆する)
根拠は薄く、証拠には程遠い。
だが、戦争下の推論は往々にして“薄い確度の積み重ね”で加速度的に重くなる。
OSSの報告は、朝のうちに議会の宗教右派へ届き、正午前には軍務派議員の机に置かれていた。
副読資料として添付されたのは、日本の宗教文化を誤って解釈した分析レポートだった。
神道の言葉、村落共同体の構造、先祖崇拝の概念。
それらを“宗教原理主義的体質”と誤読し、特攻の精神と直結させた乱暴なレポートだ。
だが、疲弊したアメリカ国内では、こうした極端な説明のほうが理解されやすかった。
午後、大統領府の非公式協議室では、政治家・軍務官僚・宗教界の一部代表が集まり、
公式議題には載らない“影の会合”が始まっていた。
「God won’t forgive hesitation against a nation of KAMIKAZE.
(神はためらう者をお許しにならない。カミカゼの民族に対してはなおさらだ)」
宗教右派議員の声は落ち着いていたが、含む熱量は鋭かった。
「彼らは死を恐れない。神に身を投げ出す民族だ。
核の完成が近いなら——手遅れになってからでは遅すぎる」
軍務派が続く。
「We estimate they reach a functional stage within a year.
(奴らは一年以内に核の“機能段階”に到達する可能性がある)」
「一年も日本が持つのか?」という旧来派の疑問は、すでに本質ではなくなっていた。
“持つ・持たない”ではなく、“持たせるために何をする民族か”。
その視点を宗教右派が提供したことで、流れが変わり始めていた。
ただひとり、戦略科学局の科学者が反論する。
「A premature nuclear device is the most dangerous.(未完成の核が最も危険なんです)」
「追い詰めれば、技術的暴発を引き起こす可能性が高まる。
日本は追い詰められた時に“合理では判断しない”。その点を無視すべきではない」
しかし、科学者の声は届きにくかった。
宗教右派と軍務派が、同じ方向を指し始めたからだ。
「They believe their death has divine meaning.(彼らは“死に意味がある”と信じている)」
「ならば完成前に、我々が終わらせる」
会議室の空気が濃く沈む。そして、最も重い一言が静かに置かれた。
「Proceed to prepare the preemptive option.(先制行使の準備に進め)」
これは正式決議ではない。だが、大統領府で“議題として扱うことを認めた”瞬間だった。
非公式同意——それは、実務上ほぼ決定に等しい。
宗教文化を誤読した資料が回覧される。
日本の精神構造が“神への献身と殉教願望”で説明され、事実より恐怖が前へ出る。
合理と宗教が同じ方向を向いた時、アメリカの意思決定は速い。
そして危うい。
——日本はまだ完成へ達していない。
——だが、近づいている。
その認識が、冷静さと恐怖心を同時に膨らませていった。
◇
食糧庫の扉を閉めたとき、棚の軽さが掌に残ったまま離れず、
奥様——める様はしばらくその場から動けない様子だった。
乾いた芋の皮がひび割れ、米びつの底が露わになり、野菜籠は空気ばかり抱えている。
その光景は、ここが“総理官邸”であるという事実を一瞬忘れさせるほど、
どの家庭とも変わらぬ疲弊を宿していた。
私は声をかけるべきか迷ったが、奥様が静かに振り返り、
わずかな躊躇いを胸の奥で飲み込んだような仕草をして、私を呼んだ。
「……お願いがあります。あの市場へ。できるだけ、目立たないように」
その言葉が示す場所の危険や混乱は、私もよく知っていた。奥様も承知しておられるのだろう。
それでも、家庭を守る者として、夫を支える者として、踏み越えねばならぬ境界があるのだと、
奥様の表情が物語っていた。私は深く頭を下げ、外套を手に取った。
官邸の裏口を出た瞬間、湿気を帯びた東京の夏の空気が胸へ入り込み、
わずかに焦げの匂いを含む風がスカートの裾を揺らした。
闇市が広がる通りへ向かう道は、空襲を避けて曲がりくねり、建物の陰を縫うように続いている。
歩みを急がせれば周囲に不審を悟られ、遅くすれば余計な視線を招く。
自然な速度を装い街を抜けると、人だかりとざわめきが一気に押し寄せてきた。
ここ数か月で倍以上に膨れ上がった闇市は、混乱と生活のぎりぎりが混ざり合う、
奇妙な熱気を帯びている。
まず目に飛び込んだのは芋の山だった。
粗末な木箱に無造作に積まれ、皮は乾き切ってところどころ皺を寄せている。
店主は威勢よく声を張り上げていたが、指に触れればすぐに本当の姿がわかった。
表面の柔らかさは鮮度ではなく、湿気を吸って劣化した証拠であり、
鼻を近づければわずかな酸味が漂う。
「姉さん、今日は上物だよ。家族に喜ばれるやつさ」
調子のよさを全面に出した声。しかし、芋の重さは嘘をつかない。
布袋に入れた瞬間の落ち着き具合、弾力、指先へ返る硬さが、
どれほど大切に扱われたかを教えてくれる。
私は慎重に形の良いものだけを選びながら、値段も値切らず店主へ渡した。
質にこだわれぬ時代でも、奥様の台所へ“腐りかけ”を持ち込むわけにはいかない。
次に米の店へ向かった。板に書かれた金額は正規の五倍。
米袋を触るとざらついた手触りで、米粒が角を失い丸く摩耗している。
何度も乾燥と加熱を繰り返した古米に特有の癖だ。袋を軽く叩くと、内部で沈む音がした。
嫌な予感が胸をよぎった。
——混ざってる。
大麦、小麦、屑米、あるいは芋や南瓜を乾燥させた“代用米”。
闇市で売られる米の多くは、そうした混ぜ物の質に左右される。
良い混ぜ物なら問題は小さいが、悪いものほど胃に負担がかかり、体を弱らせる。
奥様がご自分を後回しにしてでも夫——
総理を支えようとしている姿を思い出すと、選択に妥協などできなかった。
十以上の袋を順に触れ、指先が“これは大丈夫”と言うものだけを選んだ。
肉屋の屋台は、闇市で最も真実が見えにくい場所だ。
店先には黒ずんだ肉塊が吊られ、脂身すら本来の色を失っている。
肉の種類をあえて曖昧にし、照明を弱くして判断を鈍らせる手口は、
この数週間でさらに巧妙になっていた。
「今日はいいのが入ってるよ、お姉さん。牛じゃないけど、旨味は負けない」
牛ではない、と自分で先に言うあたりが、よほどの代用なのだろう。
猫、犬、狸、あるいはもっと正体の知れない獣肉。
だが、脂の層や繊維の走り方は、私の目をごまかせなかった。
危険な肉ではない、ただし上質でもない。官邸の厨房なら、煮込みにして出せば十分使える。
私は切り口の健全なものを選んだ。
代金を払いながら、胸の奥が痛む。
——総理官邸でさえ、これほどの苦労をして食材を集めねばならないのだ。
一体、街の母親たちはどれほどの思いでこの闇市に立っているのだろう。
列に並ぶ女性たちは、痩せた腕で子どもを抱きしめ、小銭を何度も握り直している。
戦場とは別の場所で、家庭という戦いがある。
田畑は燃え、海は危険に満ち、都市は崩れ——それでも人は明日を繋ごうと食を求め続ける。
その姿が胸へ焼きついた。
時間をかけて集めた食材を抱え官邸へ向かう帰り道、
私は扉の向こうで待つ奥様の姿を思い描いていた。
総理の心労がいかに重いか誰より知っている奥様は、自らの食事を後回しにし、
家を守ることを国を支える一つの務めと信じている。
そんな方が、闇市の品を前に「助かったわ」と微笑むしかない現実が、胸を締めつけた。
官邸に戻り裏口から台所へ入ると、奥様は静かに立っておられた。
私が包みを広げると、一つひとつ丁寧に手を添え、目を伏せたまま小さく息をついた。
「……これだけでも、ありがたいわ」
その声は、謝罪にも似ていた。
国を支える夫のために、自分の家庭がここまでやせ細っている。
その事実に、奥様は気づかぬふりをしていたのだろう。
だが、今日ばかりはその隙間から痛みがにじんでいた。
「国は……どこまで持つのかしら」
奥様は誰に言うでもなく呟き、すぐに首を振って微笑を作った。
「いえ、弱音はいけないわね。夫が国を支えているのだから、私が家を支えなくては」
その背筋の伸びた姿を見たとき、私は心の底で固く決意した。
——この家を守ろう。
どんな闇市でも、どんな行列でも、奥様の台所を絶やさぬように。
棚はまだ軽い。
だが今日運んだ食材には、わずかながら確かな“明日”の重みがあった。
この国のどの家庭も同じように背伸びをし、闇市を歩き、明日をつなごうともがいている。
その現実の中心で、める様は静かに包みを抱え、揺らぐ台所へと歩いていった。
1945年という時代に生き延びるための苦肉の策として炊かれた混合ご飯。
わずかな米に麦を混ぜ、刻んだ芋で量を稼ぎ、山で拾った栗を加える。
粒は不揃いで、味も一定しない。
それでも腹を満たし、明日へ繋ぐための現実的な一杯だった。
~おまけ~ 闇市の「混ぜ物」三大代表と、その見破り方
闇市が成立した理由は単純である。
“正規品が不足するとき、人は不足分を埋めようとする”。
問題は、その埋め方が常に良心的とは限らない点にあった。
当時の闇市では、物不足が進めば進むほど、「正規品に似せた、別物」 が増えていく。
以下は、記録にも残りやすく、また広く知られた“混ぜ物の代表格”三項目である。
【①米の混ぜ物:かさ増しの王者「雑穀・砕米・石」】
米は最も混ぜ物の多い商品だった。
まずは雑穀(ひえ・あわ・麦)。これはまだ良心的で、栄養もある。
問題は “砕米” と “石粒” の混入である。
砕米は精米時に出る破片で、正規流通では家畜用に回ることが多い。
これを白米と混ぜて売ると、見た目は似ていても炊き上がりが悪く、
ぱさつき・甘味のなさがはっきり出る。
さらに悪質な例では、
白く磨いた小石を1割ほど混ぜ込む 手口が横行した。
量り売りのため少しでも重さを稼げるからである。
◆見破る手法:
・米粒をつまみ、指で軽くはじく——石だけ“音が高い”。
・砕米は長さが不揃いで、透明感がない。
・本当に悪い業者は「やたら重い袋」を使う。
こうした知識は家庭の主婦層が最も敏感で、闇市の米屋は彼女たちを最も恐れていたという。
【②魚・肉の混ぜ物:正体不明の“転換食材”】
闇市で売られた肉類の多くは、
“何の肉か分からない” まま取引されていた。
軍用としての正規ルートが優先され、民需は完全に二の次となるため、
市場に出回る肉は常に不足していた。
そこで現れたのが、いわゆる 転換肉。
・豚肉と称して実は犬
・牛脂で和えて牛肉らしく見せた馬肉
・鮮度の落ちた川魚を海魚と偽装
などが典型例である。
日本人は「見た目の色」に弱いため、
表面だけ牛脂を塗りつけて光沢を出す という荒技まで記録に残る。
◆見破る手法:
・肉を指で押す。弾力がないものは“別物”。
・断面を嗅ぐ。牛脂の偽装は香りで破綻する。
・川魚は“骨の形状”が違う(Y字型が多い)。
めるのように「官邸の台所ですら闇市に頼る」状況では、
使用人がこの知識を持つことは、ほとんど命綱に近かった。
【③酒・調味料の混ぜ物:度数・色・味で偽る「化かし系」】
酒不足が深刻化すると、密造酒が市場に氾濫しはじめる。
多くは 工業用アルコールの薄め液 に、カラメル色素や味醂を足して“清酒風”に仕立てたものだった。
これは危険性も高く、失明例が公的に記録されているほどである。
また、醤油にも混ぜ物が多く、
・水で3倍に薄めて色を濃くしたもの
・出汁がわりに“麦芽糖”を混ぜた甘味醤油
・酸味で誤魔化すため酢を数滴添加
などが横行した。
◆見破る手法:
・酒:指につけて振る→工業用アルコールは匂いが鋭い。
・醤油:皿に広げる→薄め醤油は“縁が透ける”。
・甘味醤油:舌に乗せた瞬間の甘さが不自然に速い。
◆まとめ
闇市は生活のための“必要悪”である一方、混ぜ物という“もうひとつの戦争”が存在していた。
正規の検査がない以上、見破るのは結局、民間の知恵と経験でしかなかった。
日本の家庭を支えたのは、
戦場でも政治でもなく——こうした“見抜く力”だったのかもしれない。




